「海音!!」

 海音に向かって必死に呼びかける清涼な鶯舌が耳朶を打つ。その声で弾かれたように目を開ければ、どこから現れたのか虎たちの真後ろには息を切らした蛍流が立っていたのだった。

「蛍流さん……!」

 乾いた唇を舌で湿らせながら助けを乞うように名を呼べば、蛍流は安堵したように右目下の黒子ごと一瞬だけ相好を崩す。しかしすぐに顔を引き締めると、虎たちに向かって朗々と宣言したのだった。

「引け! この者はおれの大切な客人だ! 傷を付けることは一切許さんっ!!」

 蛍流の一声に、目前まで迫っていた虎たちがピタリと動きを止める。そして言葉が分かっているかのように、くるりと背を向けるとあっという間に滝壺へと戻って行ったのだった。
 あれよあれよという間の出来事に海音がその場で呆けていると、虎たちを見送っていた蛍流が歩み寄ってくる。

「無事か?」

 ゆるゆると顔を上げた海音だったが、未だ衝撃が抜け切れてなかったからか、小さく頷くことしか出来なかった。そんな海音に目を細めていた蛍流だったが、やがて詰問するように声を荒げる。

「何故、こんな危険なことをした! 部屋から出るなと言ったはずだっ!!」
「わっ、私、和華ちゃんを連れて来ようとして……」
「それならどうして青龍の神域に立ち入っている!? 危うく守護獣たちに殺されるところだったんだぞ!! お前はもう少し自分の身というものを大切に……」
「伴侶じゃない私は、何者でも無いんですよね!? それなのにどうして部屋に閉じ込めて、今も助けてくれたんですか!? 伴侶じゃない私がここに居たって、何も意味が無いのに……この世界では要らない存在なのに……助けなくても良かったのに……」

 緊張で張り詰めていた糸が切れたからか、海音の両目から涙が滲む。いくら手の甲で拭っても、涙は溢れるばかりで一向に止まらない。そのまますすり泣いていると、やがて頭から濃紺色の羽織を掛けられたのだった。

「悪かった。お前の気持ちも考えないで、酷いことを言ってしまって……」

 しゃくり上げながら首を左右に振れば、小さな嘆息を返される。そうして泣きじゃくる海音を、羽織の上から抱きしめてくれたのだった。

「お前はこの世界に来てからずっと必死だったのだな。自分の居場所を見つけようと藻掻き苦しんで……。和華の身代わりを申し出たのも、和華の役に立つことで自分の存在価値を見つけたかったのだろう?」
「わったし、ここで、何をしたらいいのかさえっ、わからなくてっ……。なんで、ここにいるのかもっ……! どこに行けばいいのかも、わからなくて……っ! 夢なら覚めて欲しいって、ずっと思ってて……! 本当はおうちに、帰りたいのにっ! お父さんとお母さんに、会いたいのに……っ!」

 皺一つない蛍流の白いシャツからは木蓮に似た優しい匂いがした。それが元の世界で眠る母親との思い出を想起させられて、ますます寂寥感で言葉が詰まってしまう。
 季節感を大切にしていた母親は、この時期になるといつも木蓮の香水を身に付けていた。病気を患ってからは消毒薬の臭いが気になるからと、パフュームオイルを好んで使うようになった。
 今でも母親と同じ香りを嗅ぐと恋しさで涙が溢れてしまうが、この世界には母親を身近に感じられるものが何も無い。それがますます海音の心に穴の空いたような気持ちにさせる。
 肩を震わせて涙に咽び続けていると、頭上から柔らかな声が落ちてくる。
 
「不安な気持ちを隠さなくていい。見ず知らずの世界に連れて来られてずっと心細かったのだろう。頼る者どころか、誰を信用したらいいのかさえ分からない。何もかもがはっきりしないこの世界で、自分がどう生きていけばいいのかさえ、皆目見当がつかない。先の見えない不安や心配で心細い気持ちになるのも当たり前だ。ここはお前が生まれ育った世界とは違う場所なのだから」
「でも……」
「この世界に居る意味が何も無いのではない。この世界に居る意味が何()を見つければいい。これから時間を掛けてゆっくりと……」

 そうして蛍流は海音の両頬を挟むように両手で触れると、流れる涙を指先で拭ってくれる。冷たい蛍流の掌が火照った頬に染み入り、昂る感情まで鎮めてくれたのだった。

「帰ろう。今はあの屋敷がお前の……海音の居場所だ」

 そうして海音の手を引いて歩き出した蛍流だったが、海音が動かないので不思議そうな顔をする。足元に目を向けたところで合点がいったのか、海音の目の前で背を向けるとその場で膝をついたのだった。