「定刻を過ぎても屋敷に来ないから迎えにきた。供はどうした? それから荷物も。身一つで嫁入りに来た訳では無いのだろう」
「あの、その、えっと……」

 咎めるような声色に何も答えられずにいると、また獣の唸り声が聞こえてきて反射的に身を縮めてしまう。そんな海音の側までやって来た青年は和傘を傾けて海音を入れると、濃紺色の羽織を冷え切った肩に掛けてくれたのだった。

「そう怖がらなくていい。おれがついている以上、この山に暮らす獣たちは一匹たりともお前に手出しをしない」
「あっ……」

 清涼感のある澄んだ低い美声から発せられる不相応な落ち着いた話し方。先程よりも柔らかな口調にゆるゆると顔を上げれば、すぐ目の前には鼻梁の整った青年の顔があった。目線を合わせようとしているのか、片膝をついて顔を寄せてきた青年の右目の下に小さな泣き黒子を見つける。
 
「理由を聞かせてくれないか。ずっと心配していた。突然、輿入れの日を三日も遅らせた上に、日没を過ぎてもやって来なかった。てっきり逃げられたとばかり思っていたのだぞ」
「す、すみません……。連れの者に荷物を持ち逃げされてしまって、追いかけていたら遅くなってしまって、それで一人で道を登っていたら転びかけて……足を挫いてしまって……」

 荷物を持ち逃げされた時のことを思い出して、悔しさが込み上げてくる。海音が華族の令嬢らしく振舞えていたのなら、相手に侮られることも無く、定刻通りに青年の屋敷に辿り着いていただろう。自分の不甲斐なさに再び涙が浮かぶ。
 言葉を詰まらせて嗚咽を漏らしていると、海音の身体を抱き寄せながら「それは辛かったな」と青年が慰めてくれたのだった。

「初めて来た不慣れな土地で、一人取り残されて心細かっただろう。ここからはもう大丈夫だ。おれが屋敷まで連れて行くからな」
 
 その言葉に海音の涙腺が崩壊する。「はぃ……」と涙声で答えれば、満足そうに青年は海音の頭を愛撫して笑みを零す。そして和傘を畳んで背を向けたかと思うと、「掴まれ」と海音を促したのだった。

「屋敷はここからもう少し先だが、足を痛めたのなら歩くのは辛いだろう。屋敷までおぶろう」
「大丈夫です。重いですし、これくらい我慢できます。汗や泥で身体も汚いですし、貴方の着物まで汚してしまうかもしれません……」
「ここまで歩いただけでも、嫁御寮は疲労困憊だろう。か弱い女人を背負って山道を歩くなど造作も無い。おれはそこまでやわな男じゃないからな。遠慮は無用だ。衣類も洗えばいい」

 嫁御寮、という言葉にピンとくる。海音の嫁ぎ先となる二藍山の山頂には、とある役目を担う男性が一人で住んでいると聞いていた。隠遁者のような暮らしを送っているが、海音とほぼ同年代だという若い男性が――。

(じゃあ、この人が私の夫となる人……)

 青年の背をまじまじと見つめていると、「躊躇っているのか?」と心配そうに声を掛けられる。

「このままではここで夜を明かすことになるぞ。早く掴まれ」
「あ、じゃあ、途中までお願いします……」

 軽く男性の背中に体重をかけたつもりが、次の瞬間には立ち上がった青年の背にすっぽりと負われていたのだった。

「嫁御寮はこんなにも軽いのか。このような華奢な女人がここまで一人で来たのかと思うと胸が痛む。……もう少し早く迎えに来るべきだったな」
「わざわざここまで迎えに来ていただけただけでも十分です。えっと……」
蛍流(ほたる)だ。これからよろしく頼む。()()
「……はい」

 偽りの名前に息苦しくなる。それでも初対面でバレなかっただけ成功と言えるだろう。
 けれどもここからが本番だ。海音の身代わり生活はこれで終わりじゃない。ここからがスタートなのだから。
 いつの間にか雨は弱くなっていたが、歩き出した蛍流には雨粒が当たっていた。海音は借りた羽織を頭にかければいいだけだが、このままでは雨に直接打たれている蛍流が風邪を引いてしまう。海音は蛍流が後ろ手に持っている和傘を取ろうと手を伸ばす。背負われている海音がもぞもぞと動いているから蛍流も気付いたのだろう。足を止めると、怪訝そうに背を振り返る。

「どうした?」
「傘を貸していただけませんか。このままでは蛍流……さんが風邪を引いてしまうので」

 蛍流は呆気に取られたような顔をしたかと思うと、どこか嬉しそうに相好を崩す。

「嫁御寮は優しいのだな。だが、おれは平気だ。風邪を引くことが無ければ、怪我を負うことも無い。こう見えても、この地を統べる()()だからな」
「それでも、水に濡れるのと濡れないのとでは気分も違ってきます。どうか私に傘を差させてください」

 海音の気持ちを尊重してくれたのか、蛍流が和傘を貸してくれたので海音は頭上に持ち上げると広げる。緋色の和傘は二人が難無く入れる大きさだった。
 それを蛍流の背に寄り掛かりながら、濡れないように傾ける。すでに蛍流の髪や着物は湿っていたが、やはりこのまま濡れ続けるのも気持ち悪いだろう。

「おれよりもお前が濡れないように傾けた方が良い。風邪でも引いたら大変だ」
「私は平気です。蛍流さんも足元気を付けてください。濡れた土で滑って転んだら危険です」

 それきり会話が途絶えると、海音は和傘に打ち付ける雨音と山道を登る足音、そして時折聞こえる蛍流の息遣いに耳をすませる。気付けば、両目から零れていた涙は引っ込み、恐怖と不安で粟立っていた心も凪いでいた。身を預けている蛍流から感じられる温もりも、心丈夫にさせている理由の一つかもしれない。

和華(わか)ちゃんや灰簾家の人たちは怖がっていたけれども、こんなに温かい人が冷たい人な訳、無いよね……)

 今朝も荷物を持ち逃げした日雇いの地元住民たちも、今代の青龍こと蛍流は人嫌いな上に冷淡だと、道すがら話していた。そんな人がわざわざ海音を迎えに来るはずが無い。きっと何かの間違いだろう。

(このまま、良い関係が築けたらいいな……)

 海音ではなく、和華としてでも良い。蛍流と過ごす時間が心地良いものであってくれさえすれば。
 願わくは、ここが海音の居場所になれば、どんなに幸せなことか。
 けれどもそんな海音の願いは、泡沫の如く、あっという間に砕け散ることのなってしまうのだった――。

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