(一番新しい日付は二年前なんだ……。この(ちがや)って言うのは名前?)

 一番下の新しい順から順番に人名らしき単語と年月日を眺めていた海音だったが、風雨に晒されて消え掛かっていた上段を見ていた時にハッとして目を留める。
 石碑の中央には最近彫り直したと思しき、大きな文字でこう記されていた。

『七龍が一柱・青龍。この国の水を司るは青龍とその形代也。この地に眠る選ばれし形代とその令閨をここに記す』

 たどたどしいながらも、灰簾家で学んだ知識を駆使してどうにか海音は読み上げる。刻印された言葉の意味に気付いた瞬間、海音の身体が総毛立ったのだった。

(これ……歴代の青龍とその伴侶に選ばれた人の墓石なんだ……)

 それならこの日付は没年月日で間違いない。この国に古くから存在するという青龍なら、当然その半身に選ばれる人間とその伴侶の数も相当数いるはず。青龍に選ばれたとしても、生きとし生ける者である以上、寿命には逆らえない。
 これはそんな役目を終えた青龍に選ばれた人間とその人間を支えた令夫人たちが眠る墓石なのだろう。水を司る青龍に選ばれた男女だから、水辺に最も近い場所に埋葬されたということか。
 知らなかったとはいえ、そんな歴代の青龍とその伴侶たちが眠る厳かな場所に勝手に立ち入っただけではなく、後先考えずに騒いでしまったことが悔やまれる。
 謝罪を込めて石碑の前で手を合わせると、心の中で謝罪を繰り返す。次に来る時は供花を持参しようと考えながら。
 その時、背後から獣の唸り声が聞こえてきたので、反射的に飛び上がってしまう。後ろを振り返れば、警戒心と怒りを剥き出しにした虎の群れが海音を睨め付けていたのだった。

(嘘でしょう……いったい、どこから……)

 屋敷を出た時は虎どころか、獣の気配さえ感じられなかった。そもそも獣の活動時間というのは、日暮らし頃から押し明け方に掛けての夜間ではないのか。それどころか虎が生息しているのは主に乾燥地帯であり、こんな標高が低い山に生息する虎など聞いたことが無い。

「グゥルルルゥ……」

 動物園の檻の中でしか見たことがない黄色と黒色の縞模様をした成獣の虎たちがゆっくりと近づいてくる。明らかに青龍とその伴侶たちの眠りを妨げた海音を標的として、今にも飛び掛かろうと狙いを定めているようでもあった。

「ひぃ……っ!!」

 叫びたくても喉からは引き攣った声しか出てこない。後ろに下がるが、すぐに墓石が鎮座する台座にぶつかって、尻餅をついてしまう。すぐに立ち上がろうにも腰が抜けて動けない。

「こっ、来ないでっ……!!」

 どうにか声を振り絞ってみたものの、蚊の鳴くような声が口から発せられただけであった。絶体絶命のピンチに、涙を流して助けを乞うことしか出来ない自分がもどかしい。こんなことで、この異世界でどう生きていけるというのか。身を守るものを探して虎から目を離さずに掌で近くを弄っていると、サイズが合わない草履を手に持っていたことを思い出して目線だけを動かして場所を確認する。虎を刺激しないようにそろそろと手を伸ばして草履を掴むと、虎に向かって思いっきり放り投げる。草履は放物線を描きながら飛んでいったものの、海音と虎の中間辺りに落下してしまう。
 それでも虎たちの意識が一瞬だけ草履に逸れたので、その隙に立ち上がると両手で裾を掴んで走り出す。

(今のうちに……!)

 伸縮性のある洋服ではなく重い着物姿だからか、どうしても歩幅が小さくなってしまう。加えて、治ったばかりの足首が再び鈍痛を生じ出したからか、普段よりスピードが出ない。地面を踏みしめる度にズキズキと痛む足に悲鳴を上げそうになりながらも、口を固く引き結ぶことでどうにか堪える。
 虎たちからの追跡を避けるように、草木を掻き分けて道なき森の中を駆け出したものの、すぐに目の前を切り立った岸壁に阻まれてしまう。

「そっ、そんな……!」

 どうにか降りられないか覗き込むが、草木が生い茂る森と滝壺から流れた川で出来たと思しき川が遥か真下にあるだけ。飛び降りるにはあまりにも距離があり過ぎる。覚悟を決めて身を投げたところで、当然、無事では済まさないだろう。別の逃げ場を探してもたもたしていると、後ろからは虎の叫喚が聞こえてくる。首だけを動かして見返すと、海音に追いついた先程の虎たちが怒気を露わにして距離を詰めていたのだった。

(お母さん、ごめんなさい……お父さんを一人にして。お父さんも、全然親孝行出来なくてごめんなさい……)

 憤怒の形相を浮かべる虎たちの大きく裂けた口と、そこから生える鋭い牙に戦慄する。元いた世界でも野生の虎が人を襲ったという海外ニュースをたまに聞いていたが、動物園や図鑑で見ていた虎たちしか知らなかった海音は恐怖を感じたことが無かった。
 長年、虎のことを少し大きな猫くらいに思っていたが、実際に間近で目にした虎の大きさと身体に比例するように伸びた鋭利な牙は、そんな海音の幻想を打ち砕くのに充分であった。小動物程度の大きさなら余裕で丸呑み出来そうな口と並みの刃物よりも大きな牙に襲われたら、海音なんてひとたまりも無いに違いない。
 恐怖心から嫌な汗で肌がベタベタしているのを感じつつも、海音はその場にしゃがんで懺悔をするように目を瞑る。

(和華ちゃん、ごめんね。何も役に立てなくて。ごめんなさい、蛍流さん……。優しくしてくれたのに、何もお返し出来なくて……)

 絶えず唸り声はすぐ近くから聞こえていた。それに呼応するように、海音の鼓動の音もはっきりと聞き取れるようになる。
 全てを諦めて虎たちの餌食になる覚悟を決めた時、爆発寸前といった空気を切り裂くような好音が耳に入ってきたのであった。