(私に出来ること……。蛍流さんの優しい一面を和華ちゃんに伝えること。そして私の代わりに蛍流さんの力になってもらうこと)

 和華に意中の相手がいることを知りながら、二人の仲を引き裂くような真似をするのはとても心苦しいが、それでも身代わりの海音では「青龍の伴侶」になれないと言われた以上、ここに海音がいても役に立つことは何も無い。
 そんな海音でも蛍流のために出来ること、それは蛍流が噂通りの人じゃなかったと和華に伝えて、伴侶に来てもらうこと。蛍流が冷酷無慈悲で人嫌いなじゃ無いと分かれば、きっと和華も「青龍の伴侶」になることを考え直してくれるに違いない。
 そうと決まれば善は急げだと、海音は手の甲で乱暴に両目を拭いて立ち上がる。文机の引き出しを開けて、紙と鉛筆を見つけると、蛍流への簡単な謝辞と本来の伴侶である和華を連れて来る旨を悪筆で書き記す。
 廊下に面した襖を開けて人の気配が無いことを確かめると、忍び足で玄関口に向かうが、廊下の角を曲がったところで、運悪くお茶の用意を整えた蛍流と鉢合わせをしてしまう。

「何をしているんだ?」
「お、お手洗いに、行こうかと……」
「厠なら反対側だ。奥座敷のすぐ側にある。方角が一緒だから案内するぞ」
「い、いいえ! 大丈夫です! 蛍流さんもこれから休憩ですよね!? 邪魔したら悪いので、一人で大丈夫です!」
 
 蛍流は急須と人数分の湯呑み茶碗を乗せた盆を持っていた。打ち合わせがひと段落ついたのか、これから一服するところなのだろう。蛍流にことを好き勝手言っていた役人たちを待たせたら、余計に変なことを言われてしまうに違いない。そう考えた海音は何度も首を左右に振るが、蛍流は納得がいっていないのか怪訝な顔をしていた。

「案内ぐらい大した手間ではない。遠慮せずについて来い」
「あっ! やっぱり部屋に居たい気分かもしれません。お手洗いはまた後で行きます。邪魔してすみません、では!」
「待て」

 早口で言い切って背を向けた海音だったが、蛍流の澄み切った低い声に呼び止められて振り返る。蛍流の長い指先が目元に触れたかと思うと、心配そうに顔を覗き込まれたのだった。

「目尻に涙が残っていた。……今まで泣いていたのか?」
「えっ……。いいえ、泣いていません」
「だが……」
 
 後ろめたさで目線を下に落とすと、蛍流が何かを言う前に足早にその場を後にする。蛍流に触れられた目尻には、今も蛍流の指先の感覚が残っているようでくすぐったい。着物の袖でゴシゴシと目尻を擦ると、辺りを見渡す。すぐに引き返して玄関に戻れば、また蛍流と遭遇してしまう。
 外に出るのはもう少し時間が経ってからの方がいいと頭では分かっていても、ここでグズグズしていたらまた昨晩のように慣れない山道で迷子になる。早く和華の元に行きたい焦りと自由に外に出られない苛立ちが浮かんでくる。

(そうだ……!)

 海音は抜き足で廊下を進むと、今朝方外に出た硝子戸までやって来る。硝子戸を開けて沓脱石の上の草履を履くと、音を立てないように注意を払いながら庭に出て行く。おそらく蛍流のサイズに合わせた草履なので、足の大きさが違う海音は歩く度に足元がふらついてしまう。明らかに海音の足にはぶかぶかだが、履かないよりはマシだろう。邪魔になったら、途中で脱げばいいだけ。本当はそうなる前に下山出来ればいいのだが……。

(必ず和華ちゃんを連れて来ます)

 そんな誓いを胸に海音は道なりに山道を下り始めたのだった。