「わぁ……!」

 海音が上げた感嘆の声に、浅葱色の蛇が首をめぐらせて海音を見つめ返してくる。その蛇は絵に描いたような龍の姿をしていた。
 目の前に現れた浅葱色の蛇は海音の何倍も大きく、そして屋敷よりも高さがあった。朝陽を浴びた浅葱色の硬い鱗がきらきらと輝く様子は、陽光を反射して水面が揺れて見える水陽炎のように幻想的であり、白銀の毛に覆われた長い尾が動く姿は細波に似て優雅。天に向かって枝葉のように伸びる角は、鹿と似た形をしているが、どこか研ぎ澄まされた鋭さを感じさせられる。人一人を飲み込むくらい容易そうな大きな口からは刃物を彷彿とさせる鋭利な牙が見えているが、恐怖というよりも龍の威厳を体現しているように思えたのだった。

「もう起きたのか?」

 元の世界で見聞きしていた浅葱色の龍に見惚れていると、その陰から蛍流が姿を現わす。龍に隠れて姿が全く見えなかったが、ずっとそこにいたのだろう。昨晩とは違って洋装姿の蛍流は、襟付きの白いドレスシャツと黒のスラックスを身に纏い、肩からは昨晩海音が借りた濃紺色の羽織を掛けていたのだった。

「身体は辛くないか? もう少し休んでたっていい」
「足の痛みももうすっかり治ったので大丈夫です。怪我の手当てをしてくださっただけではなく、布団まで運んでいただいてありがとうございます。湯たんぽまで用意していただいて……」

 深々と頭を下げれば、ふかふかの作土に覆われた茶色の地面に頭が付きそうになる。すると蛍流は微かな声で「……すまなかった」と謝罪を口にする。

「頭を下げなくていい。和華を拐かした賊と勘違いして刃物を向けただけではなく、か弱い女人に怪我まで負わせてしまった。謝って許されるとは思わないが、この詫びは必ずさせてくれ」
「そっ、そんな大した傷ではありません! 誰も身代わりが来るなんて思わないでしょうし……」
「いや、お前は悪くない。人の世でのおれの噂は知っている。分かっていながら、和華が身代わりを立てることを想定していなかったおれにも非がある。……おれ自身が直接和華を迎えに行ければ良かったのだがな」

 ゆるゆると頭を上げれば、蛍流は顔色を失っているようにも見えた。海音に怪我を負わせたことを後悔しているのだろう。和華の身代わりと知った後も、どうしてここまで海音を気にしてくれるのか。蛍流が手当てしてくれた首の傷に触れながら、海音は「あの!」と尋ねる。

「昨晩の私の話を信じてくれたんですか? 作り話とか嘘を吐いているとか思わないんですか?」
「どうしてそうなる?」
「だって、違う世界から来たとか、たまたま出会った青龍の伴侶である和華ちゃんに拾われたとか、そんなの普通はあり得ないって疑うものなんじゃ……」
「事情を話していたあの時のお前は曇りなき目をしていた。今でさえも……。それに本当に悪意のある者なら、とっくに清水が山から追い出している。万が一にもおれの身に何かあったら、この国の水の龍脈は枯れてしまうからな」
「龍脈……?」
「この国のことを何も聞かされていないのか?」
「この世界に来た日に和華ちゃんの身代わりになることを決めたので、この国のことや仕組みを聞く暇も無かったです。昨日までは和華ちゃんと同等の教養や知識を身に付けるのに手一杯でしたし……」

 後ろめたさと共におずおずと正直に打ち明ければ、蛍流は呆気に取られた顔をした後に「分かった」と頷く。

「それならこの世界の仕組みが分かる書物を数冊貸そう。これからこの世界で生きていく以上、常識的なことは知っていた方が良い。この地を守護するおれは外出も自由にままならないが、何の制約も持たないお前はこの山を降りて、国中を旅することだって出来る。今後のことを踏まえて、少しでも学んでおいて損は無い」
「えっ!? ここにいていいんですか!? てっきり入れ替わった罪を咎められて、追い出されると思っていましたが……」
「入れ替わりについては昨晩咎めた。あれで充分だ。それそもここから追い出されたところで、行く当てはあるのか?」
「それは……」

 一瞬だけこの世界に来て世話になった灰簾家が頭を過ぎったが、身代わりがバレてずこずこと帰った海音を温かく迎えてくれるだろうか。それこそ役に立たなかった罪で制裁を加えられてもおかしくない。それなら住み込みの仕事を見つけて、その日暮らしをするしかないだろう。贅沢は出来ないが、最低限の生活くらいなら送れるに違いない。

「仕事を見つけます。私でも出来るような住み込みの仕事を……」
「この国は余所者に厳しい。何かの拍子にお前がこの国の者じゃないと知られたら、どんな目に遭うか分からない。山を降りて住み込みで働くのなら、もう少し知識を蓄えてからの方が安全だ。それまでここに滞在してもらって構わない。山奥で不便なところもあるだろうが、住んでいる間は好きに寛いでくれ」
「ありがとうございます。でも、せめてお世話になっている間は、屋敷のことを手伝わせてください。掃除とか洗濯とか、何でもやります。居候のままでは申し訳ないですし、今日からでも早速……」
「その必要は無い。少なくとも、今日の分は全て終わっているからな」
「終わっている? あの、どなたがやってくださったのでしょうか……?」
「おれだ。……趣味みたいなものだからな、家事は。勝手に持ち出して悪いと思ったが、お前の振袖も裾や袖の泥汚れが目立っていたので、昨晩染み抜きのため預からせてもらった。止血に使っていた手巾もな。今は衣桁に掛けて、おれの部屋で乾かしている。後で部屋まで届けよう」
「すみません、そこまで気を遣っていただいて……」

 気遣いというよりも、むしろ暗にお前は必要ないと言われているようにも聞こえてきて、ますます居たたまれない気持ちになってしまう。分かってはいたものの、これで青龍の伴侶ではない海音の居場所がここにも無いことが明白になる。この先、蛍流の元を離れて一人で生きて行く際に、どこかに身を落ち着けられる場所を見つけられればいいのだが……。
 するとモールス信号のように長音と短音が連続する小さな風声が近くで吹いたかと思うと、おもむろに蛍流が背を向けていた浅葱色の龍を振り返る。
 海音に対して、何か言いたげな顔をしているように見える龍に向かって話し出したのだった。