名前を呼ばれたので顔を上げると、天然パーマの黒髪にメガネの男の人が立っていた。厚手のコートにマフラー、という寒さ対策の完璧な服装だ。息で白く曇ったレンズから覗く鋭くも優しげな瞳。その姿を見て、一瞬で思い出が蘇った。

「先生……」
 
 声が震える。寒さのせいか、それとも驚きのせいかはわからない。
 高校時代の元担任、数学の遠山先生だった。
 私は高校生の頃、数学の勉強に熱心だった。いや、正確には、先生に認められたくて必死だった。先生の授業が好きで、先生の教え方が好きで、何より先生自身が好きだった。
 先生に名前を呼ばれたくて、予習も欠かさなかった。本当は数学なんて苦手なのに、得意なフリをしていた。

 その時の思い出が、次々と頭に浮かぶ。授業中、黒板に書かれた方程式の意味がわからなくて、放課後に質問に行った時のこと。先生は丁寧に説明してくれて、その笑顔に胸がときめいた。もっと近づきたくて、もっと頑張ろうと思った。
 あの頃と変わらない先生が、今私の目の前にいる。
 
「こんな遅い時間に、どうしたんだ? しかも、そんな格好で」

 先生が心配そうに近づいてくる。
 私は、薄手のカーディガンとチュニック、ジーンズという軽装だったことに気づく。
 
「あ、ちょっと外に出たくなって……」
「それにしても、寒すぎるだろう」

 と言いながら、先生は自分のマフラーを外し、私の肩にかけてくれた。その温もりが、一瞬で心まで届くような気がした。