それは間違いなく、聞き覚えのある、琥珀の声だった──。


 咲良は目をうっすら開けて、顔を上げる。


 その時、頭上に閃光走る。


 『ズバ』っと何かを切り裂く妙音が響いた。


「ぐわあああー!」


 化け物のような断末魔が聞こえ、振り返ると、文字通りの化け物がそこにいた。


 暗がりに見えるのは大きな体の異形のもの。

 蜘蛛のように長い手足がうごめいている中心には鬼のような顔がついており、その口が悲痛な叫び声をあげている。


「ぐわああ、くそおぉ! 誰だ!?」

「ケガはないか! 咲良!」


 気が付くと、そばに琥珀が立っていた。


「琥珀っ!」

「遅れてすまない。危ないところだったな」


 琥珀は咲良の方を見ずに尋ねる。化け物から視線をそらさないように細心の注意を払って身構えているようだ。


「あれが俺の探していた悪いあやかしだ。ヒトや動物に化け、人間をあざむく。そして魂や肉体を喰らうのだ。大蜘蛛の化身。名はたしか、四条(しじょう)

「貴様はっ! 猫魈(ねこしょう)の琥珀だな。ぐぬぬ、よくも我が腕を……」


 四条と呼ばれる巨大な蜘蛛のような化け物は、琥珀に向かってすごみ、その体を大きく震わせた。数十本ある手足のうちの二本が、琥珀の攻撃によって切り落とされており地面に落ちていた。


「くうぅ、もう少しでこの小娘を一番いい味付けで喰えるところだったのに、邪魔しおって!」

「ふ、相変わらずの狂いっぷりだな」

「お前もあやかしならこの気持ちがわかるだろう? 負の感情に染まった人間は一番美味なもんだ。見ろ、あっちの娘も、この娘も食べごろだぞ?」


 四条の鬼のような形相の、そのあやしく光る黒い瞳に、咲良は見覚えがあった。


(あの眼! この前あった女の人だ!)


 先日の雨の日に会った女性。おそらくその正体が、この四条という化け物だ。あの時、獲物を探していたのかもしれない。あっちの娘というのはレイコのことだ。咲良とレイコはともにこの四条というあやかしに、まんまとおびき寄せられてしまったようだ。

 琥珀は四条に向かって吐き捨てる。


「あやかしだからっていっしょにすんな。反吐が出る」

「ふん、いっしょだよ。お前もその娘を喰うつもりで近づいたのだろう? 色恋に狂った人間をだますのはいとも容易いからな」

「色恋か。お前のような化け物にはわからないだろうよ。俺の里もずいぶんと荒らしてくれたな」

「きひひ、うまかったぞ。お前の仲間を何匹か喰ってやったな。あの食感は今でも思い出すよ」

「もう口をふさげ。貴様は里の(かたき)だ。今ここでその首を落とす!」

「やってみろ。お前の目も、さぞかし美味そうだ」


 琥珀が両手にぐっと力をこめると、その手の甲には神経が浮かび上がり、指の先からは鋭利な爪がにゅっと伸びた。

 そして、琥珀は目にもとまらぬ速さで一足飛びに四条のふところへと入り込んだ。

 勝負は一瞬だった。

 大蜘蛛の手足がちぎれ、乱れ飛び、最後に体の中心にあった頭が宙を舞う。


「ぐおおおぉ、無念……」


 四条の断末魔は小さなもので、琥珀も物言わずにたたずんでいた。

 バラバラになった大蜘蛛の身体は不思議な光に包まれて消え去った。

 その様子を唖然と眺めていた咲良は自分の名前を呼ばれて我に返る。

 琥珀が血相を変えて咲良に駆け寄ってきていた。


「咲良! 無事でよかった」

「琥珀、助けてくれてありがとう……」

「まさか俺の留守を狙われるとは、すまなかった」

「んーん、琥珀が来るって、私信じてた」

「やつは人間の欲望や恐怖に敏感なんだ。何かイヤなまやかしを見せられなかったか?」


 言い知れぬ不安が顔に書いてあったのだろうか。琥珀を心配させまいと笑顔を作った。


「大丈夫だよ。もう忘れた」

「そうか。よかった」


 琥珀は咲良のそばにかがみ、両手で彼女の頭を抱え込んでくる。


「本当に……よかった」


 安堵の声を繰り返し、咲良の頬に自分の頬を重ねてくる。

 しばらく、互いに見つめあい、咲良は琥珀に手を引かれて立ち上がった。


「ケガはなくとも、心は疲れているはずだ。早く戻って落ち着くまで休んだ方がいい」


 「あっ待って」と言って咲良はレイコの方を見る。

 四条のまやかしにあてられていたであろうレイコは、向こうで地面に伏していた。