「あいたたた」


 咲良は背中をそらせて、腰に手を当てた。

 学校のトイレで鏡に映った自分の顔を見ると、なんだか疲れた顔をしている。昨日布団で眠ってないせいだろう。

 一組しかない布団は琥珀が使っているため、咲良は床に段ボールと洋服を重ねた上で雑魚寝したのだ。

 だが、そんな苦労はささいなことだった。誰にも必要とされたことのない自分が、誰かのために何かできることが嬉しかった。

 琥珀の穏やかな寝顔を見ると気持ちがやすらぐ。今日も床に洋服を敷いて寝床にしようと考えていた。


(まさか二人でいっしょの布団で寝るわけにいかないもんね)


 咲良は想像しながら、思わず口元がにやけてしまう。


「ちょっとどいてよ。どんくさいブス!」


 その時、急にトイレに入ってきたレイコに、咲良は突き飛ばされた。トイレの壁に肩を強くぶつける。


「なに色気づいてんの、ブース!」

「キャハハハ!」


 レイコとその周りの女たちが甲高い笑い声をあげる。

 咲良は肩を押さえながら、その顔ぶれをじろりと見回す。


「何見てんだよ!? 早く行け!」


 すごすごとトイレを後にする。その時後ろでささやく声が聞こえた。


「あの子、あのシャツマジで着てんの!? ホントに持ってないんだね」


 あのシャツとは、咲良が今着ている切りっぱなしの半袖のことだろう。先日レイコにハサミで切り裂かれ、長袖から半袖になった。

 咲良はそこで思考を停止した。



 授業中は、ずっと琥珀のことを考えて過ごした。

 休み時間、後ろでレイコたちの話し声が聞こえてくる。


「それで、レイコ。どうなったの? 噂の彼とは」

「また今度深夜に公園で会うんだー。ほんと雰囲気がエモくてさー。大人なんだよ」

「なんか危なくない? 夜しか会えないって何やってる人なの。ホスト?」

「そんなんじゃないってー」

「あれ、大学生の彼とはどうなったの?」

「あーダメダメ、あんなやつ。とっくに別れた」


 咲良はレイコの話す内容に気も留めなかった。

 そして、終業チャイムが鳴ると同時にダッシュした──。



「おかえり、咲良」


 家に帰って蔵に入ると、琥珀が笑顔でそう告げてくれた。

 誰かに「おかえり」と言われるのは何年かぶりだった。琥珀がここにいることは今日もバレてないみたいで、胸をなでおろす。

 今朝の朝食の際に、使用人頭の原田にまた余計におにぎりを握ってもらっていた。琥珀が日中におなかがすいても困らないようにだ。おにぎりを置いてあった皿を見ると、しっかりと空になっている。


「咲良、学校は楽しかったか?」

「……うん」

「本当か?」

「うん……。あ、おにぎり食べたんだね」


 学校の話題が気まずかったので、咲良は不自然に話題を変えた。


「ああ、おいしかったぞ。心遣い感謝する」


 うつむいてる今の咲良の顔は、琥珀の目にはどう映っているのだろう。


「ところで咲良は勉強をしている身分だろう? 俺がいつまでもここにいると邪魔にならないか?」

「そ、そんなことないよ!」

「そうか。なんだか咲良に迷惑をかけてるんじゃないかと不安になるんだ」

「うん、テスト近いし勉強はしなきゃいけないけど、迷惑なんかじゃないよ、ぜんぜん」


 迷惑なんて思わないでほしい。むしろもっといてほしい。咲良は素直にそう思った。



 その後、夕食までの間もずっとお互いの話をした。


「咲良、今日は気を使わないでくれ。いっしょに御膳を頂こう」


 琥珀は、昨日の晩に咲良がおにぎりしか食べなかったことを気にかけて、案じてくれているようだ。


「昨日より大きいおにぎり作ってもらったから大丈夫だよ!」

「無理するな。ほら」


 琥珀はそう言って、咲良の目の前に箸を差し出してくる。そこには里芋の煮つけが器用にはさまれている。

 突然『あーん』してもらう格好になり咲良は一瞬たじろいだが、素直に口に入れた。


「う、うん、おいひいね」

「ここの食事は俺の口にも合うぞ。食べてる物はだいたい似てるな」


 箸を器用に使って口に運ぶ琥珀。話を聞くと、常世にも箸や茶碗など人間社会と同じような道具があるそうだ。