春雷が過ぎた頃、桜の春衣を纏ってやってきたそれは、
自分にはあまりにも遠くて、愛してはならない存在だった。
それは、いつまでも私を春に閉じ込めて、決して離してはくれなかった。そう。離してはくれない。


「杏、怖いの?」
小鳥の囀りのような澄んだ声で名前を呼ばれる。
「都こそ、怖気付いてるの?」
「まさか。武者震いだよ。」
強がっちゃって。かわいい。
ここは東京の御茶ノ水のホテル。の最上階。
大都会。今から都と32階から飛び降りる。
飛び "降りる" なんて言っても、当然着地なんか出来たものじゃないけれど。
数日前。確か木曜日辺りだったと思う。
都に死にたいって言われたから、こうしてついてきてあげた。
一緒に死んで欲しいって、永遠を作りたいだなんて言われたから。
正直、今死ぬのは少し惜しいな…。と思った。
丁度来週の月曜日に、スタバの新作が出るのに。
一緒に飲もうねーとかって都と約束してたやつ。
ポスターを見るだけで甘酸っぱい香りがするような、
桃色で淡いサクラのフラペチーノ。
けど都が今日、今から死にたいなんて言うから、しゃーないよね。
スタバ以外に特別やり残したことなんて何一つないし、別にいつ死のうがどうでもいい。
でもこの先病気とかストレスとかで死ぬのはなんだか悔しいから、今飛び降りよう。
太ももを通り抜ける春風が心地よくて、命日になるには少しもったいないくらい、いい日。
「ねえ、杏。私と永遠になってくれる?」
なんだ。やっぱり怖いんじゃん。
「都とならね。お前のために死ぬのは、別に惜しくないや。」
そういうと都は頬を、そっとサクラ色に染めた。
「杏、キスして。ハグして。」
少しワガママっぽく強請る言い方は、ずっと変わってないみたい。
「はいはい。とびっきり濃厚なやつね。」
都の薄い唇に触れて、ベロを入れ込む。
吐息混じりに喘ぐ都は、なんだかわざとらしかった。
銀の糸を引きながら離れた唇は、少し寂しそうに見えたけど、ここはあえて知らないフリをする。
骨が折れる程に強く身を抱き合って、いくつか誓い合う。
「私か杏が永遠になりきれなくて、死にきれなくても、ちゃんと後を追ってね。」
「うん。でもその言い方じゃ、私が生き残っちゃうみたいじゃん。」
「ほんとだ。2人で永遠になろうね。」
「うん。」
「成仏できなくても、怒らないでね。」
「うん。都もね。」
「私の事、忘れないでね。ずっと愛してね。私もそうするから。」
「何?私の事信用出来ないの?」
あまりにもしつこく心配してくるから、ちょっと悪戯っぽく言ってやった。
「そうじゃない。これは誓いだよ。杏。」
「そっか。」
「返事は?」
「もちろん。」
「じゃあ準備はいい?」
心臓が暴れ回ってる。
「ちょっと待って。」
都に愛してるよって、ありがとうって言わなきゃ。
途端に、窒息によく似た息苦しさが、肺を、喉を縛った。
悲しくないし、涙は出なかった。
だけど、今伝えなかったら二度と言えないから。
呼吸を整えて、都に向き直る。
都の目に映る東京の街は、少し潤んで輝きを増していた。
「都、愛してるよ。ありがと。」
言い切ったと同時に、抱きしめられて、バランスを崩して、落ちた。
意識を失う数秒前に、都が私に囁いた。
「杏、死んでくれてありがと。永遠に愛してるよ。」
私たちの17年間の短い人生はこれにて終了。
あぁ。幸せ。