先月は怒涛の忙しさだったが、八月になると保育園関係のイベントは特になく、悠は大会に向けてスケボーに打ち込むことができた。
大会当日の朝。わたしたちは桜舞駅で待ち合わせをした。
雨の心配もなく夏のからっとした青空が広がっている。
大会が開催されるのは、T市にあるKMスケートパーク。
通称KMパークに行くためには、桜舞駅から金白駅に行き、そこで電車を乗り換えなくてはならない。
金白駅からは、快速電車が出ていて三十分ほどでT駅に着く。
約束の時間より早く着いたわたしは、駅前で待っている間、昨日、悠からもらった人参ジュースを飲んだ。
悠がはまっているこの人参ジュース。彼がくれるのでわたしもいつの間にか普段からよく飲むようになった。
無添加で体に良くて美容効果まであるらしい。
人参ジュースを飲んでいたら、ふいに、ごほごほと咽せてしまった。
そのとき。「晴、大丈夫?」と声がして悠の手が優しくわたしの背中をさする。
すぐに咳はおさまり「うん。もう大丈夫、ありがと」と、答えると「もしかして、今まで無理して飲んでくれてた?本当は人参ジュースきらいだった?」と、悠が心配そうな表情をした。
「ちがうちがう。たまたま咽せただけ」
わたしが誤解を解くと、「なら良かった」と彼がほっとした顔をして笑う
「悠って面白いね」
「ん?何が?」
「だって彼女に人参ジュースを毎回あげる彼氏って、悠の他にいないと思う」
「そう?俺は好きなんだけどなぁ。それに晴って兎みたいで可愛いじゃん」
「いや、兎って人参ジュースは飲まんし。それとも寂しがり屋ってこと?」と、わたしはわざと怒ってふくれて見せた。
「たしかに」と、悠がからから笑う。
「そんなふうに言うなら、もう連絡返さないとこっかなぁ」と、わたしが意地悪を言うと「ごめんごめん。晴から連絡が返ってこなかったら寂しくて俺が死んじゃう〜」と、悠が慌てた。
そんなやりとりが面白くて、わたしがくすりと笑うと悠もつられて笑顔になる。
金白駅に着くと、「パン屋に寄ってきたい」と悠が言ったので、駅を出てすぐのパン屋に向かった。
悠はあんバターを二個買った。
「朝から二個も食べるの?」
「そんな訳ないじゃん。一個は晴のぶん。前にここのあんバターは世界一うまいって言ってただろ」
どうやら悠はだいぶ前に、わたしが言ったあんバターの話を覚えててくれたようだ。
「あ、ありがとう。でも朝ごはん食べてきたし。さっき人参ジュース飲んだから今は食べれないかも」
こんなことなら朝食を抜いてこれば良かった。
「大丈夫大丈夫、そうかなーと思ってた。俺が大会の間は暇だろ。屋外パークだから飲食できるし、あんバターでも食べて待ってて」
わたしを気遣って飄々としている悠に、これから自分はスケボーの大会なのに緊張しないのだろうか。なんでこんなに落ち着いているのだろうと不思議だった。
わたしなら緊張してご飯も喉を通らない。悠の能天気さを少し羨ましく思う。
金白駅前の交差点で、横断歩道の信号が点滅している。
そのとき、一台のバイクが猛スピードで走ってきた。
スピードを緩める気配がない、信号で止まる気がないのだろうか。
ふと交差点を見ると、点滅している信号を渡ろうとする男の子の姿が見えた。
危ない、と思ったが咄嗟の出来事すぎてわたしは声すら出ない。となりで悠が持っていたスケボーを捨てて駆け出している。
バイクと男の子がぶつかる寸前のところで、悠が男の子をうしろから抱きしめて止めた。
バイクは横断歩道にブレーキ痕をつけて、うるさい音を立てて止まる。
悠が咄嗟に止めていなければ、男の子は轢かれていた。
男の子は何が起こったのかわからず、パニックになって泣き出す。
黒い服を着たバイクの男性が、バイクから降りると悠と男の子に近づいていく。
そして、「危ねえだろ!死にてえのか」とふたりを怒鳴りつけた。
「すみません。気をつけます」と、悠が男の子の背中をさすりながら頭を下げる。
「死ねよ。くそがよ」
そう言ったあとバイクの男性は、悠の近くにスケボーが落ちてるのを見つけて、さらに暴言をつづけた。
「お前スケボーやってんのか?くそだせえ。スケボーって音がうるせえし。道路の横走ってるやつとかいてくそ迷惑なんだよ。常識がねんだよバカがよ。きっとなんも苦労もせず生きてるとそうなるんだろうな」と吐き捨てて見下した目で、バイクの男性は悠を睨みつける。
悠はそれでも頭を下げている。
そのとき。わたしは自分でも信じられないほど頭にかっと血が昇った。
次の瞬間。「ふざけるな!今だって彼が止めてなかったら、あんたが子どもを轢いてたじゃない!何が常識がないだ!全部自分のことじゃん」と、激怒しわたしはバイクの男性を睨みつけた。
もっと、めちゃくちゃ言ってやりたい。ぜんぜん足りない。
お前のバイクのほうがうるさい。迷惑で危ない。
悠はおじいちゃんの悲しい過去を乗り越えて、苦しみながらここまで頑張って生きてきた。
保育だって能天気だけど、子ども思いに頑張ってきた。
スケボーだって、悠がマナーを悪くしてる姿など見たことがない。
お前が悠を悪く言う資格なんてないんだ。
でも、その全部を言葉にできず、わたしの目から涙だけがこぼれ落ちる。
こんなときに、うまく言葉にできない自分が悔しい。こんなやつに悠を悪く言われて悔しい。絶対に許せない。
「あ?なんだ、このブスが」と、バイクの男性が私に近づいてきたとき。
「おい」と、悠の低い声がした。
普段、温厚な悠からは今まで聞いたことのない、その声にわたしは驚く。
わたしと悠は人並みにケンカもしてきたが、だいたい怒るのはわたしのほうで悠が怒ることはほとんどない。
怒っても、このような明らかに激昂している彼を見たことがなかった。
バイクの男性が悠に近づく。
悠はまったく目を離さない。
静かに怒りがはっきりと伝わる目で悠が睨み返す。
悠は本当に怒ったとき、わたしのように捲し立てるのではなく、静かに沸々と怒るのだと知った。
次の瞬間。
ベキッと鈍い音がした。
悠は腹を思いっきり殴られたのだ。
しかし、痛がったのはバイクの男性のほうだった。
「うっ、いってぇ」と、右の拳をほどくバイクの男性。
「素人がいきなり人のことを殴るとそうやって拳を怪我するんだよ」と、悠が低い声で言った。
「く、くそが。お前何かやってんのか」
痛そうに右手首を、左手で押さえながらバイクの男性が言った。
「ずっと空手やってた」
そう悠が言ったとき、バイクの男性の気持ちが引いたのがわかった。
悠は幼い頃から、おじいちゃんに勧められて空手道場に通っていた。
スケボーに打ち込みたいという理由で空手はやめちゃったけど、悠の硬い腹筋は今でも健在なのだ。
気がつくと騒ぎを聞きつけて周りに人が集まってきている。
それに気づいたバイクの男性は足早に、「お前、覚えてろよ」と吐き捨てバイクに乗って行ってしまった。
そのあと「びっくりしたね。怪我してない?」と、わたしと男の子に話しかける悠は、さっきの激昂が嘘のようにいつもの彼に戻っている。
男の子が怪我をしていないか確認してから「横断歩道は気をつけて渡るんだよ」と、悠が言うと、男の子はうなずいてお辞儀してから信号を渡って行った。
わたしは、しばらく気持ちが収まらず涙が止まらなかった。
悠は、そんなわたしの涙を指で優しくふいてくれた。
バカにされ暴言を吐かれたのは悠なのに、彼は泣きじゃくるわたしの背中を優しくさする。
わたしは悠が心無い言葉を言われることが、その言葉が自分に向けられるよりも許せないのだとわかった。
「晴、そろそろ行かないと」
悠が電車の時間が迫っていることに気づく。
わたしたちは電車に乗ってT市に向かった。
電車の中でも、わたしがもやもやしていることに気づいた悠が手をぎゅっと握ってくれた。
悠と手を繋ぐと安心できる。ぴったりはまってしっくりくるのだ。
彼のぬくもりを感じ、わたしの心は落ち着いていく。
ありがとう、悠。
悠には人に心のあたたかさをわけてあげれる優しさがある。わたしとはちがう。
そんな悠には必ず幸せになってほしい。
大会当日の朝。わたしたちは桜舞駅で待ち合わせをした。
雨の心配もなく夏のからっとした青空が広がっている。
大会が開催されるのは、T市にあるKMスケートパーク。
通称KMパークに行くためには、桜舞駅から金白駅に行き、そこで電車を乗り換えなくてはならない。
金白駅からは、快速電車が出ていて三十分ほどでT駅に着く。
約束の時間より早く着いたわたしは、駅前で待っている間、昨日、悠からもらった人参ジュースを飲んだ。
悠がはまっているこの人参ジュース。彼がくれるのでわたしもいつの間にか普段からよく飲むようになった。
無添加で体に良くて美容効果まであるらしい。
人参ジュースを飲んでいたら、ふいに、ごほごほと咽せてしまった。
そのとき。「晴、大丈夫?」と声がして悠の手が優しくわたしの背中をさする。
すぐに咳はおさまり「うん。もう大丈夫、ありがと」と、答えると「もしかして、今まで無理して飲んでくれてた?本当は人参ジュースきらいだった?」と、悠が心配そうな表情をした。
「ちがうちがう。たまたま咽せただけ」
わたしが誤解を解くと、「なら良かった」と彼がほっとした顔をして笑う
「悠って面白いね」
「ん?何が?」
「だって彼女に人参ジュースを毎回あげる彼氏って、悠の他にいないと思う」
「そう?俺は好きなんだけどなぁ。それに晴って兎みたいで可愛いじゃん」
「いや、兎って人参ジュースは飲まんし。それとも寂しがり屋ってこと?」と、わたしはわざと怒ってふくれて見せた。
「たしかに」と、悠がからから笑う。
「そんなふうに言うなら、もう連絡返さないとこっかなぁ」と、わたしが意地悪を言うと「ごめんごめん。晴から連絡が返ってこなかったら寂しくて俺が死んじゃう〜」と、悠が慌てた。
そんなやりとりが面白くて、わたしがくすりと笑うと悠もつられて笑顔になる。
金白駅に着くと、「パン屋に寄ってきたい」と悠が言ったので、駅を出てすぐのパン屋に向かった。
悠はあんバターを二個買った。
「朝から二個も食べるの?」
「そんな訳ないじゃん。一個は晴のぶん。前にここのあんバターは世界一うまいって言ってただろ」
どうやら悠はだいぶ前に、わたしが言ったあんバターの話を覚えててくれたようだ。
「あ、ありがとう。でも朝ごはん食べてきたし。さっき人参ジュース飲んだから今は食べれないかも」
こんなことなら朝食を抜いてこれば良かった。
「大丈夫大丈夫、そうかなーと思ってた。俺が大会の間は暇だろ。屋外パークだから飲食できるし、あんバターでも食べて待ってて」
わたしを気遣って飄々としている悠に、これから自分はスケボーの大会なのに緊張しないのだろうか。なんでこんなに落ち着いているのだろうと不思議だった。
わたしなら緊張してご飯も喉を通らない。悠の能天気さを少し羨ましく思う。
金白駅前の交差点で、横断歩道の信号が点滅している。
そのとき、一台のバイクが猛スピードで走ってきた。
スピードを緩める気配がない、信号で止まる気がないのだろうか。
ふと交差点を見ると、点滅している信号を渡ろうとする男の子の姿が見えた。
危ない、と思ったが咄嗟の出来事すぎてわたしは声すら出ない。となりで悠が持っていたスケボーを捨てて駆け出している。
バイクと男の子がぶつかる寸前のところで、悠が男の子をうしろから抱きしめて止めた。
バイクは横断歩道にブレーキ痕をつけて、うるさい音を立てて止まる。
悠が咄嗟に止めていなければ、男の子は轢かれていた。
男の子は何が起こったのかわからず、パニックになって泣き出す。
黒い服を着たバイクの男性が、バイクから降りると悠と男の子に近づいていく。
そして、「危ねえだろ!死にてえのか」とふたりを怒鳴りつけた。
「すみません。気をつけます」と、悠が男の子の背中をさすりながら頭を下げる。
「死ねよ。くそがよ」
そう言ったあとバイクの男性は、悠の近くにスケボーが落ちてるのを見つけて、さらに暴言をつづけた。
「お前スケボーやってんのか?くそだせえ。スケボーって音がうるせえし。道路の横走ってるやつとかいてくそ迷惑なんだよ。常識がねんだよバカがよ。きっとなんも苦労もせず生きてるとそうなるんだろうな」と吐き捨てて見下した目で、バイクの男性は悠を睨みつける。
悠はそれでも頭を下げている。
そのとき。わたしは自分でも信じられないほど頭にかっと血が昇った。
次の瞬間。「ふざけるな!今だって彼が止めてなかったら、あんたが子どもを轢いてたじゃない!何が常識がないだ!全部自分のことじゃん」と、激怒しわたしはバイクの男性を睨みつけた。
もっと、めちゃくちゃ言ってやりたい。ぜんぜん足りない。
お前のバイクのほうがうるさい。迷惑で危ない。
悠はおじいちゃんの悲しい過去を乗り越えて、苦しみながらここまで頑張って生きてきた。
保育だって能天気だけど、子ども思いに頑張ってきた。
スケボーだって、悠がマナーを悪くしてる姿など見たことがない。
お前が悠を悪く言う資格なんてないんだ。
でも、その全部を言葉にできず、わたしの目から涙だけがこぼれ落ちる。
こんなときに、うまく言葉にできない自分が悔しい。こんなやつに悠を悪く言われて悔しい。絶対に許せない。
「あ?なんだ、このブスが」と、バイクの男性が私に近づいてきたとき。
「おい」と、悠の低い声がした。
普段、温厚な悠からは今まで聞いたことのない、その声にわたしは驚く。
わたしと悠は人並みにケンカもしてきたが、だいたい怒るのはわたしのほうで悠が怒ることはほとんどない。
怒っても、このような明らかに激昂している彼を見たことがなかった。
バイクの男性が悠に近づく。
悠はまったく目を離さない。
静かに怒りがはっきりと伝わる目で悠が睨み返す。
悠は本当に怒ったとき、わたしのように捲し立てるのではなく、静かに沸々と怒るのだと知った。
次の瞬間。
ベキッと鈍い音がした。
悠は腹を思いっきり殴られたのだ。
しかし、痛がったのはバイクの男性のほうだった。
「うっ、いってぇ」と、右の拳をほどくバイクの男性。
「素人がいきなり人のことを殴るとそうやって拳を怪我するんだよ」と、悠が低い声で言った。
「く、くそが。お前何かやってんのか」
痛そうに右手首を、左手で押さえながらバイクの男性が言った。
「ずっと空手やってた」
そう悠が言ったとき、バイクの男性の気持ちが引いたのがわかった。
悠は幼い頃から、おじいちゃんに勧められて空手道場に通っていた。
スケボーに打ち込みたいという理由で空手はやめちゃったけど、悠の硬い腹筋は今でも健在なのだ。
気がつくと騒ぎを聞きつけて周りに人が集まってきている。
それに気づいたバイクの男性は足早に、「お前、覚えてろよ」と吐き捨てバイクに乗って行ってしまった。
そのあと「びっくりしたね。怪我してない?」と、わたしと男の子に話しかける悠は、さっきの激昂が嘘のようにいつもの彼に戻っている。
男の子が怪我をしていないか確認してから「横断歩道は気をつけて渡るんだよ」と、悠が言うと、男の子はうなずいてお辞儀してから信号を渡って行った。
わたしは、しばらく気持ちが収まらず涙が止まらなかった。
悠は、そんなわたしの涙を指で優しくふいてくれた。
バカにされ暴言を吐かれたのは悠なのに、彼は泣きじゃくるわたしの背中を優しくさする。
わたしは悠が心無い言葉を言われることが、その言葉が自分に向けられるよりも許せないのだとわかった。
「晴、そろそろ行かないと」
悠が電車の時間が迫っていることに気づく。
わたしたちは電車に乗ってT市に向かった。
電車の中でも、わたしがもやもやしていることに気づいた悠が手をぎゅっと握ってくれた。
悠と手を繋ぐと安心できる。ぴったりはまってしっくりくるのだ。
彼のぬくもりを感じ、わたしの心は落ち着いていく。
ありがとう、悠。
悠には人に心のあたたかさをわけてあげれる優しさがある。わたしとはちがう。
そんな悠には必ず幸せになってほしい。