四月から、三人の新人保育士が増えた。


 午後七時から、『和味』という保育園から近い居酒屋で、今夜は新人歓迎会である。


 私は六時までの勤務だったので、。明日の保育準備をしてから向かうと、ちょうど七時に和味に着いた。


 和味は保育園に通っている、歩夢君の祖父母、つまり真希さんのご両親が夫婦で営んでいる居酒屋なのだ。


 入り口のドアを開けて店に入った瞬間、聞き覚えのある声が飛んできた。


 「あ、晴先生。いらっしゃい。」


 声のしたほうを見ると三十代くらいの綺麗な女性店員が立っていた。真希さんだ。


 「こんばんは」


 私は、会釈して挨拶する。


 奥の台所で料理を作っている、真希さんのお父さんとお母さんも、私に気づくと微笑んで会釈をした。


 去年、歩夢君が四歳児の時は、私が担当の保育士だったので真希さん一家とは面識が深い。


 「あれ?歩夢君は?」


 姿が見えなかったので、気になって訊ねた。


 「あの子なら、今は台所の奥にいるんじゃないかしら。それより、晴先生。去年はお世話になりました」と、頭を下げる真希さん。


 「いえいえ、こちらこそ。至らないところもあったと思います」


 「歩夢ったら、去年は大変だったの。晴先生がいないと保育園に行かないって、ごねちゃって。なんとか連れてって晴先生がいてくれた時はどれだけ安心したか。晴先生がいない日は、ママとバイバイしないってひっくり返って怒っていたのよ」


 駄々をこねる歩夢君の姿が想像できる。


 今年、悠のクラスになってからは、そのような姿はなく落ち着いて朝の登園ができているので、私は歩夢君の成長を密かに感じ感慨深かった。


 保育士の私にとっては仕事だけど、親は、どれだけ仕事で疲れていても子育てから逃げることができない。


 世間から見て、我が子なんだから当たり前だとしても、、子育てというものは本当に凄いことで、私は親を尊敬している。


 「真希さんは、いつも子育てを本当に頑張ってると思います。歩夢君に寄り添って。だから、歩夢君が安心して真希さんに甘えれるんだと思うんです。ママって凄いなって尊敬してます」


 「それなら晴先生もよ。保育園の先生っていつも凄いわ。子どもたちみんなのことを大切にしてくれて」と、真希さんは微笑んで言った。

 
 「そんなこと言ってもらえて嬉しいです。ありがとうございます」


 「晴先生が担当から変わってどうしようかと思ったけど、今は悠先生に歩夢が懐いてて助かってるわ。悠先生って元気にたたかいごっこしてくれるじゃない。男の子の遊びよね。あれが歩夢も好きみたい。悠先生ってまるで従兄弟のお兄ちゃんみたいだわ」


 真希さんに、悠が褒められると私も嬉しい。


 従兄弟のお兄ちゃんという表現が、妙に、悠にしっくりきて私はくすりと笑った。


 「あ、そういえば」と、真希さんが何か思い出して話を切り出す。


 「この前、晴先生と悠先生を駅で見かけたわ」


 私は、胸がどきっとした。


 「二人を見てると私まで若返った気分になるの。羨ましいわ」


 私の、額が一気に熱くなる。


 「え。あ、あの。変なことやってなかったですよね?」


 「ふふふ。安心して。二人で仲良く歩いていただけよ」


 私は、ほっと胸を撫で下ろす。


 「恋人繋ぎしてね」


 「ううう…」


 悠と手を繋ぐところを見られていたなんて恥ずかしい。


 それも、保護者である真希さんに。


 これからは、保育園の中だけでなく周辺の駅も気をつけよう。


 私だけが気をつけるのでは意味がない


 悠にも念押ししとこう。


 真希さんと、しばらく話してから団体客用の座敷に通された。


 明里が空けといてくれた隣の席に座ると「晴先生どうぞ」と、可愛らしい男の子がお冷とお絞りを持ってきてくれた。


 「歩夢君、お手伝いしてるの?えらいね」と褒めたら「えへへ」と、歩夢君が恥ずかしそうに笑って台所にとことこ走って行った。


 いつも保育園で会ってるけど、違う場所だから緊張しているのかな。


 歩夢君の素直な子どもらしさに、私はふふふっと笑みが溢れた。


 歩夢君とすれ違いで真希さんが塩キャベツを持ってきた。


 「いつも夜はね、私は店に入らないんだけど、歩夢に今日は晴先生がじいじのお店来るって教えたら、俺も手伝うって張り切っちゃって。だから、今日は歩夢を連れて私も働いてるの」


 「可愛い。歩夢君らしいですね」


 四人席のテーブルには私の隣が明里。


 明里の正面には八満君が座っている。


 私は、私の正面の、八満君の隣が空いていることに気づいた。


 嫌な予感がする。


 「もしかして、悠まだ来てないの?」と、訊ねると「うん。確か犬塚君は五時には仕事上がってるはずなんだけど」と明里が教えてくれた。


 「悠が遅刻するなんていつものことだろ」と、八満君がしししっと笑っている。


 そうなのだ。


 悠には遅刻癖がある。


 私との約束には、ほとんど遅れたことはないのだけど、こういうみんなの集まりには大体遅刻してくる。


 だから、変に悪目立ちしてしまう。


 悠の価値基準では、きっと新人歓迎会は、私との約束より価値が低いのだろう。


 少し嬉しい気もする。しかし、社会人にもなってこうやってルーズに遅刻してくるのは、悠の直したほうがいいところだと、私は思っている。、


 悠が来たら説教してやる。


 あと、私は単純に、何事に対してもルーズな男は好きじゃない。


 でも、ルーズの代名詞のような悠となんだかんだ付き合えているのだから、恋愛というのは不思議だ。


 とにかく、私がいなくてもやっていくために、悠はそういうルーズなところを意識して気をつけなければならない。


 こんなことで、みんなに迷惑かけていたら一人前な保育士になんてなれない。


 「それじゃあ、時間になったから乾杯しましょうか。でも犬塚君が来てないわね」と、園長先生が気にして言った。


 「ごめんなさい。どこかで道草食ってるんだと思います。私が連絡しときます」と言ったものの。


 恥ずかしいし、申し訳ない気持ちになって、私は内心穏やかではなかった。


 なんでこんな思いをしなきゃならないのだ!と腹も立ってきた。


 もう。みんなに気を遣わせないでよ。私まで悪目立ちするじゃない。


 「あらあら、猫本さんごめんなさいね。じゃあ、連絡任せるわね、でも、これ犬塚君の新人歓迎会でもあるのよね」


 そう園長先生が言うと、周りの保育士たちに笑いが起きた。


 そうだった。


 自分の新人歓迎会にも遅刻してくるってどういう神経なの。信じられない。


 まだルーズな学生気分が抜けていない。


 一般の会社だったらありえない。


 私の気持ちは沸々と強い怒りに変わっていく。


 悠は、去年まで保育の専門学生で、アルバイトでこでまり保育園に来ていた。


 そして、今年からここの職員として就職したのだ。


 八満君も同じだ。


 八満君がみんなの前で「皆さん。もう知ってると思いますが八満昭彦です。子どもや親御さんたちの立場になって考え、頑張って保育していくのでよろしくお願いします」と、卒なく挨拶をしている。


 それを見て、ぼーっとしてる私に「はぁ〜。いいなぁ晴は」と明里が言った。


 「何が?」


 「私もそろそろ彼氏欲しいよ〜。悠君みたいにいつも好きって言ってくれる溺愛彼氏」


 「えー。毎日あんなベタベタされたら鬱陶しいよ」と、私は苦笑した。


 「でも、晴はそれでも嬉しそうじゃん」と、明里がにやりとする。


 「嬉しくなんかないよ。恥ずかしいし」と誤魔化しつつも、明里の言っていることは図星だ。


 私は恥ずかしくて話の流れを変えようと「でも、忘れ物多いし。見てないとすぐサボるし。遅刻するし。ろくでもないよ」と応えた。


 その時。


 「遅れてすいませーん」とドアを開けて悠が店に入ってきた。


 「犬塚君、もう乾杯しちゃったわよ。ほら、こっち来て。新人の挨拶と遅刻の理由を言いなさい」


 園長先生に呼ばれて、早速遅刻したことをいじられている。


 「遅れて申し訳ないです。犬塚悠です。えーっと、子どもが大好き。元気いっぱいな保育士になりたいです」


 悠のぶっきら棒な挨拶に「犬塚君はいつも元気いっぱいでしょー」「なんか年長さんの将来の夢みたいな挨拶じゃないの」と先輩保育士たちから揶揄われてまた笑いが起きた。


 「遅れた理由はスケボーやってて夢中になり時間を忘れてしまいました。すみません」と、謝る悠に私は違和感を感じた。


 確か今朝、会った時、悠はスケボーを持っていなかった。


 いつも近所のスケートパークに行く時は、必ずスケボーを持ってくるのに。


 つまり、悠は嘘をついている。


 普段、悠は小さな嘘すらつかない性格だ。


 問題だが遅刻したことだって、なんとも思ってないはず。


 いつもの調子でなんでも、包み隠さず話してしまうはずなのだけど、どうしたのだろう。


 悠が八満君の隣に座ったら、すぐに私は「スケボーなんてやってきてないでしょ。正直に言って」と小声で問いただす。


 「ごめんごめん。実は、駅前の文房具屋でこっそり晴のこと待ってたんだ。それで遅れちゃった」


 え、どういうこと?という顔をしている私に「今朝、晴が修正テープ無くなったから買いに行くって言ってたじゃん。急に現れて驚かそうと思って」


 「あー。ごめん。今日じゃなくていいやって結局買いに行かなかったんだ」


 「修正テープって、保育士の仕事してるとすぐなくなるよね〜。ノートや書類でさ」と、私たちの話を聞いていた明里が言った。


 「あー。凄くわかります」と共感する八満君。


 「そうそう。だから、じゅうほうしますよね」と悠。


 「じゅうほう…?」と、明里と八満君が顔を合わせて変な顔になる。


 「それを言うなら重宝でしょ。ちょ、う、ほ、う!恥ずかしいから、漢字を変な読み方で覚えないで」


 間髪入れずに私が言った。


 「あはははは。本当に猫本さんと悠ってお似合いカップルだ」と八満君が腹を抱えて笑い出す。


 「さすが、晴だな。俺の間違いに気づいてくれたね」と、悠も能天気に一緒になって笑っている。


 「間違えたの悠なんだから、悠が恥ずかしがってよ。なんか私が恥ずかしいんだけど」


 「ごめんごめん」と、謝ると「そういえば、修正テープ買っといたよ」と、私がいつも使っているのと同じ修正テープを、悠がズボンのポケットから出した。


 「ありがとう。私もちゃんと連絡しとけば良かったね」


 「やっぱり、いつでも晴のことを考えてくれてる最高の彼氏じゃん。さっきも、彼女のために修正テープ買って遅刻したって正直に言ったら、晴のことだから嫌がるもんね」と、明里が目を輝かせている。


 「今回は遅刻してきたことを怒らないとこうかな。それでも、みんなとの約束は今度から遅れないようにね」


 私がそう言うと「うん。わかったよ。ご褒美のちゅーとかしてくれんの?」と、悠が自分の頬を指さして言った。


 「なんでよ」


 「修正テープ買ってきたから」


 「怒らないからって調子に乗らないで。遅刻したからなし!」


 「えー。そんなぁ」とがっかりする悠。


 「お前ら本当に仲良いなぁ」と八満君。


 「羨ましい。早く結婚しちゃいなよ」と明里が相槌を打つ。


 「俺も猫本さんなら、悠を任せられるよ」


 明里と八満君が笑っている。


 結婚という言葉を聞き、私の胸がぎゅっと締まる。


 それは私が喉から手が出るほど欲しい、未来の幸せなのかもしれない。


 私は悟られないように「えー。でも、大人になっても自分のことできないし。忘れん坊だし。遅刻魔だし。そんな人と結婚は考えられないなー」と、腕を組んで言った。


 「わかった。治す。全部気をつけるよー」と、私に泣きつくように慌てる悠が面白くて三人で笑った。


 「よーし!言ったね」


 私は眉間に力を入れて確認する。


 「わかったよ。なんか今日の晴こわいー」


 「こわくないっ」と間髪入れず返す。


 「でも、こわい晴も好きー」と、悠がからから笑う。


 もうすぐ、もしかしたら最後になってしまうかもしれない夏が始まる。


 私が悠にできることは全部しよう。


 悠に残せるものは全部残そう。


 悠が幸せに生きていけるように。


 頑張れ。悠ならできる。