異動が正式に発表されてからの1週間は針のむしろに座る思いを味わったが、異動してしまえば父や兄のそばにいられることで大分過ごしやすくなった。

 秘書の仕事は営業事務とはまるで違うため仕事をいちから学び直す必要があったが、秘書室長の大前さんが丁寧に指導してくれるので問題なく仕事に馴染むことができた。

 問題があるとすれば、同僚の秘書2名‥‥父から聞いていた通り、彼女達は電話や面会の取り次ぎとお茶汲み、簡単な清掃作業のみしかしておらず、空いた時間はお喋りをして過ごしているようだった。

「田原さんが仕事覚えない人だったから、後輩の彼女達も必然的にそうなりますよねえ‥‥」

 大前さんは既に諦めの境地に達しているようで、それがこれまでの苦労を物語っていた。

「だから橘さんが秘書室に異動してくれて、本当にありがたいです」

 ろくに仕事をしない女性達に囲まれひとりで秘書業務をこなしていた大前さんにとって、あたりまえのように仕事をする私は稀有な存在であり、私の立場や悪い噂は全く気にしていないようだった。

 同僚の2人は社長の娘である私を直接攻撃してくることはなかったが、仲良くするつもりもないらしく、基本的に無視されている。新人秘書の私が仕事のことでとやかく言える立場でもないので、彼女達には極力関わらないようにして、黙々と大前さんのサポートに専念した。

 資料作りや役員のスケジュール調整、諸々の手配等、秘書の仕事は多岐に渡るが、裏方の仕事は他部署との関わりもなく、今の私にとっては都合が良かったのかもしれない。

 大前さんの指示を仰ぎつつ仕事をこなし、少しずつ秘書に慣れてきた頃、常務である兄に頼まれた資料を渡すため部屋を訪れた。

「どうだ?仕事には慣れてきたか?」

 部屋には兄と2人、常務としてではなく家族として心配した兄がそう声をかけてくれているのだと感じた。

「うん。大前さんが色々教えてくれるから凄く助かってる。まだまだ覚えなきゃいけないことも多いけどね」

 営業の仕事を離れるのに抵抗がなかったわけではないが離れてしまえばなんてことはなく、父と兄に守られたこの環境は随分と居心地がいい。

「異動して良かったと思ってる。だいぶ心配させちゃったけど、もう大丈夫だよ」

「そうか、なら良かったよ。噂の方も例の裏サイトが閉鎖されてすっかり落ちついたしな」

 裏サイト‥‥私の悪い噂が社内中に広まった原因はそのサイトのせいだったとあとから聞かされた。噂の元である私が姿を現さなくなり、噂を広めるサイトがなくなったことで、噂は完全に過去のものとなったのだろう。『人の噂も七十五日』とはよくいったものである。