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 病院。そこは、陰の気が溜まりやすい。生と死が混在するそこは、今、淀んだ空気に包まれてかけていた。
 ひたっ、ひたっ、ひたっ――。
 廊下から音が聞こえる。
 やわらかい音。よく聞けば、それは素足で歩いている音に似ている。
 ひたっ、ひたっ、ひたっ――。
 規則正しく聞こえていた足音は、ある病室の前で止まる。
 静かにドアがスライドされ、足音は、中へと侵入していく。
 ひたっ、ひたっ、ひたっ――ひたっ。
 ベッドの前で、足音が終わる。
 カーテンは開けられたまま。目の前には、静かに寝息を立てる少女――美咲の姿があった。

「■■■……」

 呻(うめ)くような、人の耳には聞き取れない声。低い嫌悪な声の主は、力いっぱい、美咲の首を締め上げる。
 ――だが、何故か美咲は反応を示さない。深い眠りなのか。それとも、一瞬で気を失ってしまったのか。

「■■■!!」

 その様子に、声の主は嬉しそうに声を震わせ、美咲の体を壁にぶつけ始めた。
 ガンッ、ガンッ、ガンッ!
 部屋に響くほどの強さで、体が傷めつけられていく。未だ反応を示さない美咲の体は、人形のように成すがまま。
 ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッ――!
 壁に、色が付き始める。それは、美咲の後頭部が当たる部分の壁。次第に、色はその範囲を広げていった。



 〝――また、壊される?〟



 何度目かの衝撃。
 ぴくり、指先が揺れる。
 意識が浮上したのか、美咲の両手が上がっていく。
 だが、目の前の存在はそんなことを気留めることなく、美咲の体を壊すことを止めなかった。
 ガンッ、ガンッ、ガンッ――!
 ゆっくり、ゆっくりと。美咲の手は、首を絞めているであろう存在の腕を握る。



 〝――まだ、終われない〟



 ガンッ、ガンッ、ガンッ――!



 〝終わるわけには――いかない!〟



 バンッ! と、大きな音を立て、目の前にあった存在は、美咲とは反対の壁に叩きつけられる。

「ッ、■■……」

 暗い病室。何度か瞬きをすれば、徐々に目が慣れていき、目の前にいるのが人のカタチをした者だというのがわかってくる。その者は男性で、顔半分や腕が漆黒のように黒々とし、両目は、赤く血走っていた。
 相当な衝撃だったのか、男性はすぐに立ち上がれない様子。それを見て、美咲は廊下へと走り出す。だが一歩病室から出た途端、痛みが後頭部を襲った。ガシッ! と髪を鷲掴みにされ、思わず苦悶の声がもれる。引きずり込まれないよう耐えていたものの、今度は頭を鷲掴みにされ、部屋の中へと引きずり込まれてしまう。

「……、っ?!」

 尚も暴れる美咲。それを抑えようと、男性は胸倉を掴むなり、勢いよく窓の外へ放り投げた。



 ――――ドクン、ドクン。



 落下して行くなか、美咲の心臓は、鼓動を強く増していく。
 ガラスの破片が舞い、それに映っている自分を見る余裕があるほど。脳は、今起きていることをクリアに、素早く処理していく。
 落下先――そこは、草も生えていないコンクリートの道。
 目の前には、【死】というものが迫っているというのに。



 〝これが――外〟



 その瞳に、恐怖は無い。
 在るのは、目の前の事実を受け入れること。



 ――――ドクン、ドクン。



 そしてもう一つ。ここで自分は死なないという、絶対の自信。
 ゆっくり、息を吸いこむ。――そして。



「――――跳ねる」



 短く、言葉を発した。
 地面に接触する寸前。呟くと、体は真横に大きく跳ねた。転がりながら衝撃を最小限に食い止めると、美咲は静かに立ち上がる。空を仰ぎ、今自分がいることを体感する。