「ねぇ、貴方はみんなに、なんて呼ばれてるの?」

「――――美咲、です」

「そう。そっちの世界では、そういう名前なのね。本当の名前は……聞いてる?」

 首を横に振ると、女性はにこっと笑みを見せた。



「貴方の名前は……フェリス。あの人が考えた名前で、【幸せな】って意味があるのよ」



 一つ一つ丁寧に。
 大事そうに、名前を紡いでいった。
 抱き寄せると、女性はとても嬉しそうに、私を見つめていた。

「フェリス……よく聞いて。貴方が目覚めたら、少しは体の自由が戻ってるはずよ」

「どうして、私が動けないってこと――あっ」

 そっか。未来が見えるなら、私の状況もわかっちゃうんだ。

「ふふっ。考えてるとおりよ。それでね。体が動くと言っても、本当にしばらく――そうね、一時間あるかないかってほどかしら? その間に、どうにかこの世界から逃げなさい」

「そ、そんなのダメ!」

 私一人でなんて、逃げるわけにはいかない。
 助けたい友達がいると言えば、女性は困った表情を浮かべた。



「その人は……大切な人?」



 前にも見たことがある、とても悲しそうな目で、私を見つめる。

「大切です。私の為に傷付いて……今だって、私を護ろうとしたせいで苦しんでます!」

「…………そう」

 呟くと、女性は目を閉じた。
 そしてゆっくり、



「目が覚めたら……その感情は、消えてしまうわ」



 名残惜しそうに、体をきつく抱きしめる。

「これから、〝それ〟を理解するたびに消えてしまう。〝それ〟は私たちにとって、理解してはダメなことだから」

「……意味が、わかりません。それってなんですか? 消えるって、何が消えるんですか?」

「今は言えないわ。でもこれは――貴方を、護る為なの」

 ぎっ、と悔しそうに唇を噛みしめる。

「特にフェリス。貴方は――それがとても強く現れるみたい。もしかしたら、私より強いかもしれない。だから、〝それ〟自体を知らないかもしれない。その方が……一番いいかもしれないけど。――そろそろ時間ね」

 徐々に、視界が歪んでいく。
 終わってしまうと悟った私は、慌てて叫んだ。

「ま、待って! 聞きたいことがたくさんっ!」

 離れたくない。今なら、お母さんと話せるのに――!
 伸ばした手は、空を掴むかの如く。
 それが母に触れることのないまま。
 意識は、そこで途絶えた。

 *****

 大広間の一室。光を完全に遮断されたそこには、小さなロウソクの灯りだけが存在していた。
 そこでディオスは、美咲を布陣の中央に寝かすよう叶夜に命令する。

「箱を――子宮の位置に置け」

 未だ、叶夜の手からは血が流れ出ている。箱に触れるたび、次第に皮膚の再生は追い付かず、肉がむき出しの状態になっていた。

「今度は箱ごと――姫を貫け」

 一瞬、叶夜の肩が震える。
 けれど、反論する様子はない。頷くと、美咲のそばに膝をついた。
 しっかりと、左手で箱を押さえる。未だ叶夜の手は傷付いていくばかりだが、美咲には何の害も与えていない。
 彼女にあるのは、先程付けられた胸の傷だけ。血は完全に止まっておらず、じわじわと、床に鮮やかな赤色を広げていく。



 ギぃヤぁぁーーーア!!



 貫いた途端、断末魔の叫びが耳を劈(つんざ)く。
 箱からは声だけでなく、強力な風をも生んだ。間近にいた叶夜は弾き飛び、壁にめり込むほどの衝撃を放っている。
 その中でも――ディオスは笑っていた。
 目前に迫った望み。それがもうすぐ報われると思えば、こんな痛みは些細なものにすぎない。
 ――風が止む。
 部屋は静けさを取り戻し、ディオスの笑い声が響き渡っていた。

「ははっ――つい、に。あははははははっ! ようやく我の望みは成就された。幾千年と待ちわび、何度輪廻を繰り返したことか! 我だけの花――お前と言う花が、今目の前に!!」

 ふらつく足取りで、ディオスは布陣を目指す。