「……あら、オーレリアン。そんなところでどうかしたのですか」

 廊下で考えごとをしていたら、涼しげな声が聞こえてきた。

 かつての(・・・・)世界で、オーレリアンを「旦那様」と呼んだ女性。
 顔に傷を受けたことでオーレリアンと結婚し、シャルルの子を産み落とすのと引き換えに三十年足らずの人生に幕を下ろした、悲劇の伯爵夫人。

 かつての(・・・・)世界でオーレリアンの妻だった、リリアーヌ。
 彼女が廊下の先に立っていたため、オーレリアンは軽く手を振った。

「いや、ちょっと思案中。リリアーヌこそ、何かあったのか?」
「今度の打ち合わせで使用する準備資料を作っていたのですが、少しあなたに相談したいことがあって……」

 あなた。
 灰色の目を曇らせたリリアーヌが、自分をベッドに押し倒すオーレリアンに向かって呼びかける。

 オーレリアンは頭をよぎった幻を追い払い、「そうか」と明るく笑った。

「もちろん、なんでも聞いてくれ」
「ありがとうございます。このことなのですが……」

 そう言って、リリアーヌは持っていた資料を捲る。彼女が資料の疑問点について真面目な口調で読み上げるのを聞きながら、オーレリアンはふと彼女の額に視線を向けた。

 さらりとした栗色の前髪の奥で、ちらちらと見える額。そこは白くきれいで、傷一つない。

「ここについて、質問が上がりそうで……ちょっと、オーレリアン」
「おう、なんだ」
「なんだ、ではありません。いきなり何なのですか」

 リリアーヌが顔を上げて怒った理由は、オーレリアンが彼女の額にとんと指先を当てたからだ。

 かつて(・・・)は白い傷跡がいつまでも消えず、ざらりとした手触りだった。
 だが今はそこに触れても引っかかるような痕はなく、額から頬にかけての肌はどこまでもなめらかだ。

 ……ここに、傷をつけさせたりしない。
 灰色の目を、濁らせたりしない。

「やー、悪い悪い。ここを押すと腰痛が治るって聞いたから」
「怪しい民間療法を私で試さないでください」

 リリアーヌに怒られたため、オーレリアンは「おう、悪い」と適当な相槌を打って手を離した。
 彼女は少し乱れた前髪を手でなでつけてから、先ほどの説明を再開させる。