勉強というものは暗記力が試され、しかも一度にたくさんの教科のことを詰め込まれるため、苦手意識を覚える生徒は少なくない。高校一年生の初音日向(はつねひなた)もその一人である。

日向は目の前に置かれたプリントを見つめる。もうすぐ行われる中間テストに関するプリントだ。しかし、日向は一向に問題を解くことができない。

問い十

方程式3x−4=5x+8の解を求めよ

数学の十問目でシャーペンで答えを書く手は止まり、目の前に現れた方程式を見つめる。日向の頭の中は徐々に混乱しつつあった。額に嫌な汗が浮かぶ。

(えっ?これってどうやって求めるんだっけ?さっきまでは楽勝だったのに〜!)

日向の通う学校は、特別偏差値が高いわけではない。むしろ逆に勉強の苦手な生徒や中学生の頃は不登校気味だった生徒が通っている。そのため、先ほどまで数学の問題は中学一年生の最初に学ぶ正の数と負の数の計算問題だった。

正の数負の数の計算はまだ解けるのだが、日向は数学が五教科の中で一番苦手としている。数字や数式を見るだけでも脳が拒絶反応を起こし、テストでは毎回赤点を取るほどである。
(どうやって解くんだっけ?忘れちゃったよ〜)

大声を出して喚きたくなるものの、日向はそれをグッと堪えた。ここは学校の教室でも自分の家の自室でもない。多くの人が利用する図書館なのだ。大声は厳禁である。

日向が心の中で「うーんうーん」と呟きながら考えていると、「わからないところができたか?」と声が降ってきた。その声に日向の胸が高鳴り、顔と耳が赤く染まる。

顔を上げた先にあったのは、短めに揃えられた黒髪に眼鏡をかけたいかにも真面目で勉強ができそうな男の子の顔だった。その整った顔の彼はこの辺りでは有名な進学校の学ランを着ている。

思わず見惚れてしまう日向に対し、男の子は少し控えめの咳払いをした。その音に日向の意識は目の前のプリントの問題に再び向けられる。

「どこがわからないんだ?問題を見ているだけじゃいつまで経っても解けないぞ」

「えっと、ここからわからなくて……」

日向が問題を指差すと、男の子は「一次方程式か」と呟いた後、日向の隣に座って解き方を丁寧に説明する。ふわりと体から漂った石鹸のような香りに、日向の意識はまた彼に向けられそうになってしまった。
日向に勉強を教えている男の子の名前は、草薙練(くさなぎれん)。高校は別だが中学校が同じで、バドミントン部という部活も同じだった。その頃から二人は仲のいい友達という関係である。

(でも、あたしは違うんだよね。練くん)

近い距離に高鳴ってしまう胸を日向は押さえたくなる。この心臓の鼓動に練が気付いてしまったら、そう思うと怖くなっていく。これはきっと叶わない想いだと頭の片隅で中学生の頃から思っているからだ。

「ーーーこういうことだ。わかったか?」

「なるほど。練くん、相変わらず教えるの上手だね」

「口はいいから手を動かせ」

「は〜い」

日向が方程式を解き始めると、練は自身の勉強に取り掛かる。その教科書に書かれた方程式は日向が説明されても理解できないようなものばかりだ。その教科書を見るたびに、世界が違うのだと日向は思い知らされる。

練は中学生の頃から頭がよく、テストでは毎回学年一位だった。そんな彼は日向の勉強をよく見てくれた。高校は別れてしまったというのに、「勉強するぞ」と連絡をくれる。そんな練に日向は惹かれていた。
(でも、練くんにお似合いなのは同じように頭がいい美人な女の子だよね)

見た目も頭脳も自分には待ち合わせていない。唯一あるとすれば底抜けの明るさくらいだ。ネガティブなことを考えようとすると、それに蓋をするかのように思考が変わる。

(いけないいけない!今は問題に集中しないと!)

美人な女の子と楽しそうに歩く練の姿を想像しそうになり、慌てて日向は問題と向き合う。xの項、数の項をそれぞれ移項していく。何とか答えを書くことができた。

「どうかな?合ってる?」

緊張を覚えながら答えを練に見せる。練は数式や答えをジッと見た後、日向の方を向いて微笑んだ。

「正解。よくできました」

「よかったぁ」

授業で先生が教える数学は全く解けないのだが、何故か練が隣にいると少し難しくても解ける。彼の教え方が先生よりも上手なのだろう。

練の手元に置かれたノートが見えた。そこには円が描かれており、数式が書き込まれている。中学校の数学の授業で見たことのあるものだ。

「これってπの問題だっけ?」

「ああ。円周率の問題だな」

円周率とは何か、日向は人に聞かれても答えることはできない。ただ3.14から永遠に数字が続いてあり、それをπと表記するのだと先生が言っていたような気がするとぼんやりとした思い出を引っ張り出した。
「高校で円周率してるの?」

「いや。ちょっと疲れたから円周率について考えていただけだ」

「休憩で円周率の問題してるの?すごいなぁ」

「すごくはない。お前が菓子作りが好きなのと同じだ」

練はそう言い、円周率の問題をサラサラと解いていく。それを見つめながら日向は胸元にそっと触れた。勉強は苦手で苦痛だ。しかし、この時間が永遠に続いてほしいと思っている。練が隣にいるからだ。



練に恋をした日のことを思い出す。中学二年生の春のことだった。練とは同じクラスだったものの、接点がほとんどなかったため、日向は勉強ができる人としか思っていなかった。

そんなある日、日向は部活が一緒の友達四人で遊園地に遊びに行こうという話になった。日向を含めて女子二人、男子二人の四人である。

しかし当日男子の一人が急に来られなくなり、代わりに練が遊園地に来た。ほとんど話したことのない練の登場に日向たちは戸惑ったものの、練は色んな話題を振ってくれて、日向たちは自然と打ち解けていった。
(草薙くんってずっと勉強ばっかりしてるんだと思ってた。こんなにもたくさん話題の引き出しがあるんだ)

練が話題を出すたびに、日向は彼を目で追ってしまう。今まで知らなかった練のことを知るたびに、日向は反応してしまうのだ。

「なあなあ、次あれ乗ろうぜ〜!」

友達がジェットコースターを指差す。日向は固まってしまった。絶叫系はあまり得意ではないのである。しかしそんなことを言い出せる空気ではなく、アトラクションに乗るためのペアをくじ引きで決めることになった。

「よろしく、初音」

「う、うん。草薙くんよろしくね」

日向のペアは練になった。ジェットコースターの座席に隣り合って座る。安全バーが降ろされ、日向はバーをグッと強く掴んだ。緊張で心臓が音を立てる。冷や汗が吹き出していった。

「……ひょっとして絶叫系苦手なのか?」

日向の表情で察したのか練が訊ねる。日向は無言で頷いたものの、ジェットコースターはゆっくりと動き出していた。もうあと少しでジェットコースターはスピードを上げて走り出す。