その翌日、パトリスとブラッドの様子が気になったアンブローズが屋敷を訪ね、二人の前に現れた。
 ブラッドの仕事が休みの日を見計らい、見舞いに来たのだ。

「ああ、昼間にこの屋敷に来るのは久しぶりだ。庭の花を見ると、師匠が楽しそうに世話をしていた姿を思い出すよ」

 アンブローズは感慨深げに屋敷を見上げる。彼にとってこの屋敷は、師匠のオーレリアと過ごした第二の実家でもある。
 庭先に咲く深紅の薔薇に目を留めると、その天鵞絨のような花弁を指先でそっと撫でた。

「師匠はね、私をローズという愛称で呼んでいたんだ。初めて会った時に私の髪の色が庭に咲く薔薇と同じだと言ってね。そう呼ぶことにしたらしい。当時の私は周囲から化け物扱いされていたから、師匠の言葉が嬉しかった。……昔も今も世界でたった一人、師匠だけが呼ぶ私の名前だ」

 花を通して偲ぶ姿からは、師匠への敬愛ではなく、心から想う相手への思慕が滲んでいる。

 その様子は見えないが、アンブローズの声からしんみりとした空気を感じ取ったブラッドが、おずおずと口を開いた。
 
「よろしければ、定期的にこの家の薔薇を送りましょうか?」
「ありがとう。気持ちだけ受け取るよ。この薔薇たちにはこれからも、師匠の住んでいたこの屋敷を美しく彩っていてほしいからね」
 
 アンブローズはゆっくりと、名残惜しそうに花弁から手を離した。
 
 それからブラッドとアンブローズは応接室へと向かった。
 ブラッドはシレンスからの補助があるものの、数日前に比べると数段上手く歩けるようになっている。

 パトリスは厨房へ行き、お茶の準備をした。
 ティーポットと二人分のティーカップとソーサーと茶葉の入った容器、そして皿とカトラリーをワゴンの上に乗せる。ミルクポットや角砂糖が入っている壺も載せる。
 最後に載せた白磁の美しい皿の上に、今日の早朝から作っておいたフィナンシェとクッキーを盛りつける。

 アンブローズは豪奢なケーキより、ぎっしりと中身が詰まっている菓子を好んだ。パトリスに魔法を教えにグランヴィル伯爵家を訪ねた時には、こっそりと持ってきたフィナンシェやクッキーをパトリスの非常食にと分けてくれたものだ。
 
 パトリスはワゴンを押して応接室へ行く。ブラッドとアンブローズは部屋の中央にある二つの皮張りのソファに向かい合って座っていた。

「屋敷中に花があっていいね。心が安らぐよ」 
「リズさんが生けてくれているんです。飾っている花の名前と教えてくれるので助かります。頭の中で思い浮かべていると、その間は暗闇ではなく綺麗な花を見られますから」

 パトリスはブラッドの言葉に頬が緩む。しかしアンブローズがニヤニヤと口元を歪めて自分を見ていることに気づき、慌てて表情を戻した。
 
 気を取り直して、二人の前にそれぞれティーカップとソーサーを置く。そこに淹れたお茶をゆっくりと注いだ。
 茶菓子を載せた白磁の皿をテーブルの上に置くと、アンブローズが嬉しそうに歓声を上げた。

「どれも美味しそうだね。おかわりはあるかい?」
「ええ、たくさんありますよ。旦那様が好きなものを用意しようと思って作りましたから」

 パトリスはブラッドの皿にいくつか見繕って置く。アンブローズにも同じようにした。
 まだ目の見えない生活に慣れていないブラッドが自分で食べたい物を皿からとるのは難しいため、あらかじめそれぞれ取り分けることにしたのだ。
 
「一時の方角にあるのはバタークッキーです。丸い形をしていますよ。その下にあるのはチョコレートクッキーで、四角く、チョコチップを練り込んでいるのでデコボコとした触り心地です。六時の方角にあるのがレモンクッキーで、レモンのアイシングをかけているので酸味があります。その左隣にあるのが――」

 パトリスがブラッドに説明すると、ブラッドは相槌を打って熱心に聞く。アンブローズは柔らかく目を細めてその様子を見守る。

「リズはもうここでの仕事に慣れたようだね。さすがだよ」
「ホリングワース男爵によくしてもらっていますので、おかげさまですぐに慣れました」
「それはよかった。ブラッドの方はどうだい? 新しい生活に慣れた?」
「リズさんやシレンスさんのおかげでなんとか生活できていますが、まだあまり慣れていません。早く慣れないといけませんね……」

 そう言い、ブラッドは眉尻を下げた。
 
 真面目なブラッドは、誰かの手助けを必要とする今の状況に負い目を感じている。アンブローズの弟子となりオルブライト侯爵家の客人として使用人たちに着替えや入浴の手伝いをしてもらっている時でさえ居心地が悪そうにしていたのだ。歩行や食事の手伝いが必要な今はなおさらだ。
 
「ブラッドのことだから、負い目を感じていると思ったよ。焦らなくていい。ブラッドは賢くて器用だから、そのうち今の生活に慣れるさ」
「師匠は俺を買い被りすぎです。本当に慣れるまでには時間がかかりそうですよ。今日の朝食ではリズさんに助けてもらわないと、ティーカップを転がして火傷するところでしたから」
「まだ目が見えなくなってひと月も経っていないのだから、そうなって然るべきだろう。これから男爵としての責務を担うのだから、人に頼ることを覚えなさい。全て一人で抱えると、急にガタがきて立ち上がれなくなるよ」

 ブラッドの真面目な性格は長所でも短所でもある。鍛錬や仕事を熱心に取り込むからこそブラッドは昇進したのだが、自分を追い込み過ぎて無理をするきらいがあるのだ。
 
「そうだ、気分転換に出掛けるといい。街を歩く練習も大切だろう? せっかくだから、リズと行っておいで」

 不意打ちで名前を出されたパトリスは、驚きに肩を揺らす。慌ててアンブローズに顔を向けると、彼は人差し指を自身の唇に押し当てた。
 静かに、と暗に示されてしまい、パトリスは口を噤んだ。
 
 ブラッドとの外出は嬉しい。しかし長らく街に出たことがない自分がブラッドを案内できるとは思えない。
 パトリスは誘拐されそうになって以来、街に出ていないのだ。
 
 戸惑うパトリスに、アンブローズはパチリと片目を瞑ってみせた。まるで、「心配しなくていいいよ。私に任せなさい」とでも言っているかのような合図だ。

「ひとまず、バークリー魔導書店に行くといい。馬車をこちらに寄越すから、店の近くで降ろしてもらいなさい。街歩きの最初の練習にちょうどいいだろう」
 
 バークリー魔導書店とは、王都の目抜き通りから一本奥に入った通りにある老舗の魔導書店だ。
 店主のバークリー夫妻はアンブローズと年が近く、アンブローズがオーレリアに引き取られたばかりに紹介されて知り合った幼馴染でもある。
 そのためブラッドもまた、アンブローズと一緒に度々訪れている店だった。
 
 パトリスは昔からバークリー魔導書店の話をブラッドから聞いてきたため、一度は行ってみたいと思っていた。
 今回の外出はその夢が叶う、またとないチャンスだ。おまけに馬車が近くまで運んでくれるのであれば、道を知らないパトリスでも看板を目印にブラッドを案内できる。

 算段を立てたパトリスは、チラッと視線をブラッドに向ける。
 ブラッドは何やら考え込んでいるようだ。もしかすると、外出に乗り気ではないのかもしれない。

 どうしてもバークリー魔導書店に行きたいパトリスは、水色の瞳をいつもよりぱっちりと大きく開き、ブラッドに熱い視線を向ける。
 ブラッドはパトリスのそのような姿は見えないだろうから、「で・か・け・ま・しょ・う・!」と心の中で呼びかけ続けた。

 パトリスの強い念がブラッドに届いたのか、ブラッドは顔をパトリスがいる方向に向ける。
 
「たしかに練習は大切ですね。リズさん、ご一緒いただけますか?」
「もちろんです!」

 間髪入れずに答えるパトリスに、アンブローズが小さく吹き出した。

「じゃ、決まりだね。明日の朝ここに来るよ。二人とも早起きして待っていてくれ」

 パトリスとブラッドは、口を揃えて「え?」と聞き返す。
 出かけるのはパトリスとブラッドの二人のはずだ。それなのになぜ、アンブローズがここに来ると言うのだ。
 
 ぽかんと口を開けて固まっている二人に、アンブローズはにっこりと微笑む。

「出かけるには、色々と準備が必要でしょう?」