「桜子、わたくしはもう行かねばなりません」


 窓から顔をのぞかせたミレーヌの表情は、名残(なごり)惜しそうで。

 馬車の中は、革張りの座席になっていた。


「う、うん……」


 いろんなことがありすぎて、わたしはうなずくので精いっぱいだ。


「ご縁がありましたら、またお会いするでしょう。それまでお達者で。……アルフレッド」

「はっ」


 馬車の前の台に座ったアルフレッドが、手綱(たづな)を握って馬を走らせる。

 公園を出た馬車は、道路へと出て行って、ひづめの音が響いた。

 歩いている人たちが、ぎょっとして、馬車を見つめている。

 そりゃそうだ。住宅街の道を、馬車が走っているんだから。

 いつの間にか空はオレンジ色で、馬車は夕陽に染まりながら遠ざかっていった。

 ひづめの音も聞こえなくなったとき――。


「あっ……」


 立ちつくしていたわたしは、ハンカチを握っていることに気づいた。

 さっきミレーヌが涙をふいてくれたあと、渡してくれたらしい。

 まったく気づいていなかった。

 レースの装飾で(ふち)取られた高そうな白いハンカチだ。二頭のツノジカが向かい合っているような紋章が刺繍(ししゅう)されている。


 今となっては、このときのこと、すべて夢だったんじゃないかと思うことがある。

 だけど、ミレーヌの息を呑むような美しさ、きらびやかなドレス、気品あふれるたたずまい、やわらかなほほ笑み……そして――すてきな魔法。

 それらが、夕暮れにとけていった馬車とともに、わたしの心に深く焼きついているから。

 何より、手元に残ったミレーヌのハンカチが、あれは夢ではなかったんだと教えてくれている。