それから、どれくらい時間がたったんだろう。誰かが部屋の扉をノックしてきた。
「真由子?」
 お父さんの声だった。
「今日のこと、ちょっとお話しない?」
 どうせ「スイと仲直り」しろとでもい言いにきたんだ。ノックなんて無視したかったけど、私の頭にあのルールが浮かぶ。
 『ワガママ迷惑、ダメ、絶対』。
 扉を開けると、父さんが部屋に入ってきて、ベッドにいる私の隣に浅く座った。
「昼間のことはスイから聞いたよ。いつも大事な時そばにられなくて……怖がらせてごめんね。お約束もなかったのに家にやってきて、うちの娘に怒鳴るなんてどういうことですかって、伊丹博士にはちゃんと言っておいたからね」
 伊丹博士という単語に、体がびくっとした。
「スイはやっぱり、ロボットなの? 伊丹博士が作ったの? 同じ名字だし」
「うん。伊丹博士がスイの持ち主なんだ」
 やっぱり。スイの言っていた『母さん』って、そういうことだったんだ。
「スイは自分のことを三歳だって言っていたけど」
「彼は起動してから三年が経っているんだ。だけど外見は、十四歳を想定して作られている」
「なんで先に言ってくれなかったの……?」
「あれ? スイには真由子と会った時、まず自分がロボットだって伝えるように指示したんだけどなあ。真由子が聞き逃したんじゃない?」
 そういえば……駅で初めて会った時、私がスイの顔に見とれているあいだに、何かを言われたような気がする。その時に、自分がロボットだってちゃんと言っていたのかな。
 スイのことがロボットだなんて、今でも信じられない。肌の感触は本物みたいだし、動作だって、救急車の前であんな倒れ方をしなければ、気づくことができないくらい自然だった。
 ほまれ町でも人間にそっくりなロボットは少ない。だけど、研究所にいる伊丹博士が作ったのなら納得がいく。
「だったらどうして、うちなんかにスイがいるの? 伊丹博士、言ってたよ。お父さんがスイを家政夫みたいに働かせてるって」
 私自身のことより、お父さんを悪く言われるのがいやだった。
「スイは伊丹博士と一緒に暮らせばいいんじゃないの。あの人、スイにとっての〝お母さん〟なんでしょ? きっと大事にしてもらえるよ」
「真由子が本当にそう思ってるなら、そうかもね」
 静かな声にぎょっとして、お父さんを見上げた。にっこりした顔が、逆にこっちの心を見透かしているみたいだ。
「スイはたしかに家政夫じゃない。だけどロボットだ。彼から仕事を取りあげるなんて、それこそひどいことだよ。使われずホコリをかぶったロボットほど悲しいものはない」
 お父さんはロボットの話をするときだけ、ほんわかした空気がどこかへいって、キリッとする。
「スイにはちょっと事情があってね。誰にも知られたくないみたいだから、お父さんの口からは詳しく言えないんだけど……彼はリハビリ中なんだ」
 リハビリって、ケガや病気をした人が、元どおりの生活に戻れるように体を整える、あれだよね。
「スイはケガをしているってこと?」
「正確には、故障している。彼は『笑う』以外の表情ができなくなっちゃったんだよ」
「あ……」
 そっか。思い返してみれば、スイはいつも笑っているか、無表情でいるところしか見たことがない。
「ロボットだから、笑うだけでいいんじゃないかと思うかもしれないが、そうでもないんだ。人間が悲しんでいるのに自分だけが笑っていたら、相手が傷つくだろう?」
「うん……」
 今日の私がそうだった。伊丹博士に怒られて笑えるような気分じゃなかったのに、スイだけが笑っていて、とても気分が悪かった。
「喜怒哀楽が壊れたままだと、人間の役に立てない。スイはロボットだから、役に立てない自分は必要ないと思考するだろう」
「そんなこと……!」
「お父さんはね、真由子ならスイを助けられるんじゃないかと思うんだ」
 私が?
「ヘブンズモールにいた時、真由子の声にスイのまぶたがピクッと動いたと言っていただろう? あれはもしかして、笑う以外の表情を顔に出そうとしていたんじゃないかな?」
 まぶたが動いたのは、やっぱり気のせいじゃなかったんだ!
「私なんかでも、スイの役に立てるの……?」
「もちろん、真由子に無理はしてほしくない。そこのところはゆっくり考えよう」
 お父さんはベッドから腰を上げた。私はお父さんの服の裾をつかんだ。
「あの、スイに『ごめんね』って言ったほうが、いいのかな?」
「真由子がやりたいと思ったら、やればいいと思うよ」
 お父さんは、「いい」とも「だめ」とも言ってくれなかった。たぶん、自分で考えなさいって意味だと思う。

 私は悩んだけれど、スイに八つ当たりをしてしまったことを、謝らなくてはと思った。
 リビングに降りると、スイは昼間のことなんてなかったかのように、あいかわらずほほえみを顔に貼り付けて、料理の準備をしていた。
「スイ……大丈夫?」
「その質問は、ヘブンズモールで頭を打ったことについて『機能に問題がないか』という意味ですね? 異常は見つかりませんでした」
「それもあるけど、伊丹博士の前ではスイが無理して笑っているみたいで、それが心配だったんだ」
 私はスイの手をつかんだ。気持ちを言葉にして、伝えなきゃ。
「スイは喜怒哀楽が壊れちゃって、『イヤだ』とか『助けて』って、言えなくなっちゃったんだよね?」
「いいえ」
 私の手は、スイにやんわり押し返された。
「ロボットの僕には、心がありません」
 心臓の鼓動が、止まったような気がした。
「ですので、真由子さんが必死になっておっしゃっている言葉を、理解できません。あなたの気持ちを、僕は受け取れないのです。だから、僕への心配は無意味です」
「無意味……」
 頭の中で思い浮かべたのは、スイとの数日間の生活だった。
 顔の距離が近くて、イケメンで、料理が美味しくて、イリスに攻撃されそうになったら助けてくれて……。心強かったし、すごくカッコよかった。私の肩には今も、ぎゅっと抱いてくれたスイの手の感触が残っている。
 スイがほほえんでくれたり、私を助けたりしてくれたのは、私が心配なんじゃなくて、ロボットだから無視できなかっただけ。
 スイが頭を打って、私が迷惑をかけたんだって、ずっと心が痛かった。だけど、ロボットに心を痛めるなんて、なんの意味もないことだったんだ。
 こんなにたくさんの気持ちをスイに向けているのに、ぜんぜん伝わらない。私の行動なんて、迷惑なだけで、スイの助けにもならない。
「だったら、今までのワクワクや胸の痛みを、ぜんぶ返してよ……っ!」
 勝手に目から涙がこぼれそうになった。必死にこらえようとして、鼻をすする。
「ごめんなさい、その命令は、僕には実行不可能です。……僕の発言が、またあなたを不快にさせてしまっているようですね」
 ちがう……ちがうよ。
 まだほまれ町に来て数日しか経ってないけれど、スイの存在は、私の心のぽっかりした部分に、ぴったりはまってしまったような気がする。
 スイが、ロボットじゃなくて、人間だったらよかったのに。そうしたら、私の気持ちが伝わったかもしれないのに。
 どうしたら、スイに気持ちが伝わるの?
「……どうしたら、あなたは笑ってくれますか?」
 震えた声に、私は顔を上げた。
 スイの笑顔は、いつものニコニコした明るすぎる笑顔とはちがう。泣きそうな、くしゃりとした笑いかただった。こんな表情は、初めて見た。
「あなたが笑顔になるように、僕に命令をください。僕はあなたに必要とされたい。僕は……あなたの役に立ちたいのです」
 笑いにも、いろいろな表情がある。スイは人間じゃなくてロボットだけど、何を言っても同じ反応しかしないわけじゃないんだ。
「ごめん……私、今すごくイヤなやつになってた」
 私は涙をこらえて、どうにか笑顔を作った。必死すぎてくしゃくしゃだっただろうけど、私が今できる精一杯の笑みだった。
「ヘブンズモールでは、助けてくれてありがとう。スイが無事に戻ってきてくれて、よかった。ごめんね、命令じゃなくて、お礼で」
「……ありがとうございます。僕も、真由子さんが無事でいてくれて、よかったです」
 苦しそうに口元をゆがませていたスイは、今度は目を細めて、優しさを残したうっすらとした笑みになった。
「夜ご飯にしましょう。新太さんを呼んできますね」
 そして、私の背中をそっと支えてくれた。

 夜。私はお父さんの部屋に行った。
「お父さん、私、スイを助けたい」
 私は、決意をお父さんに伝えた。
「お母さんが苦しそうにしてる時は、何にもできなかったから……」
「……優しいね。真由子は本当に優しいよ」
 お父さんの声が、耳の奥にツンと響いた。
「お母さんは、誰かに『助けて』ってうまく言えなかったと思うんだ。苦しい時に何もできなかったのは、お父さんも一緒だ。だから、真由子が無理をしてまでスイを助けて欲しいとは、思っていないんだ」
「うん」
「だけどやっぱり、嬉しいよ。お父さんは、真由子のことを誇りに思う」
 私はお父さんの胸の中に飛び込んでいって、二人でぎゅっと抱き合った。
「スイのことは、二人でもうちょっと頑張ってみようか」
 スイは、自分には心がないと言う。だけど、いろんな種類の笑顔を見せてくれるんだ。
 そうだ。ロボットに心がないなんて、いったい誰が決めつけたの?
 私はヒーローにも探偵にもなれないけれど、自分なりに何かできることがあるかもしれない。 もしも叶うなら、スイと一緒に笑って、一緒に悲しんで、一緒に助け合いたい。
 スイの喜怒哀楽を、取り戻したい──。
 初めて誰かに対して、そう思えた。