私は、ぶらんと垂れ下がっているスイのもう片方の腕に、手を伸ばした。
「つかまって!」
「ダメです! 手をつかんだら真由子さんまで引きずり落ちます!」
「スイはぜったい、落ちないからっ……お願い!」
「ごめんなさい、真由子さん」
 あまりにも柔らかすぎる声に、私は自分の耳を疑った。まるで、今夜の晩ご飯のメニューを言われたみたいだった。
「なんで謝るの……! そんなことしてないで、早く手を……!」
「ロボットは人を傷つけたり、危険な目にあわせたりしてはいけない。それが僕たちのルールです。僕の存在が、真由子さんを危険な目にあわせました。今もそうです。あなたは誰かが困っているとロボットでも手を伸ばしてしまう。僕がそばにいる限り、これからもそうでしょう」
「ちがう……!」
「僕はやっぱり、役立たずのロボットです。僕はあなたをそばで支えたかった。そう願ってしまったから、あなたがこうして危険な目にあったんです。ぜんぶ僕のワガママでした」
 いっそう強い風が私たちのあいだに吹き抜けた。スイの黒髪がなびいた。風に吹かれてそのまま、いまにも手がブロックからはなれて、フッと消えてしまいそうだった。
「僕はいないほうが、真由子さんも、母さんも、幸せになります。……あなたは母さんを止めてはいけなかった。だから、命令してください。僕にそばにいるなと」
 心の奥底がざわざとうごめいた。
 スイが手を伸ばしてくれないのは、自分がいないほうがいいと思っているからだ。私を危険な目に巻き込むくらいなら助けて欲しくないって……!
 スイが私に迷惑をかけても、そばにいてほしい。そう思うことは、私のワガママなの?
 ちがう!
 いままで私は、他の人に迷惑をかけるくらいなら、人と関わらなければいいと思っていた。ひとりでいればいいって。だれかと友だちになりたいと思っても、何かをしたいと思っても、いつもガマンしていた。
 だけど、迷惑だとか、ワガママとか……そんなのはずっと、自分が傷つかないための言いわけだった。
 誰かに迷惑をかけないで生きていくなんて、誰もできないんだ。
 私が熱で苦しいとき、スイが手をぎゅっと握ってくれたみたいに。スイが自分の過去を話した時、それをわたしが『悲しい』と言葉にしたみたいに。
 そうやって私はスイと、つらいことも楽しいことも、これからずっと一緒に分けあっていける!
 私の本当の気持ちは──!
 身を乗り出した。あんなに怖かったはずだったビルの向こうがわに向かって。
「真由子さんッ! それ以上身を乗り出さないで!」
 スイが絶叫したと同時に、私は思い切り心を声に乗せて叫んだ。
「お願い、そばにいて!」
「ま、真由子さん……!」
「スイと出会ってから一緒にいた時間は、私の一番の宝物なんだよ!」
 毎日食べる料理も。エプロン姿も。
 イリスから助けてもらった時の肩の感触も。私のために怒ってくれたことも。私を守るって言ってくれたことも。
 楽しいことだけじゃない、苦しいことですら、胸の中でキラキラかがやいている。
「つらいときも楽しいときも一緒にいて! 翠くんの代わりじゃなくて……スイがいいの! だから、手をのばして!」
 スイと目が合った。
 きれいで、苦しそうで、怒っているようで、喜んでいるような瞳をしていた。
 ぶらんと垂れていた手が、こちらへ伸びる。私はその手をつかんだ。
 握ったスイの冷たい手に、ぎゅっと力を込める。
「絶対、はなさないから!」
 私の横からもう一つ手が伸びた。伊丹博士だ。彼女はスイの服の襟首をつかんだ。
「──あそこに誰かいるぞ!」
 背後から足音がいくつもバタバタとやってきて、警備の人が三人、私たちの様子に気づいて腕を伸ばしてきた。
「せぇーのっ!」
 大人の強い力で、あっという間にスイが引き上げられた。屋上にスイが戻ってくる。目の前にスイがいる。
 飛び出しそうなくらいに心臓が暴れていた。全身が震えているのが、安心からなのか、怖さからなのか、わからないくらいに。
「よかった、ほんとうによかった、助かってよかった……!」
「ぼ、僕は……」
 消え入りそうな声がした。スイの表情は、怒りでも悲しみでもない苦しげな表情に変わっていく。
「真由子さんのそばにいて、いいですか……?」
 そうだ、スイはずっと苦しかったんだ。人の役に立ちたくて、それができなくて。壊れて、喜怒哀楽がどこかへ行ってしまって。
「他の誰かじゃなくて、スイと出会えて本当によかった。だからお願い、そばにいて」
 大きく息を吸い込んだ。心のぽっかりした場所に、ぴったりはまってしまったようなこの気持ちを、私はずっと恥ずかしいと思っていた。だけど……!
「私、スイのことが、好き! スイの持ち主になりたい!」
 スイの全身が、びくりと反応する。
「持ち主……?」
「うん」
「僕が? 真由子さんの……?」
 スイは人間じゃなくて、ロボットだ。だけど、誰かを好きで、大切にしたい私の気持ちは、ぜったい、ウソなんかじゃない。
「ど、どうかな……?」
 フッ、と。私の全身が暖かく包まれた。 とても優しい力で、スイに抱きしめられていた。
「嬉しい」
 耳元で、そっと声がする。
「ずっと、真由子さんをそばで支えることができたらと思いました。ずっと、他の誰でもなく、真由子さんに持ち主になって欲しかったんです。ロボットには許されない願いでした。……真由子さんから願ってもない言葉を聞けるなんて……!」
 抱きしめられていた腕がほどけて、代わりに、スイがきれいにほほえんだ。
「たぶんこれは、人間の感情でいうと『喜び』になると思います」
 喜怒哀楽の……喜。スイは壊れていた感情を、取り戻したんだ。
「真由子さん、僕の持ち主になってくれますか」
 気づけば涙がこぼれた。嬉しい時にも涙が出るってことに、久しぶりに気づいた。
 怖がらないで、勇気を出して、自分の本当の思いを伝えてよかった。そばにいてって、言えてよかった。スイが喜んでくれてよかった。
 ずっとずっと、お母さんがいなくなってから心の中にぽっかりと空いていた感情を、取り戻した気がした。

 その後、屋上には警察の人がやってきて、伊丹博士は逮捕された。警察官に両脇を掴まれながら、博士は最後に一言だけスイとお話をした。
「助けてくれて本当にありがとう、スイ」
「いいえ。人間の危険を無視してはいけないのがロボットのルールです。あなたが僕をそう設定したのでは?」
「……そうね。今までごめんなさい。これからはちゃんと、息子のことと向き合います。支えてくれてありがとう」
 伊丹博士は悲しげに笑って、私を見た。
「スイのこと、おねがいします」
 私たちは、伊丹博士の苦しみに少しでも寄り添うことができただろうか。そうだったらいいな。
「真由子!」「石英!」
 丸井くんとくれはちゃんがやってきた。
「無事でよかった……ほんと……!」
「やっぱりオマエはすごいぞ! オレ見込んだだけのことはある!」
「あ、ありがとう……!」
 私たちは、四人で一緒に抱き合った。