スイは私を家の中に案内してくれた。住んでいたおばあちゃんの家も縁側があってそれなりに広かったけれど、この家のリビングは、広すぎてさびしいくらいだ。 ダイニングのカウンターには背の高いイスが置いてあって、座ると床に足がつかなくなる。
 スイに麦茶を入れてもらって、一息ついた。
「ここでは僕が、家やあなたの身の回りをお世話します。何でも命令してください」
「め、命令!?」
「はい」
 そこは『なんでも聞いてください』とか『遠慮せずに言っててください』って言うところじゃないの!?
「真由子さん、ご命令を」
「い、いや、いいよ……あ、一つだけお願いはあるんだ」
「なんなりと」
「真由子って呼びすてで、さん付けしなくていいよ」
「いいえ。そういうわけにはいきません」
 まばたきもせずにスイは言った。あれ、なんでも命令してくださいって言われたばっかりなのに。
「でも、スイのほうが年上だよね?」
「人間に対する呼びかたの変更権限は、真由子さんにはありません」
「え……」
 スイが笑顔のまま、いきなり冷たすぎる口調になった。さん付けしないでほしいってお願いが、そんなに気を悪くしちゃったのかな?
「ご、ごめん。会ったばかりなのに、いきなり変だよね。じゃあ、敬語も……?」
「敬語は初期仕様です」
 しよう……って、敬語を使用したいって意味かな。それとも、使用人?
 スイは足音を一つも立てず、私のとなりにあるスツールに座り、顔をのぞき込んでくる。……近い。
「真由子さんは、どうして新太さんとはなれて暮らしていたんですか? 新太さんの仕事が落ち着いたので、こちらに引っ越してきたことは聞いているのですけど」
「い、いきなりだね」
「それはもう、気になりますとも」
「体が弱くて病気しがちだったから、空気のいいところだって理由で、おばあちゃんの家にいただけだよ。お父さんはロボット大好き人間だから、仕事場からはなれられなくて単身赴任だったし。お母さんは……どこにいるかわからないんだ」
「わからない?」
「うん、行方不明ってやつ」
 お母さんは私が小さい時に、私の前からいなくなってしまった。
 私は体が弱いせいで、おばあちゃんの家に行く前はしょっちゅう入退院をくり返していた。そのせいでお母さんは疲れや心配から、肌の色が真っ白で具合がいつも悪そうだった。
 お母さんがいなくなった日。私は苦しくて、ぜえぜえして、熱のせいで記憶はぼんやりとしていたけれど、お母さんの声と姿だけはよく覚えている。ずっと枕元で泣いていた。
「お母さん、ちょっと疲れちゃった。外の空気を吸ってくるね」
 そう言って病室から出ていったのが、お母さんを見た最後の姿だった。これにはお父さんもすごく悲しんだし、父方のおばあちゃんは、激怒した。
「なんて無責任な子だよ!」
  ……でも、私はお母さんを、どうしても責める気にはなれなかった。急にいなくなったのはきっと、私の体が弱いせいで、お母さんが苦労して、疲れちゃって、迷惑したせいだと思うから。
 ──あの日以来、私は心に決めているルールがある。
 『ワガママ迷惑、ダメ、ゼッタイ』。
 お母さんがいなくなったのは、小さかった私がお母さんを困らせて、苦しませていたからだ。私はもう子供じゃない。だから、お父さんや周りが迷惑するような勝手なワガママはぜったい言わないし、しちゃいけない。
 おばあちゃんの家に住んでいたときも、このルールを守って、誰も困らせずに暮らしてきた。(たぶん)。
 友だちを作ってしまうと、ケンカになったり、ついワガママを言ってしまったり、いつどこで相手に迷惑をかけるかわからない。だからできるだけ一人でひっそりと過ごしていたというわけ。
 本当は、もっとみんなとおしゃべりしたり、夏祭りや初詣に行きたかったけれど……。いや、あれでよかったんだ。
 見ててね、お母さん。私、お母さんが安心して戻って来られるように、ほまれ町で頑張るから!
「……真由子さん? どうかしましたか?」
「なんでもない!」
「それにしても、お母様が行方不明ですか……おつらいですね」
「ううん、ぜんぜん! 私、いつかお母さんを探そうと思ってるんだ」
 ぜんぜん、と言うときだけ、胸がチクリとした。ぜんぜんつらくない言ったら、嘘になる。だけど今は、とにかく同居人のスイに迷惑がかからないようにしなきゃ。
「そうですか。お母様が見つかるといいですね」
 こちらに体をかたむけていたスイが、元の姿勢に戻って笑った。
「つまりは、お体の弱かった真由子さんが、逆境に負けず今日まで強く生きてくださったおかげで、こうして僕はあなたとお会いすることができたということですね」
「お、おおげさだよ」
「いいえ。人間は生きているだけですばらしいんです」
 もしかしてスイって……変なひと? フシギくん? それとも、都会だとこれが普通なのかな。
 敬語といい、さん付けといい、十四歳だなんて、お父さんの情報はあてにならないし。
「あの、スイって何歳?」
 スイはほんの少し首をかたむけて、あごに手を当てる。
「あなたがたの基準で言うと、三歳です」
「え!? で、でもお父さんは十四歳って……!」
「そっちですか。まちがえました。ええ、十四歳です」
「どこをどうまちがえたの?」
「それよりも真由子さん」
 スイは落ち着きはらって、手をひざの上に置いた。
「新太さんからまだ聞いていないかもしれませんが、真由子さんはほまれ北中学校に通うことになります。カバンやタブレット、制服などは、あなたの部屋に置いてありますからね」
「あ……うん。学校ね。入学式って、四月の何日?」
「一日です」
「明日じゃん!!」
 お父さん! しっかりして! せめて娘の入学式の日にちを考えてほまれ町に呼び寄せて!
「え、ちょっと、いろいろ間に合ってない。私の部屋はどこ?」
「真由子さんのお部屋ですね、案内します」
 スイはスツールから降りて廊下に出ると、階段を上り始める。
「何も心配いりません。僕が完璧にサポートしますから」
「スイも学校あるよね? 迷惑だし、悪いよ」
「僕は学校へは行っていませんので、これっぽっちも迷惑ではありません」
 うそでしょ?
「十四歳って中学二年生だよね? 学校へ行かないで何をやってるの?」
 スイが階段の上で足を止めて、あさっての方向に顔を向けながら指を折り始める。
「料理、掃除、洗濯、洗車、買い物、庭の雑草むしり……」
「お父さーーーんっ!!!」
 ばかばかばかっ! スイになんてことをやらせてるの!?
 私があたふたしていると、ぐい、と腕をつかまれて、引き寄せられた。
「きゃっ」
「階段の上で、そのように暴れたら危ないですよ」
 ち、ちちちち近い! 顔が近い!
「それでですね、真由子さんの学校が始まり次第、僕がお弁当を作ることになると思うのですが」
 スイは文字通り、私の目と鼻の先でほほえみながら、ささやいた。
「真由子さんの好きな料理を教えてくれませんか? 知りたいんです──あなたのことなら、ぜんぶ」
 その後スイに何を言ったのか、私はほとんど覚えていられなかった。