いままさにスマートフォンの画面を押そうとしていた伊丹博士の指が、声にびくりと反応した。スイは文字通りロボットみたいに、ぎこちなく首を私に向けた。
「なにを……?」
「なにを!」
 スイの声にかぶせて、伊丹博士が叫んだ。
「勝手なことを言わないで! 私はこの子が、ロボットが、みんな憎くて……!」
「だったら、どうして暴走させたイリスをヘブンズモールから出さなかったの!? 私、ずっと気になってたんです!」
 もしも人間を憎んでいるなら、イリスをヘブンズモールだけじゃなくて町中に解き放って、直接電撃で人を傷つけることができた。
 だけどイリスが暴走したのはヘブンズモールの敷地の中だけだったし、ニュースでは死傷者がゼロだと言っていた。誰も傷ついてない。
 もしロボットを憎んでイリスを壊したいだけなら、イリスを最初から壊していればよかった。
 ロボットが怖いって印象を植え付けたいとしたら、イリスを町中で暴れさせればよかった。
 私たちのデートを邪魔したかったら、私かスイを攻撃すればよかった。
 だけど伊丹博士は、そのどれもできなかった。
「ち、ちがう……ちがうわ」
 博士は、首を横に振った。
「だったら、クーちゃん……ポメラニアンのペットロボットは?」
「憎いに決まってるでしょ! あんなに幸せそうな人間とペットロボットの様子を見せつけられたら……!」
「だったらどうして誘拐したクーちゃんを、初めから壊さなかったんですか? くれはちゃんをもっと傷つけることができたけど、しなかったよね?」
 スイは、壊れたクーちゃんをもしもくれはちゃんが見たら、ショックを受けると言っていた。伊丹博士はくれはちゃんにショックを与えることができた。だけど、しなかった。
「川に流されれば、壊れると思ってたのよ!」
「でも、クーちゃんは運良く無事だったんです。頭がいいのに、クーちゃんを確実な方法で壊さなかったの?」
「や、やめて! あなたに何が分かるの……」
 消えそうな声で、伊丹博士がうめいた。
 私はまだ中学一年生で、息子がいなくなってしまった伊丹博士の気持ちなんて、分かるはずがない。
 だけど、お母さんがどこかへ行ってしまったときから、私は苦しくて、そばにいてほしいって誰かに言いたくて、お母さんのことが憎くて、だけど自分のせいでこうなってしまったんじゃないかって……。
「博士はずっと、自分を責めているんじゃないかって、思ったんです。……私もそうだから」
 うつむいていた伊丹博士が、バッと顔を上げた。
「私がいけないの。ぜんぶ、私が。あの時ボール遊びなんてさせなければ。あの公園へ行かせなければ。ボールを追いかけていったあの子の手を、一秒でも早くつかめていたら!」
 伊丹博士の目から涙が落ちた。
「苦しい……助けて……!」
 やっぱりそうだ。伊丹博士はお母さんやスイと同じように、ほんとうはすごく苦しいのに、自分で『助けて』って言えないんだ。だったら──!
「このままスイまでいなくなっちゃったら、たぶん一生後悔します。もっと自分を責めちゃいます。だからおねがい、スイを壊すのはやめて!」
「っ……!」
「母さん」
 伊丹博士の片足がそっと、一段下の屋上側に向かって降りてくる。私もスイも、誰かを傷つけることを思いとどまってくれた博士が屋上に戻ってくるのに手を貸そうとした。
 ──ビュォッ!
 ひときわ強い風が私たちの間を吹き抜けた。
「あっ……!」
 片足立ちだった伊丹博士がバランスを崩した。かたむいた背中の先には──地面がない。
 落ちるっ!
「母さんッ!」
 上半身が下に向かって倒れていく瞬間、私とスイは同時に伊丹博士に飛びかかっていた。私は博士のスカートの裾を、スイは博士の背中を。
 一瞬の出来事がスローモーションに感じられた。
 スイが思い切り伊丹博士をこちらがわに押した。博士は悲鳴をあげながら私のほうへつんのめってくる。二人でどしゃりと、屋上の床に倒れた。博士の持ったスマートフォンが手を離れ、床を滑っていく。
 顔を上げるとさっきまでスイのいた場所を見ると──そこには誰もいない。
「うそ……!」
 無我夢中で、一歩しかない屋上のふちまで走った。下を覗いてみると……。
「スイッ!!」
 スイは片手でブロックのふちを掴んでいた。
 このままでは、スイが落ちてしまう!