午後六時。びゅうびゅうと、髪をさらっていってしまうような強い風が吹いていた。
 ビルの屋上から見える地面は、あまりにも高い。キラキラとした街の光が反射して、道路には自動運転車が走り抜けていく様子が、ミニチュアみたいに一望できた。
 別のタイミングでここに来ていたら、きれいな景色に興奮していたにちがいない。だけど……。
 私はいま、幌月コーポレーションの屋上にいる。イリスを暴走させて、クーちゃんを誘拐した犯人──伊丹潤博士に連れてこられたからだ。逆らったらスイの身に何かが起こるかと思うと、体が言うことを聞かなかった。
 伊丹博士は私の右腕を掴んで、となりに立っている。
 もし誰かに思い切り突き飛ばされたら、二十階から真っ逆さまだ……。
 入り口のドアロックがピピッと鳴って、ゆっくりと扉が開かれた。
 やってきたスイのきれいな顔からは、あらゆる表情が抜け落ちていた。
「真由子さん。迎えにきましたよ」
 スイが私を見て、ほんの少しだけ笑う。そして、すぐに伊丹博士へ視線を向け直した。
「ドアが電子ロックなら、屋上の扉のロックを解除するのも、母さんには造作もないことですね」
「ええ、そうね──」
「自分が何をしてるか、わかっていますか?」
 スイが、初めて人の言葉をさえぎった。顔を見上げると伊丹博士は、笑っていた。
「怒れるようになったのね?」
「あなたの行動で、たくさんの人に迷惑がかかっています。ヘブンズモールの人たちや、ほまれロボット研究所の職員、幌月さん、クーちゃん……」
「私と過ごしていた時にそうやって怒ってくれたらって、何度願ったかわからないわ。私が設定したはずなのに、あなたは悲しい顔もしない。ワガママも言わない」
「真由子さんは、僕と母さんの問題にはまったく関係ありません。はなしてください」
 私は伊丹博士に背中をトンと押された。スイのいるほうに小走りになって、つんのめりそうになって、両手を伸ばしてきたスイに体を支えられた。
 怖かった……!
「真由子さん! 大丈夫ですか、ケガは?」
「大丈夫。それより、伊丹博士は……?」
 私たちが同時に伊丹博士を見る。博士はビルのふちのブロックに立って、自分のスマホを手に持っていた。
「母さん!」
 スイが叫んだと同時に、伊丹博士は手元のスマートフォンをタップした。瞬間、あたりが真っ暗になる。
「きゃ……!」
 慌てて両手で頭を押さえた。何かが起こったの!?
「大丈夫、屋上の照明が落ちただけです。母さんが、幌月コーポレーションの照明を管理している管制AIに干渉したみたいですね。おそらく今、ビルは停電しています」
「なんでこんなことをするの!? どうして!」
 私は伊丹博士に思い切り叫んだ。風が吹いているせいで、小さな声では音が飛んでいってしまうからだ。
「さっきまでよりも、ビルの下で光を放っている道路の車たちが、よく見えるからよ!」
 伊丹博士も、こちらに負けないはっきりとした声量で答えた。そして手に持ったスマホの画面を、こちらに見せた。
「今から、ほまれ町にある自動運転車のAI全機を、一斉にダウンさせる」
「なっ……! そんなことしたら、車がコントロールを失って大事故になります!」
 私は、たくさんの車やバス、トラックがお互いに激突して、壊れてしまう様子を思い浮かべた。車の中には、大人や、子供、おじいさんやおばあさんもいる!
「僕に見届けてほしいって……まさか!」
「最初からこうしていればよかったのよ! 私の息子を奪った復讐をするには!」
「やめてくださいっ!」
 スイが震えた声で叫んで、私の数歩前に出た。
「どのみちこの停電で、警備の人がもうすぐここに来ます。警察に自首してくれませんか!」
「スマホの画面を押したら、すぐに私の復讐は終わるの。警備が来る前に、すべてを終わらせるわ。誰にも邪魔はさせないし、できない!」
「僕には『憎い』という感情がわかりませんが、母さんはロボットが憎いんですね? AIの自動運転車が翠の命を奪ったから。だからロボットを壊していたんでしょう?」
「そうよ!」
 伊丹博士が苦しげに叫んだ。
「公園で遊んでいて、いつもと同じ一日だったのに。道路に飛び出していったボールを取ろと、翠はあわてて追いかけた。それだけ! 自動運転車ならとっさにブレーキを踏めたはずなのよ! 事故になる確率なんて、光っていない星を見つけるくらいありえない数字だったのに!」
「でも……伊丹翠はそうじゃなかった」
「運が悪かったんだって何度も思おうとした。頑張ったけど……私の何がいけなかったの? どうしても忘れられなくて、あなたを作った。なのにまったくちがうのよ。周りはあたりまえのようにロボットを家族として迎え入れていたのに、私はそれがどうしてもできなかったの」
 苦しみを吐き出すみたいに叫ぶ伊丹博士に、私はなにかを言わなきゃいけないと思った。
 だけど、私がどんな言葉を言ったって……!
「憎くて……私の作ったロボットを壊しても、ぜんぜん心が晴れない。それどころか、もっと憎くなるばかり。なのにどうしてあなたは、その子といっしょに幸せになろうとしてるの?」
「母さん──」
「あなたがいるからいけないのよ!」
 私たちはまったく動けなくなった。
 ヘブンズモールでイリスを暴走させたのは、もしかして、私がスイとデートしたから……?
 伊丹博士は、十歩も歩けば手の届く位置にいる。だけど博士は、私たちが飛びかかるよりもっと早く、スマホの画面を押すことができる。
「あなたが一番憎いのは、僕ですね」
 そう言ったスイは、一度うつむいて……もう一度顔を上げた時には、今までで一番無邪気な顔で笑った。
「母さんのやろうとしていることは、あなたのような悲しい人間を、またたくさん生み出してしまいますよ」
 スイが幽霊みたいな足取りで、伊丹博士のいる屋上のふちへ歩き出す。
「まっ……!」
 腕を掴もうとした手がスカッとすり抜けた。
「だめ!」
 スイはなんのためらいもなく、どんどん屋上のふちに歩いていってしまう。博士は突然のスイの行動にうろたえた。
「それ以上近づかないで! スマホを奪おうったって……」
「そんなことはしません。あなたのやっていることは正しいんです。今すぐにAIをダウンさせるべきだ」
「何を……!」
「ただし、ダウンさせるのは自動運転車のAIではありません」
 スイは、伊丹博士のいる一段高いブロックへ登り、博士の手の甲に触れた。
「僕を、伊丹スイというロボットの機能を、停止させてください。悲劇をこれ以上くり返さないためにも。持ち主のあなたになら、それができます」
 遠くで二人の様子を見ていた私は、スイが何を言っているのか、理解できなかった。
 スイの機能を、停止させる……?
 伊丹博士の、スマホを持ちながらスイの手に包まれている指が、私の目からもわかるくらいに震えていた。
「僕の姿があなたを苦しめている。伊丹翠になりきれなかった役立たずな僕の姿が、です」
「あなたは悪くないの……本当の息子だと思おうとしたのに、できなかった私が……」
「だから母さんは、一度は壊れた僕を、助けられなかった。助けてしまったら、またあなたが苦しむからです。だけど新太さんが僕を修理してしまった。だからこの事件が起きてしまったんです」
 スイがスマートフォンを伊丹博士の手から抜きとった。何度かの操作の後、もう一度伊丹博士の手に握らせる。
「イリスの時と同じ、自己破壊プログラムです。そのボタンを押して、母さん。僕が誰かに修理されても二度と起動しないように、その手で回路を完全に破壊してください」
「やめてッ!」
 二人のところまで走っていきたいのに、足が壊れた人形みたいに動かなかった。
 風がごうごうと吹いて、私の勇気の邪魔をする。
「それであなたの苦しみは終わる。復讐が果たされるんです。その代わり、僕を停止させたら、自動運転AIをダウンさせることはしないと約束してください」
 そのボタンを押したら、二度と起きなくなっちゃう?
 スイが……スイがいなくなっちゃう!
 喜怒哀楽が壊れたスイが、やっと、心を取り戻そうとしてくれた。私はやっとスイのことを好きになれた。なのに、想いも伝えられないまま、スイがいなくなったら、いやだ!
 どうしよう。どうすればいい?
 スイを止められるのは伊丹博士だけ。私はスイの持ち主じゃないから、私がやめろと言っても、スイは聞いてくれない。私の声が、届かない……!
「いつかこうなるのではと予測していましたよ。あなたの言う通りです。ロボットが持ち主を差し置いて幸せになろうとするなど、まちがっていました。僕は許されないことを願ってしまったようです」
 許されないこと……スイが願ったことって、いったい?
「ロボットを壊してたくさんの人が犠牲になるくらいなら、僕だけを犠牲にするほうが世のためです」
 伊丹博士はロボットが憎い。スイも憎い。自分の息子を奪ったのがAIロボットだから。だからスイがいなくならないと、ずっと伊丹博士は苦しいままだ。
 ──本当にそうなの?
 頭の中で爆発のようなヒラメキが起こった。
 ──ちがう! こんなこと、まちがってる!
 伊丹博士が、血の気の失せたくちびるをかみしめて、スマホを親指でタップしようとする。
「だめッ!」
 まったく動かなかった足が、動いた。
 私は伊丹博士とスイのところへ走って、大きく息を吸う。
「伊丹博士は、スイにいなくなってほしいなんて、本当は思ってない!」