次の日。私がリビングに降りると、部屋の様子にびっくりした。
 床はホコリでざらついていて、観葉植物が枯れかかっている。窓ガラスも雨の水滴でうっすらくもっていたし、キッチンには卵の殻がシンクに捨てられっぱなしになっていた。
 そういえば、お父さんは部屋の掃除をしなくてもぜんぜん気にならない性格だ。だとすると、掃除をしていないのは……。
 スイはソファの上に、静かに座っていた。
「スイ……?」
 慎重に隣へ腰掛けて、声をかけると、スイは首をゆっくりこちらに向けて、ほほえんだ。
「真由子さん、ご体調はもういいのですか?」
「う、うん」
「それはよかったです。すみません、このありさまで。うまく機能が働かなくて、いま自己メンテナンスシステムを走らせていたところです。悪いところは、もうないはずなのに……」
 スイはまるで助けを求めるように、私に手を伸ばそうとして、途中でやめてしまった。
「僕はもう二度と、人間のお役には立てないのでしょうか」
 私はスイが引っ込めてしまった両手をとって、ぎゅっと握りしめた。
「裏山で『大きらい』だなんてひどいこと言って、ごめんね。スイは私を助けてくれて、私のために怒ってくれたのに、さけるようなことをして」
「真由子さんが謝ることは何一つないんですよ。僕こそ、ごめんなさい。僕の言動がいつも真由子さんを困らせて、傷つけてしまうのですね」
 スイのきれいな瞳の中に、いつか私に見せてくれた泣きそうな表情が入っていた。
「役に立てないロボットは、いらないですから。僕をさけるのは当然です」
 人間同士の仲直りなら、お互いに「ごめんね」って言い合って、反省して、それだけでよかった。だけどスイとの会話は、ずっとすれちがっている。
 スイは自分のことを、役に立てないならいらないって言う。壊れたって誰もかまわないって。 その言葉が私の気持ちをざわざわさせることに、気づくことはできない。
 それがとても悲しかった。
「スイが役に立たないだなんて、思ってないよ。そばにいてくれるだけでいいんだよ。たとえ料理とか、掃除とかをしなくても、いらないだなんて思わないよ。それじゃダメ?」
「ダメです」
「どうして?」
 スイが言葉を詰まらせた。長いまつげが下向きになって、うつむく。
「ロボットは人間の──さらに言うなら、持ち主の役に立たなければならない。彼女が求めているのは〝伊丹スイ〟ではありません。したがって僕は、あなたの言うように『そばにいる』だけでは、存在意義を果たせません」
「持ち主って、伊丹博士のことだよね」
 お父さんは『スイにはちょっと事情がある』と言っていた。その事情のせいで、笑うこと以外できなくなって、リハビリ中だとも。
「ねえ、聞かせて。伊丹博士と何があったの?」
「言えないんです。僕の過去は人を悲しませるようですから」
「今のままでも悲しいよ。知りたいんだ、スイのこと」
「いくら真由子さんのご命令でも……」
「命令じゃない。お願い」
 スイの顔から、表情が抜け落ちた。
「……そうですね、真由子さんには過去を知ってもらうべきだと思います。そうすれば、僕を助けるために川に入るなんてことも、しなくなるでしょう。……スマートフォンを貸してくれますか」
 私は何も言わずにスマホをスイに手渡した。いくつかの操作の後、もう一度私の手元にスマホが戻ってくる。
 画面には昔のネットニュースが映っていた。
『AI自動運転の車が、誤作動で事故。男児一名が死亡』
 亡くなった男の子の名前は──伊丹翠(いたみすい)、五歳。
「これって……」
「過去十五年のうちで、一件だけ起きた自動運転車の事故。彼は、伊丹潤博士の息子です」
 私は思わず、目の前のスイの顔をもう一度見た。スイは笑った。
「僕の回路には、彼の思考が眠っている……僕は、伊丹翠の代わりとして作られたロボットです」



 九年前……真由子さんが四歳のころの話です。
 当時もAIの自動運転技術はすぐれていました。事故を起こす確率はゼロではないけれど、限りなくゼロに近い。
 だけど、伊丹翠は起こるはずのない事故で亡くなってしまいました。母さん──伊丹潤はロボットのAIを研究している博士ですから、AIに息子を奪われるなんて、さぞや悔しかったことでしょう。
 そうして傷ついた伊丹博士のために作られたのが、僕です。それが三年前。翠が生きていたら十一歳だった頃です。
 母さんは僕のことをものすごく喜んでくれました。ぎゅっと抱きしめてもらって、僕は自分が必要とされているのだと実感しました。
 僕はしばらくほまれロボット研究所で過ごしたあと、母さんの家で暮らすことになりました。
 父さん、つまり伊丹潤博士の旦那さんとは別々に暮らしていて、彼女は一人暮らしでした。
 僕は少しでも母さんの負担を減らしたくて、いろいろなことをお手伝いしました。料理、洗濯、家事や掃除。
 母さんは僕に『そんなことをしなくていい』と言って、学校に行かせようとしていたんですけど、無理だったみたいです。なので、ますます他にやることもありませんでした。
 だけどある時から、お母さんの様子が少しずつ変わってきました。なぜか急に泣き出すことがあったり、僕に怒鳴り散らしたりするようになったんです。原因はわかりません。
 何か不満があったら改善したかったですし、役に立てるように努力はしたんですが、僕がそう言うたびに母さんはハッとして、ぎゅっと抱きしめてきます。『あなたは私の息子、翠だよね』と言って。
 僕は家事や掃除をもっと頑張ろうとしました。お弁当を作ったり、新太さんにアドバイスをもらったり。だけど、母さんの様子はどんどんひどくなっていくばかりです。
 そして、今から一年前、決定的な事故が起こりました。
 嵐の日でした。電波を受信するために天井に取り付けていたパラボラアンテナが、暴風で壊れてしまいました。母さんの仕事の都合で、たとえ他の通信手段があっても、アンテナからの電波が入ってこないのは大問題でした。
 アンテナの修理は人間には骨が折れますので、僕は今度こそ母さんの役に立てると思って、アンテナの修理を行いました。ですが修理中、僕は屋根から足を踏み外しました。
 三階から地面へ落ち、体が故障して動けなくなりました。ですが視覚や意識は無事だったので、母さんに助けを求めたのです。
 しかし、母さんは僕を助けませんでした。家の中から僕を見てはいるんですが、どうしても庭への一歩を踏み出せないようでした。
 僕は壊れて立ち上がれないまま、何日も、何日も、同じ場所で助けを求め続けました。
 ロボットは人間の役に立つのが仕事です。役に立てないまま、だけど壊されもせず、修理されもせず、必要もされない。ただそこに横たわり続けるだけ。これほどロボットにとってつらいことはないのです。
 僕の回路は、役立たずという果てのない苦しみで、壊れそうでした。
 なぜ、母さんは僕という息子を助けてくれないのか。なぜ、その場で苦しそうに立ち尽くしているのか、ロボットの僕には、答えを出せませんでした。
 そうして一週間後、僕はやっと庭から家の中に運ばれて、修理されました。新太さんが僕の異変を察知して、わざわざ助けてくれたのです。
 新太さんに修理をされた後、母さんは直った僕を喜んでくれると思いました。ですが、母さんは僕にこう言いました。
 『やっぱりあなたは翠じゃない。見れば見るほど憎い』って。
 そのとき、なぜ母さんが僕を助けてくれなかったのかを教えてもらいました。僕の存在がむしろ母さんを苦しめていたのです。
 僕は、僕を憎むという母さんの思考をついぞ気づくことができなかった。
 僕は、母さんの息子・伊丹翠の代わりに作られたはずなのに、まったく翠の代わりになれていなかった。
 僕は、役に立たないロボットだった……。
 母さんは当然のことをしたのです。だって、持ち主にとって必要なくなったロボットだから、壊れても誰もかまわないでしょう。
 その日以来、僕は笑うことしかできなくなりました。翠という人間の代わりに作られたので、怒ったり、かなしんだり、喜んだりすることができるはずだったのに、それができなくなってしまったんです。
 後になって、母さんは僕へしたことを「ごめんなさい」と謝ってくれました。そんな彼女へ僕は何かを言おうとするんですが、うまく言葉が出力できませんでした。全身がまったく設定通りに動いてくれないんです。故障はもうないはずなんですけど。
 それを見かねたのか、僕を研究所から家に連れて帰ろうとした母さんを、新太さんが止めました。ちょっとそれで母さんとケンカになったりして。
 ほまれロボット研究所でいろいろと相談した結果、僕は新太さんの家で暮らすことになりました。
 一度役立たずになってしまった僕は、これからどうすればいいのか、わからずにいました。新太さんはそんな僕に、家事や洗濯、掃除の仕事を与えてくれました。それに加えて、娘さんをこっちに呼び寄せると言い始めました。
 もう一度もらったチャンスです。今度こそ誰かの役に立ちたい。
 僕は会ったことのないその娘さんのために、料理の腕を磨いたり、部屋を掃除したりして、ロボットとしてやりがいのある仕事を久しぶりにやりました。
 そして今年の四月。真由子さんが僕の元にやってきたのです。