スイを先頭にして、私たちはクーちゃんのもとへと歩き出した。
 一歩一歩、ぬかるんだ道を進んでいく。さっきまで聞こえるか聞こえないかだった川の音が、ざざざざと大きくなっていく。
 ──くぅん……──
 あれ、今何か聞こえなかった?
 ──……くぅん……くぅん……──
   ──……くぅん──
 これは、犬の鳴き声だ。もしかして──!
「クーちゃんっ!?」
 くれはちゃんの叫びとともに、私たちは声のした方へ走り出した。ひらけたところに出ると、少し茶色がかった川が、水の音を重く響かせていた。
 速すぎる水の流れの間に、ポツンと岩が取り残されている。その上に、ずぶ濡れになって、毛に枝や葉っぱがひっついているポメラニアンがいた。
「クーちゃんッ!」
 くれはちゃんの叫びがぼわっと響く。その横で、スイがポツリとこぼす。
「まさか……あんなに流されてまだ回路がどこも破損していないなんて……!」
「クーちゃんって泳げないの? どうしてあそこで動けなくなってるんだろう? 川の流れが急すぎるから?」
 スイが私たちの数歩前に出て、じっとクーちゃんを凝視した。
「前足が故障しているようなので、おそらくそれが原因ですね」
 くれはちゃんがぐっと息を飲んだ。引き止めておかないと、くれはちゃんは今にも川に飛び込みそうだ。
「丸井くんが大人を呼びに行ってくれているし、川の流れが引くのを待って、クーちゃんを……」
「さきほど降り始めた雨で、きっと川はさらに増水するはずです。もしかしたら、助けを呼んでいる間にあの岩場の上まで水位が上がるかも」
 くれはちゃんが、悲鳴をあげた。
「じゃ、じゃあ今すぐ助けなきゃ……!」
「僕が行きます」
 スイは宣言して、私たちが何かを言う前に、バシャっと川へ足を踏み入れた。
「待って、危ないっ!」
 ロボットだから恐怖もためらいもないのか、スイはどんどん流れの速い川の中に入っていく。腰の近くまで水に浸かりながら、ゆっくり、ゆっくり、クーちゃんの元へ近づていく。
 一秒が、何十秒にも感じられた。
 見ている私たちのほうがやっとの思いでいると、スイがクーちゃんのいる岩場にたどりついた。
「おいで」
「くぅん」
 スイが丁寧な手つきでクーちゃんを抱え上げる。それと同時に、いきなり川の上流からもっと強い水の流れがやってきて、さっきまでクーちゃんのいた岩場が水に浸かった。
「あっ……!」
 くれはちゃんが腰を抜かした。間一髪……!
 増えた水位のせいで、スイの胸の位置まで水が迫ってきていた。早く……早く。あと数メートルだ。
 そう思ったのと同時に、スイの姿が、消えた。
 ううん、消えたんじゃない。川の深いところに足を取られて一瞬のうちに溺れたんだ!
「スイッ!」
 私は叫びながら、川の中に足を踏み入れていた。
「真由子ッ!」
 冷たく重い水のせいでで、うまく動けない。だけど確かにここまでスイがいたはず……!
 もしかして、流された?
「スイーーーっ!」
 さっきまで私に向かって笑っていた、きれいな顔を思い出す。水に溺れてスイが壊れてしまったら? 岩に頭を打ったりして、二度と動かなくなったら……?
 お別れを言う時間すらくれず、ある日突然いなくなったお母さんと同じ。
 そんなの、絶対にいやだ。助けなきゃ!
 考えに気を取られた一瞬、足元がふっと消えた。
「あっ」
 その瞬間にはもう、ドプンと頭まで水に浸かっていた。泳ごうとしても、ものすごい水の流れに逆らえなかった。しがみつけるものを探して、手を必死に伸ばす。
 息ができない……!
 そのとき、腰がぐっと何か強い力に掴まれた。一瞬のうちに水面に顔が出る。
「っはあッ!」
 スイの手が腰に回って、私は抱きかかえられていた。
 そのまま私たちは、くれはちゃんがいたところとは大きく離れた岸にたどり着いた。足元に地面がある。ドッと力が抜けた。咳き込みながらその場に座り込む。
「くぅん」
 スイが片手で抱え込んでいたクーちゃんを地面に下ろすと、しゃがんでいる私に目線を合わせてきた。
 スイの表情を見て、私は自分の目を疑った。眉をハの字に曲げて、目をギッと細めて、こっちをにらんでる。
 笑顔以外の表情をできないはずのスイが、間違いなく、怒っていた。
「なんてことをしたんですかっ!」
 肩をガッと、強い力で掴まれた。
「僕を助けようとして、危険な行動に出て、命を危険にさらしたんですよ!」
「わ、私」
 するとスイは、私の肩から手をはなして、苦しそうに頭を抱えた。
「僕はロボットです! 人間の真由子さんが僕のために危険を冒すなど、ろ、ロボットの僕が──あなたの、役に──や、役立たず──」
「スイ……!?」
「ロボットの僕は、たとえ壊れたって、ど、どうなっても誰もかまわない。だけど、真由子さんを失ったら、僕は」
 スイの体がビクッと震えた。まるで感情を持った人間が、寒さに震えたみたいだった。
「なぜ、今になって『怒り』が……」
 でもそれは一瞬のことで、いつもの無感情な顔に戻ったかと思うと、スイはもう一度口を開いた。
「僕に喜怒哀楽が備わっていたら、初めから『怒り』が出力できたなら。川へ入る前に、あなたへ強い警告を与えることができました。しかし欠陥品の僕には、それができませんでした」
 スイの綺麗な瞳が、こちらを見る。なんにも映していない、作り物の瞳が。スイのことを、初めて怖いと思った。
「──結論。あなたと出会う前に僕が壊れたままでいれば、あなたが危険な目に遭う確率は、ゼロパーセントでした……」
 スイの言葉が、ぐさりと突き刺さった。水に溺れていたさっきよりも、もっと胸が痛んで、息ができなくなる。
 バチン!
 気づけば私は、スイの頬をたたいていた。バスケットボールが当たった時のような衝撃を、手のひらに感じた。
「いたっ……!」
「ま、真由子さん、なんてことを。ケガは……」
 スイが震えた声を出しながら、私の指をつかもうとした。その手を思い切り振り払う。
「大っきらい!」
 どうなったってかまわない、だなんて。もっと前に壊れていればよかっただなんて。
 私と出会わなければよかったってこと?
「スイなんて大っきらいっ……!」
 手のひらがじんじんと、痛い。
 スイの役に立てると思っていた。迷惑ばかりじゃなくて、こんな私にも、何かできることがあるんじゃないかって。
「真由子さん」
 スイの表情が、歪む。にぎろうとして私が弾いてしまった手は、胸の中でぎゅっと掴んでいて。まるで、苦しみを覚えたみたいに、目尻がきゅっとなって、くちびるをかんでいた。
 いまの私は、勝手に飛び出して、助けてくれたスイの頬を叩いて、ワガママで、迷惑で。
 ざあざあ降りの雨よりも、私の心はもっとずっと荒れていて、寒さに震えて、苦しかった。