「よお、姉ちゃん。待たせたなぁ!」
「え?」
店のショーウィンドウにはかからないよう、端の方にいたせいなのか。
黒い服、サングラスをかけた男がニヤニヤと笑いながら近づいて来た。
ひゅ、と喉が鳴る。
「こっち来いや」
「あ、い、嫌……」
「い・い・か・ら・来・い・や」
「っ……」
手首を掴まれ、無理やり引っ張られた。
そのまま細い道を連れ回され、気怠さが強くなっていく。
まずい。
この男、おそらく洞窟の中にいた黒いマントの仲間だ。
声に聞き覚えがある。
「おらぁ!」
「きゃあっ!」
倉庫街に連れ込まれ、一つの倉庫の中へと放り込まれる。
ドアを閉められて倒れたまま髪を掴まれて奥へ奥へと引き摺られた。
「い、痛い……痛……!」
「おい! この女縛り上げとけ! アニキに連絡してこいや!」
「タックさん、勝手なことしていいんですか? 若は手を引くと言ってましたよ」
「ウッセー! 舐められたままで引き下がれっかっつーんじゃ!」
倉庫の中には十人ほどの黒いスーツの男たちがタバコを噴かし、カードゲームで遊んでいたりしている。
落ち着き払った彼らへ、涼を連れて来た男――タックは癇癪を起こした子どものように叫ぶ。
話から察するに独断のようだ。
「この女をダロアログに売りつけて、追加料金がっぽりもらえりゃアニキも機嫌直すだろ!」
「し、しかし……」
「口答えすんじゃぁねえ! 早くしろ!」
「は、はい」
仲間の一人がロープを持って、涼に近づく。
しっかり縛り上げられると、地面に転がされる。
スマートフォンのような通信端末で、あの“アニキ”とやらに連絡を取り始めた。
しかし通信機の向こうからは「なにやってんだバカ! 勝手な真似すんじゃねー!」という怒声。
タックはそれについて、必死で弁明している。
喋りながら涼の周りをうろうろと歩くので、会話の内容が筒抜けに聞こえてしまう。
(ん?)
その時、見上げていた倉庫の天窓に人の影が見えた。
気のせいではなく、逆光で見えづらいなか人が落ちて来た。
ギョッとする。
白い――マント。
「不用心だと思わなかったのか?」
「てめっ!?」
「ここは俺が教えた隠れ家だぜッ!」
「うがぁああああ!」
涼の側にいた男がナイフを取り出して涼を持ち上げるより先に、タックの首を掴んで着地した白いマントの男が放り投げる方が早かった。
近くにいた男ごとタックが壁際にあった木箱を破壊して沈む。
なんという怪力。
タックも190センチはある、かなり筋肉質な男だ。
それを軽々壁まで八メートル近く放り投げるとは。
「痛っ……て、テメェ〜!」
「アッシュは舎弟の躾がなってないな。甘やかしすぎじゃないのか? 人に甘い甘いという割に、テメェは身内に甘いじゃねえか。ククク」
「ア、アニキをバカにすんじゃねぇ!」
ガラガラ木箱の破片を押し除けて、出て来たタック。
涼の側にいた男がクッション代わりになったのだろう、存外ピンピンしている。
「その“アニキ”は俺を敵に回すことがどんなに馬鹿馬鹿しいことなのか、ちゃんと教えてくれなかったのか? 俺はな、俺より弱いやつには三回チャンスを与える。お前には二回目の忠告だ。次が最後になる。今手を引けば二回目のカウントは取り消そう。……消えな、雑魚」
「ふざっけんな! 誰が!」
『よせ! シド! ソイツは俺が躾ておく! 手ぇ出すんじゃねぇ!』
倉庫奥にいた男たちの側に落ちている通信端末から、灰色の髪の若い男の声が聞こえてくる。
こちらの声も彼方に届いているようだ。
それを聞いた白いマントの男が「あははは」と笑い出す。
「マジかよ、お前。アニキに無断で勝手に動いて失敗して、そのケツまでアニキに拭いてもらうのかぁ? なに、お前裏の世界に来て一週間目かなんかなの?」
「ぐっ! ぐっうううう! ぶ、ぶっ殺す!」
「はぁ……。下っ端からやり直しな」
溜息を吐いたあと、襲いくる巨漢に身を屈めてその腹へ向けて拳を叩き込んだ。
それは涼が、あの召喚された日に大男から食らった腹へのパンチより強力だった。
再び壁に積み上がった木箱へと吹き飛ばされ、粉砕して白目を剥いて気絶したタック。
それをした白マントは、涼しい顔で姿勢を正した。
「おい、テメェらアッシュにソイツ二度と俺の前にツラ見せるなっつっとけ。次俺の邪魔をするようなら殺すぞ」
「は、はい」
おそらく本当に脅しではない。
であれば、忠告を三回もすることはないだろう。
転がされたまま見上げていた涼を振り返ると、白マントの男は涼を地面からヒョイと持ち上げる。
「わ」
「口を閉じておけ」
「は、はい」
俵のように肩に担がれて、そう言われたら口をきゅっと一本に噤む。
目まで閉じたが、浮遊感と顔面に当たる風、腹に受ける振動を考えるに正解だったように思う。
十秒ほど動いたあと「もういいぞ」と言われて目を開けた。
「わ……」
そこは、倉庫の屋根。
倉庫街が見渡せる場所。
この倉庫街を覆うように飲食店街が建ち並んでいるようだ。
驚いている間に、涼を拘束していたロープが切られた。
「あ、ありがとうございます」
「礼はいい。それよりなぜ魔力が安定していない?」
「え? ええと……わ、私、魔力はないと言われました、けど……」
「魔力がない?」
目許しか出ていない白いマントの男。
隙間からわずかに揺れる金の髪と、白緑の美しい瞳。
その目にじっと見つめられると居心地が悪い。
「ああ、召喚の儀式の最中に別な契約を結んだせいで、お前の魔力ごと封じてしまったのか」
「……?」
「そのままでは生活に支障が出るだろ」
「え、あ――」
その通りなので、「はい」と言おうと顔を上げた。
彼がなにを言っているのかよくわからないけれど、気怠さや眩暈で病院からようやく出られたのは召喚から一週間後。
他の召喚者たちに比べて、完全なる出遅れ。
だから、困ってはいたのだ。
だが、見上げた瞬間口を塞がれて一瞬なにが起きたのかわからない。
あたたかくて、柔らかくて、ほんの少し甘い。
白緑の目に映る自分の黒い瞳。
唇と顔が離れる。
「――?」
「焼け石に水だな」
なにが起きたのか。
頭がまだ混乱している。
理解が追いつかない。
(え? いま……キス……? まさか、された? 私……)
勉強漬けと、お互いにすっかり興味を失った両親を見ているので涼には恋愛の経験はない。
異性とつき合うのも、当然キスも。
夢を見ていたわけではないが、あまりにも唐突にファーストキスを失って意味がわからなくなっている。
「〜〜〜〜っ」
口を押さえて、男を見上げる。
ようやく口許の布地を外したその顔は端正に整っていた。
この世界の人間は美形が多いと思っていたけれど、おそらくとびきり完璧な配置をしている。
倉庫上の強目の風にフードが外れると、肩より少し伸びた手入れされていない金髪が散らばった。
金髪碧眼の、美男子だ。
「とりあえず生活に必要な魔力だけは確保しておくか。――エルセイドの家名にて盟約を交わせし異界の者よ、その力を今こそ示せ――稲荷狐・治化狸」
『コーン!』
『ぽーん!』
「!?」
腰のポシェットから赤い石を取り出したと思ったら、魔法陣を足下に描き呪文を唱えてなにか出した。
五十センチほどの、小さな狐と狸。
二匹とも和柄の風呂敷を首に巻いている。
「道に迷い、倉庫街の裏道で出会ったということにしろ」
「え? あ、あの」
「治化狸は人の体調を整える能力がある。常に側に置いておけ。稲荷狐はこれで六尾の大妖だ。魔力が使えないのなら護衛として連れ歩け」
「あ、あの……えっと……」
歩み寄って来た狸が、涼の腰をぽんぽんと叩く。
混乱が残ったままだというのに、ずっと続いていた気怠さがスーと消えていきまた驚いた。
「あ、体が……楽……」
「……それとも、お前このまま俺と来るか?」
「え?」
腕を組み、目を細める男。
そもそも、この男はいったい何者なのだろうか。
なぜ――。
「ど、どうして、あの、そもそも……私を、助けてくれたんですか? ……た、助けて、くれるんです、か?」
もしかしたら、召喚されたあの日も助けてくれたのかもしれない。
さっきも。
そして今も。
明確に涼を、助けてくれている。
「もしかして――あなたが私をこの世界に、召喚した、あの時の……声の……」
ハロウィンのあの夜に、涼へ「誰も殺したくない」と助けを求めて来た男の人の声。
けれど、彼の声とは別のような気がする。
似ては、いるのだが。
「俺と共に来るのなら教える」
「……っ」
「だがダロアログに手を貸すのなら殺す。あのクズはまだお前のことに気がついていないようだが、アッシュ以外にも『赤い靴跡』の実働部隊はいくつもある。勘づかれれば明確に狙われるだろう」
「え!? あの、待ってください!? なんで私が狙われなきゃいけないんですか!?」
「無知は時に罪だが、時には身を守る。俺と来るのならすべてに答えるし、守ってやれる。だが、俺はお尋ね者で日陰者だ。この世界に来たばかりのお前に俺の道を共に歩めと言うのは酷であるとわかっている。だから、無理強いはしない」
「ぁ……」
フードを被り、目許を残して顔を覆う布をフードに取りつける。
顔を隠していたのは、お尋ね者だから。
そして、その世界に涼を無理に巻き込むつもりはないと言う。
「関わらずに、日の光の下で生きることもできるかもしれない。お前次第だ」
「……」
「で、どうする。俺と来るか。戻るか」
「――も、どり、たい、です」
腰が抜けたままだ。
この男と共に行く道とは、先程の男たちのようなものに関わるということ。
思い出すだけでまた震えてしまう。
それでも、助けてくれたこの男には感謝している。
キスは――さすがに色々思うところはあるけれど。
「まあ、それが無難だな。先程言ったが稲荷狐と治化狸は道に迷ったところで偶然会った、と言え。この町の召喚警騎士団ならそれで納得する」
「そ、そうなんですか……?」
「下りるぞ。そろそろ立てるか?」
「う……」
ぺたりと座り込んだままの涼の腰を、治化狸がまたぽこぽこと軽く叩く。
すると、体がまた軽くなった。
もしかして、と立ち上がると、抜けていた腰は跡形もない。
「わあ、すごい」
「抱えるぞ」
「え」
ガシ、と腰を抱かれて硬直する。
下りるとは、まさか――。
「口を閉じていろ」
「っーーーー!」
そのまま倉庫の屋根から地上に飛び降りた。
平然と降り立つが、いったいどうなっているのだろうか。
上から稲荷狐と治化狸もころんころんと落ちてきて、涼の肩に乗る。
重さはまったく感じない。
男が涼の腰から手を離し、スタスタと歩き始める。
「来い」
「は、はい。……あ、あの……そういえば、名前……」
「そのうち耳に入る」
町の賑わいが近づいてくる。
それは恩人との別れ。
立ち止まった白マントの男が涼を振り返り、あごでしゃくる。
「助けてくれて、ありがとうございます」
改めて、頭を下げるが男はなにも言わずに倉庫街の方へと戻っていく。
振り返ってその背中が見えなくなるまで見ていた。
名前は教えてもらえなかったが、彼を表す名を今日、いくつか聞いている。
シド・エルセイド。
「コンコン」
「ポコーン」
「あ、う、うん。表通りに戻ろう」
きっと忘れられない名前だ。
確信を持っていえる。