「え」
浴場にいたのは、リグだ。
シャワーを片手に持っているところ。
完全に目が合う。
その瞬間、我に帰った。
「ご――ごめんなさーーーい!」
スパーンと扉を閉めて踵を返し、ダッシュで脱衣場から出る。
どこをどう走ったかよくわからないが、気づくと閉めた玄関を開けて、表に出て来ていた。
そこで一気に息を吐き出す。
「ああぁ……! やってしまったぁー!」
「コンコーン」
「ぽんぽこー」
すりすりと左右からおあげとおかきが慰めてくれる。
顔を両手で覆い、しゃがみ込む。
完全に涼のミスだ。
ロッカーの忘れ物確認を怠った。
ちゃんと確認していれば、使用中のロッカーがあることにも、人が浴場にいることにも気づいたはずなのに。
「……で、でも……見てない……し」
肌色はわかった。
けれど肝心なところは多分見てない。
咄嗟だったのでわからなかった。
いや、そんな話ではなくて。
「ちゃんと謝らないと……」
はあ、と溜息を吐き気合いを入れて立ち上がる。
玄関を改めて閉めて、戸締りを確認。
その後恐る恐る脱衣所に戻ると、ものすごく静か。
「リ、リグ……? あの、さっきはごめんなさい……?」
「リョウ、僕はこのあとどうしたらいいのだろうか」
「はい?」
嫌な予感。
扉を開けないまま「どうしたの?」と聞き返すと「このあとどうしたらいいのかわからない」と繰り返される。
状況がまったくわからないので、そーっと扉を数センチ開けて中を覗いてみる。
シャワーを持ったまま固まっていた。
まさか、と思って「リ、リグ、シャワーの使い方わかる?」と聞いてみると「わからない」と首を横に振られる。
「な、なんで……!」
「レオスフィードが寝たから、水を飲みに下りてきたらリータに風呂に入ったのかを聞かれて――」
まだ、と答えたところ大浴場を勧められたらしい。
首を傾げながら入ってみたところ本当に広くて困惑したそうだ。
ダロアログに捕まっていた頃には経験したことのない、シャワー。
風呂自体は初めてでないにしても、それをどう使うのかはわからない。
なんてこったい、と頭を抱えた。
「あの、タオルを腰に巻いてもらってもいいかな?」
「わかった?」
そうお願いすると、リグは言う通りにタオルを腰に巻いてくれる。
見えなくなったのを確認してから浴場に入り、シャワーの使い方を教えた。
幸い、元の世界の銭湯と使い方は同じであり、お湯の温度の調整もお湯の出し方も一度教えればリグはすぐに覚えてくれる。
「これで濡らして、こだわりがなければシャンプーとボディソープで体を洗って、コンディショナーで髪を整えてからまたしっかり流して、そのあとあっちのお風呂に入るの。タオルは湯船に入れちゃダメね」
「わかった。あちらの奥の部屋はなんだろうか?」
「あっちはサウナ。ものすごーく暑い部屋で汗を流してから、あっちの水風呂に入って体を冷やすと血行がものすごーくよくなって気持ちいいんだって。私は調子に乗って倒れたことがあるから、それ以来怖くて入れてないんだけど……」
本当に、あれはびっくりした。
興味本位でサウナに入り、しばらくして出たら目の前が白くなって意識が飛びかけたのだ。
急速な血行促進に体が驚いたのだろう。
三十分ほど起き上がれなくて、以来サウナは自粛している。
「そうなのか。不思議なものがあるのだな」
「リグが出たらお湯は抜くけど、サウナは魔石でずっと熱されているからいつでも利用可能なの。サウナを使ってみる?」
「いや、よくわからないから誰かと一緒の時にする」
ぜひそうしていただきたい。
笑顔の裏でそう思いつつ、あえて口にはしないけれど。
「こんなに広い風呂も初めてだし」
「そっか」
「教えてくれて、ありがとう」
「――どういたしまして」
腰にタオルを巻いた、ほぼ全裸姿のリグを前になんとも言えない気持ちになる。
見てしまったは見てしまったのだが、大浴場が初めてのリグにこうして使い方を教えられたのはよかったのかもしれない。
若干、すでにこれからの生活に不安を感じたりもするけれど。
(でも、それだけリグは“普通の生活”を奪われてきたんだもんね)
これからたくさん経験してほしいことがたくさんある。
ただ、浴場の使い方だけは同性の誰かが教えてあげてほしかった。
いざ、とシャワーを浴びて髪や体を濡らし、シャンプーで頭を洗い始めたのを見てハッとする。
「あ、えーと、それじゃあ、私戻るね。あの、お風呂から上がったら声をかけてほしいな。あの、食堂の厨房にいるから。お風呂のお湯を抜かなきゃいけないの」
「わかった。……他にも気をつけるべきことはあるだろうか?」
「え、えーと……うーんと」
急に言われると思いつかないので困る。
しかし変なことをされるのはもっと困る。
悩んだ末――。
「脱衣場を掃除しているから、なにかわからないことがあったら声をかけて?」
「わかった」
あまり全裸のまま放置するのも風邪をひかせてしまうかもしれない。
使い方は教えたので、男子の脱衣場を掃除して片付けて見守ることにした。
二十分後、無事にお風呂を終えて出てきたリグに今度はドライヤーの使い方を教えて体重計や扇風機のことも説明する。
リグが着替えている間にお風呂のお湯を抜き、脱衣場に戻って電気を消して一緒に階段を上がった。
涼は二階だが、リグは三階。
二階についてから「私ここの部屋だから」と告げる。
不思議そうな顔をされた。
「リグ?」
「……すまない、まだ現実味がない」
「あー……そうかもね」
五歳の頃から監禁されて育ち、シドとダロアログの実力が逆転した頃から呪いを多重にかけられて人質にされてきたのだ。
自由というのは、リグにはまだまだ違和感があるのだろう。
「――ゆっくりでいいと思う。私も最初は実感が湧かなかったから」
「そう、なのか」
「うん。でも、きっとゆっくりわかっていくと思う。あなたは助かったんだよ。自由になったの。シドもきっと、もうあなたのために罪を犯すことはない。その必要がない。今度はシドとどうやって一緒に生きていけるかを考えよう」
「シドと……一緒に……いられるだろうか」
「うん。一緒に暮らせるように、私も頑張って考えるね」
「……」
手を取る。
指先が冷えていたので慌てて「あ、早くお布団に入って、あったかくして寝てね」と手を離した。
目を細めて見下ろされる。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
額を合わせて目を閉じる。
不思議なことに、リグとこうして額を合わせるのは自然に行う――当たり前の儀式のような感覚。
部屋に戻って涼も布団に入る。
今夜からは、カーベルトにリグもいるのだ。
「私、助けられたんだ」
ちゃんと、彼を。
約束通りに。
もちろんまだ安心はできない。
これから先も、リグは狙われ続けるから。
けれど、それでも――。
「コンコン」
「ぽんぽこ」
「うん、おやすみ。おあげ、おかき」
二匹を撫でながら、目を閉じる。
明日からリグにどんなもの食べてもらって、どんな経験をしてもらおうか。
嬉しそうでよかった。
(本当に……)