【月光】
ミイのこれまでの人生は、どちらかというと平凡だった。
例えば、小学生の頃から、クラスの中でも大人っぽいふんいきの女の子達は、ファッション雑誌の最新号やプチプラのコスメ情報をシェアしたり、恋の悩みやおすすめのデートプランを相談し合ったりするのが日常的な風景だった。
ミイも見た目だけで言えば活発そうだと思われるようなタイプだからか、そんな恋バナ女子トークに誘われることもあったけど、聞き慣れない甘い話題が絶えない集団の中にミイが混ざったことは一度もなかった。
それは別に、恋とか愛とかそういうものを避けていたわけじゃない。
ただ、分からなかったのだ。
誰かひとりの事だけがどうしても気になる、とか、その人の事を考えただけで胸がドキドキする、とか。そんなこと本当にあるの? って。
ひと目見た瞬間にイナズマが走ったような衝撃を受ける……なんて、恋愛マンガだけの話じゃないの? って。
そんなミイが、恋をした。
十五歳の、ひと目ぼれだった。
***
休みの日、特に出かける予定がないときは、ミイは図書館に行くことが多い。
家にいてもお母さんが「勉強しろ」とか「部屋を掃除しろ」とかうるさいだけだし、図書館なら近所にあってエアコンも効いているし、誰にもジャマされずに好きなだけ本を読めるのが気に入っていた。
本棚から数冊、気になる本を抜き取って、閲覧席でじっくりと読む。物語の中にいると、時間が過ぎるのはあっという間で、いつも閉館時間を知らせるアナウンスに顔を上げると、くもりガラスの向こう側の空は暗くなり始めているのだ。
その日も、そんな風に存分に物語を楽しんで、そろそろ帰ろうと椅子から立ち上がったときだった。
カウンターの方から、なんだかいつもと様子の違うやりとりが聞こえてきたのだ。
「……ですから、貸し出しカードがないと本は借りることはできないんです」
「でも僕はカードが作れないんでしょう?」
「はい、この市にお住まいであることか、通学か通勤でこの市に来ていると分かる書類が必要なんです」
「そんなのは持ってないなあ」
「でしたら、今日はやはり貸し出すことは難しいですね……」
どうやら、ひとりの男の人が図書館の本を借りたいと言っているようだ。
この図書館は、貸し出しカードで誰が何の本を借りているか管理しているのだが、彼はそのカードを作ることもできない状態のようだ。
それ自体はミイには関係のないことだったが、問題は、図書館から出るには、そのやりとりがされているすぐ横を通らなければ出口にたどり着けないということだ。
(もめている横を知らん顔して通るのもなあ……)
ミイは迷いつつも、おそるおそる声の方へ近づいた。
本棚の隙間の通路をいくつか抜けると、少しずつ声の主の姿が見えるようになってきた。
「でも、僕は今日この本を借りて帰りたいんです。なんとかなりませんか」
「あっ、それ……!」
彼が持っている本を見て、ミイは思わず声をあげた。
それは夜景専門のカメラマンが出している写真集で、世界各国の夜景を撮影したものだ。その街の住民たちの暮らしぶりや、どこまでも広がる自然、上空の星空など、かなり分厚くて、大きな本。
そして、それはミイがよく知っている本だった。
気がついた時には、ミイはその人に話しかけていた。
「困ってるなら……私が貸しましょうか?」
「えっ?!」
後ろから急に話しかけられておどろいたのか、その人は飛び上がるみたいにしてミイを振り返った。
「私、その写真集持ってるんで、家から持ってきて貸しましょうか?」
「いいの?!」
彼が振り返ったそのときのことを、ミイは今でも覚えている。
落ち着いた声だけ聞くと大人かと思っていたけど、どうやらミイと歳そんなに変わらないように見えた。高校生か、それくらい?
向こうが透けてみえそうなほどに淡い肌に、うらやましいくらいサラサラの髪。
青みがかった深い黒のふたつの瞳が、ミイの視線とぶつかった。
その人をひと目見た瞬間、ミイの中での時間が止まった。
(とてもキレイな人……)
いつのまにかぼんやりしていたらしい。
「あの、えっと……?」
話しかけられてふと我に返った。
「あ、あの! 前の公園で待っててください! 家から取ってくるので!」
そう言ってミイは家までの道を走り出した。
ドキドキとうるさい自分の心臓の音を聞きながら。
***
その男の人は、ユキと名乗った。
すっかり日の沈んだ公園で、ユキはミイが渡した写真集を受け取ると、にっこりと笑った。
「本当にありがとう。助かったよ。この写真集、ずっと探してたんだ。もう書店にも置いてないっていうし」
「この写真を撮ったの、実は、私のお父さんなんです。……今はもういなくなっちゃったけど」
そう、ミイのお父さんは、この写真集を作った写真家なのだ。
世界を旅する夜景写真家として人気があったが、ミイが小さい頃、いつものように撮影の旅に出たきり、ゆくえが分からなくなった。
ミイはもうほとんど残っていないお父さんの記憶の代わりに、この写真集を見て育った。
「そうだったんだ……そんな大切なものを借りてもいいのかな」
「はい、お父さんの写真を求めてくれる人がいるってことが嬉しいし」
ユキはミイの言葉にハッとしたような顔をして、それから目線だけで「ベンチに座らない?」とミイを誘った。
ミイも、もう少し彼と話がしたい気分だった。
ユキが近くの自動販売機で二本の缶ジュースを買って、そのうち一本をミイに放り投げる。キャッチすると、ココアだった。彼の手の中には、トマトジュースの缶が握られている。
トマトジュースを選ぶなんて、めずらしいな、とミイはちょっとおかしくなった。
「実は僕もね、世界を旅していたことがあって。その時に、この人に写真を撮ってもらったことがある……と思うんだ」
「お父さんにっ?!」
「そう、カメラを持って夜の風景ばかり撮っていたから、気になって、話しかけた。それで仲良くなって、一緒に出かけるようになって。僕は写真が苦手だったから、撮影の時は逃げてたんだけど、ある時、一枚だけ偶然写り込んじゃったみたい」
「それで……自分が写っている写真が見たくて写真集を探してたの?」
「うーん、ちょっと違うかな。自分が写っていないことを確認したいんだよ」
どういう意味だろう?
ミイにはよく分からなかったけど、なんとなく、踏み込んではいけないことのように思えて、ただあいまいに頷いた。
「じゃあさ、これの他にもお父さんの写真集、家にあるから、それも見てみる? 今度持ってこようか」
「本当?! そうしてもらえるとすごく助かるよ」
「じゃあ、またここに来週持ってくる」
だって私も、あなたにまた会いたいし。そんな言葉は飲み込んで、ミイは微笑んだ。
通りかかる人もいない公園で、月の光だけが二人を静かに照らしていた。
それから一週間に一度、出会った日と同じ公園で、写真集の受け渡しのために二人は待ち合わせた。
そのあと毎回、自動販売機でココアとトマトジュースを買って、それを飲みながらおしゃべりする。
待ち合わせがいつも日が暮れてからなので、一度「日中は何かしているの?」と聞いたら、ユキは笑って「だいたい寝てるかな」と答えた。
ミイとしては、このおしゃべりの時間の方が、写真集を渡すことよりもメインの目的になりつつあった。
好きな人と並んで、時間も忘れて笑ったり、ささいなことに驚いたり。こんなに楽しいと感じるのは久しぶりだった。
ある日、ユキがぽつりとつぶやいた。
「僕、女の子とこんなに話すのは初めてかもしれない」
「……彼女とかは? モテそうなのに」
ユキはおかしそうに笑った。
「いたことないよ。仲良くなりたいと思っても、そういう子はなぜかすぐに冷たくなっちゃって。僕だけ置いていかれちゃうんだ」
「私だったら……絶対にユキをひとりになんかしないのに」
「えっ」
言ってしまった。
「絶対ひとりにしない」なんて、ほとんど告白みたいなことを。
自覚したら急に顔が熱くなって、ミイは思わずうつむいた。それから、勇気を出して上目遣いでユキの反応をうかがうと、ユキはなんだかぽかんと口を開けていた。
も、もしかして、引かれちゃった……?
「ご、ごめん、今のはちょっと口が滑ったっていうか、なんというか、その……」
「……嬉しい」
「えっ」
「そんな風に言われたの、初めてだ。嬉しいよ。ねえミイ、これからもずっと一緒にいてくれる?」
ユキの夜色の目はキラキラとかがやいていた。
それを見て、ミイは宝石みたいだ、なんて事を考えながら、体の中を熱い血がどくどくと巡っているのを感じていた。
返事は決まっている。
「もちろん!」
***
晴れてカップルとなったミイたちは、いつかの女子トークに登場したようなデートプランを巡ったり雑誌に載ったオシャレなカフェでお茶を……
……することはなかった。
たまには朝から出かけようと誘っても、ユキは「ちょっと朝は苦手なんだ」と言葉をにごしながら断ってしまうし、それなら一緒に晩御飯を食べようという事になったのに、張り切って話題のパスタ屋さんに連れていくと「僕、ここには入れないよ」と泣きそうな顔をしてイヤイヤするみたいに首を横に振るのだ。
そうして結局、二人のデートはいつもの公園で、缶のココアとトマトジュースを飲むことになる。
「私も普通のデートっぽいことしたいんだけどなあ……」
ある日、ミイはそんなユキとの関係を、友達のナオにグチっていた。
ユキと行こうと思って調べていたカフェの、期間限定ケーキセットがどうしても食べたくて、でもやっぱりユキには断られたので仕方なく一人で行こうとしていたところ、ナオが一緒にいこうと言ってくれたのだ。
「それってさー、ちょっとアヤシくない?」
「どういうこと?」
「だって夜しか会おうとしないし、お店にも入らないんでしょ? もしかして、二人でいるところを見られたら困るってことなんじゃないの?」
「見られるって……だ、だれに」
「それは、やっぱり……本命の彼女がいる、とか」
ミイは自分の顔から、さっと血の気が引くのがわかった。
(ユキは、私を浮気相手にしている……?)
ミイの顔色を見て、ナオはあせったように両方の手のひらを振った。
「わー、ごめん! ミイを傷つけるつもりじゃなかったんだ! でも、本当に、そういう後ろ暗い関係なんだったら、早めに忘れた方がミイにとっても良いと思う……」
「うん、私のことを思って言ってくれてるの、分かるよ」
それから二人はしばらく沈黙したあと、気持ちを切り替え、ケーキを存分に味わって、予定通り楽しい時間を過ごした。
帰り道、ミイはひとり考えていた。
ナオは悪くない。自分でも、何かおかしいなと思っていたことだった。今日ナオに言われたことは、逃げ続けていた違和感に向き合うチャンスなのだとさえ感じる。
ミイは覚悟を決めることにした。
「ユキに、直接聞いてみよう……!」
***
その日の夜、いつものベンチで、ミイはユキにたずねた。
「ねえ……ユキって、私の他に本命の彼女がいるの?」
「ええっ? なんで?!」
ユキは心から驚いた様子だった。
ここで少しでも焦ったり、ごまかしたりする様子があれば、そのまま別れを切り出そうと思っていた。なのに、ユキの反応は予想していたどれとも違ったので、これをどうとらえていいのか、よくわからない。
「だって、昼間は会えないって言うし、夜でもお店に入るのはダメだし……もしかして、私とは別に本命の彼女がいて、その人に見つからないようにしてるんじゃないかって」
「違うよ!!」
ユキは勢いよく立ち上がった。
そして、そのままミイの正面に周り、勢いよく抱きしめた。
「……わっ!」
「不安にさせて本当にごめん。だけど、本当にそんなんじゃないんだ」
ユキはミイをギュッと抱いたまま、肩に顔をうずめた。
ずっと背中に回されたユキの手はひんやりと冷たく、そのおかげでミイの心も落ち着きを取り戻してきた。
「じゃあ、理由を教えてくれる?」
「朝がダメな理由はね、世界を旅してた頃の影響で、生活リズムが日本に合わなくなっちゃったみたいなんだ。だけど昼夜逆転してるなんて、恥ずかしいから黙ってた。ごめん」
なんだ、そんなことだったのか。
「ううん、話してくれて嬉しい」
「それと、この前行こうとしたお店は、パスタ屋さんだったでしょ? 僕、アレルギーがあって、食べられないものが多いんだ。ガッカリされたくなくて、ごまかしてたのも良くなかった。ごめん」
「私こそ、何も知らないのに責めるようなこと言って、ごめんね」
ちゃんと話してみて良かった。
ミイも、そっとユキの背に手を回した。
心臓の音がうるさい。
だけど、ずっとそうしていたかった。
「だけどね、これだけは言わせてほしい」
ユキはふと顔を上げ、ミイの目をまっすぐに見て言った。
陶器のように美しい顔が、こんなに近くにある。
月の光が、ユキの美しさをよりいっそう引き立てていた。
「僕はこんなに君を思っているのに、裏切るなんてありえないよ。これからもずっと一緒にいてほしい」
そう言って、静かに顔を寄せる。
ミイは、全てを受け入れようと、そっと目を閉じた。
***
【真宵の解説編】
ミイさんの初めての彼氏であるユキさんは、なんだか不思議な人でしたね。
デートは夜ばかりだし、一緒に食事をするのもさけようとしているようでした。
ミイさんのお友達は、もしかかして彼には昼に会ったり食事をしたりする本命の彼女がいて、ミイさんが浮気相手にされているのでは?と心配していましたね。
まあ、それは思い過ごしだったようですが。
あなたはどう思いましたか?
結論から言いますと、たしかにミイさんは浮気なんかされていません。
しかし、彼はミイさんにまだ隠していることがあるのです。
昼間に外へ出かけるのをいやがること、おしゃれなパスタ屋さんに入るのをためらうこと。ついでに、いつもトマトジュースを飲んでいることも、あるひとつの理由で説明がつくのです。
彼の正体は、ドラキュラなのです。
ドラキュラは夜の生き物なので、日光に当たると体が焼けて苦しむことになります。また、香辛料と呼ばれる食材――ちょうど、パスタによく使われるニンニクやハーブなどがそうです――も苦手としていて、近づくことができないそうです。
ところで、知っていますか?
ドラキュラは歳をとりません。
ミイさんは彼を「高校生くらい」と考えたようですが、おそらく彼は何十年、何百年というもっと長い年月を生きているのです。
だから、写真を探していたのですね。
何年もの間、同じ姿をしていることが分かると人間でないことがバレてしまうので。
そうそう、ドラキュラといえば、美しい女の人の血を飲んで生きながらえている生き物です。
トマトジュースは人間の血と見た目が似ているので飲むことができたのでしょう。
しかし、彼らの本当の生命の糧は女の人の血を飲むことです。
そして、狙われた女の人は一滴ものこさずその血を飲み干されてしまうといいます。
それをふまえると、ユキさんは前になんだか意味深なことを言っていましたね。
『仲良くなりたいと思っても、そういう子はなぜかすぐに冷たくなっちゃって』
血を飲み干された人は、当然、その命も尽きてしまいます。そりゃあ、冷たくなるでしょうね……。
ミイさんは一刻も早く、その男から逃げるべきです。
ミイのこれまでの人生は、どちらかというと平凡だった。
例えば、小学生の頃から、クラスの中でも大人っぽいふんいきの女の子達は、ファッション雑誌の最新号やプチプラのコスメ情報をシェアしたり、恋の悩みやおすすめのデートプランを相談し合ったりするのが日常的な風景だった。
ミイも見た目だけで言えば活発そうだと思われるようなタイプだからか、そんな恋バナ女子トークに誘われることもあったけど、聞き慣れない甘い話題が絶えない集団の中にミイが混ざったことは一度もなかった。
それは別に、恋とか愛とかそういうものを避けていたわけじゃない。
ただ、分からなかったのだ。
誰かひとりの事だけがどうしても気になる、とか、その人の事を考えただけで胸がドキドキする、とか。そんなこと本当にあるの? って。
ひと目見た瞬間にイナズマが走ったような衝撃を受ける……なんて、恋愛マンガだけの話じゃないの? って。
そんなミイが、恋をした。
十五歳の、ひと目ぼれだった。
***
休みの日、特に出かける予定がないときは、ミイは図書館に行くことが多い。
家にいてもお母さんが「勉強しろ」とか「部屋を掃除しろ」とかうるさいだけだし、図書館なら近所にあってエアコンも効いているし、誰にもジャマされずに好きなだけ本を読めるのが気に入っていた。
本棚から数冊、気になる本を抜き取って、閲覧席でじっくりと読む。物語の中にいると、時間が過ぎるのはあっという間で、いつも閉館時間を知らせるアナウンスに顔を上げると、くもりガラスの向こう側の空は暗くなり始めているのだ。
その日も、そんな風に存分に物語を楽しんで、そろそろ帰ろうと椅子から立ち上がったときだった。
カウンターの方から、なんだかいつもと様子の違うやりとりが聞こえてきたのだ。
「……ですから、貸し出しカードがないと本は借りることはできないんです」
「でも僕はカードが作れないんでしょう?」
「はい、この市にお住まいであることか、通学か通勤でこの市に来ていると分かる書類が必要なんです」
「そんなのは持ってないなあ」
「でしたら、今日はやはり貸し出すことは難しいですね……」
どうやら、ひとりの男の人が図書館の本を借りたいと言っているようだ。
この図書館は、貸し出しカードで誰が何の本を借りているか管理しているのだが、彼はそのカードを作ることもできない状態のようだ。
それ自体はミイには関係のないことだったが、問題は、図書館から出るには、そのやりとりがされているすぐ横を通らなければ出口にたどり着けないということだ。
(もめている横を知らん顔して通るのもなあ……)
ミイは迷いつつも、おそるおそる声の方へ近づいた。
本棚の隙間の通路をいくつか抜けると、少しずつ声の主の姿が見えるようになってきた。
「でも、僕は今日この本を借りて帰りたいんです。なんとかなりませんか」
「あっ、それ……!」
彼が持っている本を見て、ミイは思わず声をあげた。
それは夜景専門のカメラマンが出している写真集で、世界各国の夜景を撮影したものだ。その街の住民たちの暮らしぶりや、どこまでも広がる自然、上空の星空など、かなり分厚くて、大きな本。
そして、それはミイがよく知っている本だった。
気がついた時には、ミイはその人に話しかけていた。
「困ってるなら……私が貸しましょうか?」
「えっ?!」
後ろから急に話しかけられておどろいたのか、その人は飛び上がるみたいにしてミイを振り返った。
「私、その写真集持ってるんで、家から持ってきて貸しましょうか?」
「いいの?!」
彼が振り返ったそのときのことを、ミイは今でも覚えている。
落ち着いた声だけ聞くと大人かと思っていたけど、どうやらミイと歳そんなに変わらないように見えた。高校生か、それくらい?
向こうが透けてみえそうなほどに淡い肌に、うらやましいくらいサラサラの髪。
青みがかった深い黒のふたつの瞳が、ミイの視線とぶつかった。
その人をひと目見た瞬間、ミイの中での時間が止まった。
(とてもキレイな人……)
いつのまにかぼんやりしていたらしい。
「あの、えっと……?」
話しかけられてふと我に返った。
「あ、あの! 前の公園で待っててください! 家から取ってくるので!」
そう言ってミイは家までの道を走り出した。
ドキドキとうるさい自分の心臓の音を聞きながら。
***
その男の人は、ユキと名乗った。
すっかり日の沈んだ公園で、ユキはミイが渡した写真集を受け取ると、にっこりと笑った。
「本当にありがとう。助かったよ。この写真集、ずっと探してたんだ。もう書店にも置いてないっていうし」
「この写真を撮ったの、実は、私のお父さんなんです。……今はもういなくなっちゃったけど」
そう、ミイのお父さんは、この写真集を作った写真家なのだ。
世界を旅する夜景写真家として人気があったが、ミイが小さい頃、いつものように撮影の旅に出たきり、ゆくえが分からなくなった。
ミイはもうほとんど残っていないお父さんの記憶の代わりに、この写真集を見て育った。
「そうだったんだ……そんな大切なものを借りてもいいのかな」
「はい、お父さんの写真を求めてくれる人がいるってことが嬉しいし」
ユキはミイの言葉にハッとしたような顔をして、それから目線だけで「ベンチに座らない?」とミイを誘った。
ミイも、もう少し彼と話がしたい気分だった。
ユキが近くの自動販売機で二本の缶ジュースを買って、そのうち一本をミイに放り投げる。キャッチすると、ココアだった。彼の手の中には、トマトジュースの缶が握られている。
トマトジュースを選ぶなんて、めずらしいな、とミイはちょっとおかしくなった。
「実は僕もね、世界を旅していたことがあって。その時に、この人に写真を撮ってもらったことがある……と思うんだ」
「お父さんにっ?!」
「そう、カメラを持って夜の風景ばかり撮っていたから、気になって、話しかけた。それで仲良くなって、一緒に出かけるようになって。僕は写真が苦手だったから、撮影の時は逃げてたんだけど、ある時、一枚だけ偶然写り込んじゃったみたい」
「それで……自分が写っている写真が見たくて写真集を探してたの?」
「うーん、ちょっと違うかな。自分が写っていないことを確認したいんだよ」
どういう意味だろう?
ミイにはよく分からなかったけど、なんとなく、踏み込んではいけないことのように思えて、ただあいまいに頷いた。
「じゃあさ、これの他にもお父さんの写真集、家にあるから、それも見てみる? 今度持ってこようか」
「本当?! そうしてもらえるとすごく助かるよ」
「じゃあ、またここに来週持ってくる」
だって私も、あなたにまた会いたいし。そんな言葉は飲み込んで、ミイは微笑んだ。
通りかかる人もいない公園で、月の光だけが二人を静かに照らしていた。
それから一週間に一度、出会った日と同じ公園で、写真集の受け渡しのために二人は待ち合わせた。
そのあと毎回、自動販売機でココアとトマトジュースを買って、それを飲みながらおしゃべりする。
待ち合わせがいつも日が暮れてからなので、一度「日中は何かしているの?」と聞いたら、ユキは笑って「だいたい寝てるかな」と答えた。
ミイとしては、このおしゃべりの時間の方が、写真集を渡すことよりもメインの目的になりつつあった。
好きな人と並んで、時間も忘れて笑ったり、ささいなことに驚いたり。こんなに楽しいと感じるのは久しぶりだった。
ある日、ユキがぽつりとつぶやいた。
「僕、女の子とこんなに話すのは初めてかもしれない」
「……彼女とかは? モテそうなのに」
ユキはおかしそうに笑った。
「いたことないよ。仲良くなりたいと思っても、そういう子はなぜかすぐに冷たくなっちゃって。僕だけ置いていかれちゃうんだ」
「私だったら……絶対にユキをひとりになんかしないのに」
「えっ」
言ってしまった。
「絶対ひとりにしない」なんて、ほとんど告白みたいなことを。
自覚したら急に顔が熱くなって、ミイは思わずうつむいた。それから、勇気を出して上目遣いでユキの反応をうかがうと、ユキはなんだかぽかんと口を開けていた。
も、もしかして、引かれちゃった……?
「ご、ごめん、今のはちょっと口が滑ったっていうか、なんというか、その……」
「……嬉しい」
「えっ」
「そんな風に言われたの、初めてだ。嬉しいよ。ねえミイ、これからもずっと一緒にいてくれる?」
ユキの夜色の目はキラキラとかがやいていた。
それを見て、ミイは宝石みたいだ、なんて事を考えながら、体の中を熱い血がどくどくと巡っているのを感じていた。
返事は決まっている。
「もちろん!」
***
晴れてカップルとなったミイたちは、いつかの女子トークに登場したようなデートプランを巡ったり雑誌に載ったオシャレなカフェでお茶を……
……することはなかった。
たまには朝から出かけようと誘っても、ユキは「ちょっと朝は苦手なんだ」と言葉をにごしながら断ってしまうし、それなら一緒に晩御飯を食べようという事になったのに、張り切って話題のパスタ屋さんに連れていくと「僕、ここには入れないよ」と泣きそうな顔をしてイヤイヤするみたいに首を横に振るのだ。
そうして結局、二人のデートはいつもの公園で、缶のココアとトマトジュースを飲むことになる。
「私も普通のデートっぽいことしたいんだけどなあ……」
ある日、ミイはそんなユキとの関係を、友達のナオにグチっていた。
ユキと行こうと思って調べていたカフェの、期間限定ケーキセットがどうしても食べたくて、でもやっぱりユキには断られたので仕方なく一人で行こうとしていたところ、ナオが一緒にいこうと言ってくれたのだ。
「それってさー、ちょっとアヤシくない?」
「どういうこと?」
「だって夜しか会おうとしないし、お店にも入らないんでしょ? もしかして、二人でいるところを見られたら困るってことなんじゃないの?」
「見られるって……だ、だれに」
「それは、やっぱり……本命の彼女がいる、とか」
ミイは自分の顔から、さっと血の気が引くのがわかった。
(ユキは、私を浮気相手にしている……?)
ミイの顔色を見て、ナオはあせったように両方の手のひらを振った。
「わー、ごめん! ミイを傷つけるつもりじゃなかったんだ! でも、本当に、そういう後ろ暗い関係なんだったら、早めに忘れた方がミイにとっても良いと思う……」
「うん、私のことを思って言ってくれてるの、分かるよ」
それから二人はしばらく沈黙したあと、気持ちを切り替え、ケーキを存分に味わって、予定通り楽しい時間を過ごした。
帰り道、ミイはひとり考えていた。
ナオは悪くない。自分でも、何かおかしいなと思っていたことだった。今日ナオに言われたことは、逃げ続けていた違和感に向き合うチャンスなのだとさえ感じる。
ミイは覚悟を決めることにした。
「ユキに、直接聞いてみよう……!」
***
その日の夜、いつものベンチで、ミイはユキにたずねた。
「ねえ……ユキって、私の他に本命の彼女がいるの?」
「ええっ? なんで?!」
ユキは心から驚いた様子だった。
ここで少しでも焦ったり、ごまかしたりする様子があれば、そのまま別れを切り出そうと思っていた。なのに、ユキの反応は予想していたどれとも違ったので、これをどうとらえていいのか、よくわからない。
「だって、昼間は会えないって言うし、夜でもお店に入るのはダメだし……もしかして、私とは別に本命の彼女がいて、その人に見つからないようにしてるんじゃないかって」
「違うよ!!」
ユキは勢いよく立ち上がった。
そして、そのままミイの正面に周り、勢いよく抱きしめた。
「……わっ!」
「不安にさせて本当にごめん。だけど、本当にそんなんじゃないんだ」
ユキはミイをギュッと抱いたまま、肩に顔をうずめた。
ずっと背中に回されたユキの手はひんやりと冷たく、そのおかげでミイの心も落ち着きを取り戻してきた。
「じゃあ、理由を教えてくれる?」
「朝がダメな理由はね、世界を旅してた頃の影響で、生活リズムが日本に合わなくなっちゃったみたいなんだ。だけど昼夜逆転してるなんて、恥ずかしいから黙ってた。ごめん」
なんだ、そんなことだったのか。
「ううん、話してくれて嬉しい」
「それと、この前行こうとしたお店は、パスタ屋さんだったでしょ? 僕、アレルギーがあって、食べられないものが多いんだ。ガッカリされたくなくて、ごまかしてたのも良くなかった。ごめん」
「私こそ、何も知らないのに責めるようなこと言って、ごめんね」
ちゃんと話してみて良かった。
ミイも、そっとユキの背に手を回した。
心臓の音がうるさい。
だけど、ずっとそうしていたかった。
「だけどね、これだけは言わせてほしい」
ユキはふと顔を上げ、ミイの目をまっすぐに見て言った。
陶器のように美しい顔が、こんなに近くにある。
月の光が、ユキの美しさをよりいっそう引き立てていた。
「僕はこんなに君を思っているのに、裏切るなんてありえないよ。これからもずっと一緒にいてほしい」
そう言って、静かに顔を寄せる。
ミイは、全てを受け入れようと、そっと目を閉じた。
***
【真宵の解説編】
ミイさんの初めての彼氏であるユキさんは、なんだか不思議な人でしたね。
デートは夜ばかりだし、一緒に食事をするのもさけようとしているようでした。
ミイさんのお友達は、もしかかして彼には昼に会ったり食事をしたりする本命の彼女がいて、ミイさんが浮気相手にされているのでは?と心配していましたね。
まあ、それは思い過ごしだったようですが。
あなたはどう思いましたか?
結論から言いますと、たしかにミイさんは浮気なんかされていません。
しかし、彼はミイさんにまだ隠していることがあるのです。
昼間に外へ出かけるのをいやがること、おしゃれなパスタ屋さんに入るのをためらうこと。ついでに、いつもトマトジュースを飲んでいることも、あるひとつの理由で説明がつくのです。
彼の正体は、ドラキュラなのです。
ドラキュラは夜の生き物なので、日光に当たると体が焼けて苦しむことになります。また、香辛料と呼ばれる食材――ちょうど、パスタによく使われるニンニクやハーブなどがそうです――も苦手としていて、近づくことができないそうです。
ところで、知っていますか?
ドラキュラは歳をとりません。
ミイさんは彼を「高校生くらい」と考えたようですが、おそらく彼は何十年、何百年というもっと長い年月を生きているのです。
だから、写真を探していたのですね。
何年もの間、同じ姿をしていることが分かると人間でないことがバレてしまうので。
そうそう、ドラキュラといえば、美しい女の人の血を飲んで生きながらえている生き物です。
トマトジュースは人間の血と見た目が似ているので飲むことができたのでしょう。
しかし、彼らの本当の生命の糧は女の人の血を飲むことです。
そして、狙われた女の人は一滴ものこさずその血を飲み干されてしまうといいます。
それをふまえると、ユキさんは前になんだか意味深なことを言っていましたね。
『仲良くなりたいと思っても、そういう子はなぜかすぐに冷たくなっちゃって』
血を飲み干された人は、当然、その命も尽きてしまいます。そりゃあ、冷たくなるでしょうね……。
ミイさんは一刻も早く、その男から逃げるべきです。