【展覧会の絵】
 校門を通って真っ直ぐ進むと、細かな装飾(そうしょく)に建築家のこだわりが光る、はなやかなエントランスが出迎えてくれる。この町の出身のとても有名な建築家が設計したとかで、メイは毎朝登校するたびに、まるで美術館に来たかのような気分になる。
 たぶん、並んでいる全校生徒のくつ箱さえもデザインの一部として計算されているのだろう。入り口に一番近い一年生のエリアから順に、ゆるやかなカーブを描くくつ箱の波をたどっていくと、かべぎわまで来たとき、ようやくメイたち六年生の上ばきが現れる。
 それと同時に目に飛び込むのが――

「おはよ、マダム」
 今朝も無事に学校に到着したところで、メイはくつをはきかえながら、かべを見上げて小さく呼びかけた。
 
 エントランスに入って正面のかべには、この豪華(ごうか)な空間をよりいっそう上品なふんいきへと演出している印象的なアイテムがある。
 それが、片方のうでにまだ小さな赤ん坊を抱いた婦人を描いた、大きな油絵なのだった。
 
 まるで展覧会の絵のように、おごそかな様子でかべに飾られているその婦人は、開校当初からそこにいると言う。だから、全校生徒の誰よりも大先輩だ。
 尊敬(そんけい)の気持ちを込めて、生徒たちはみんなこの婦人を「マダム」と呼んでいる。
 
「やだあ、メイってば。マダムにあいさつなんかしたら呪われちゃうよ」
 遅れて登校してきたジュリが、メイを横目に冗談っぽい口ぶりで笑った。
 メイも、ジュリが本気で言っているわけではないのを知っているので、笑って答える。
「『マダムの呪い』なんて、絶対ウソだよ。誰かがおもしろがって低学年の子たちをこわがらせるために作ったんじゃない? 五年間この学校に通ってて、マダムが動くところなんて一回も見たことないもん」

 そう、このタソガレ小学校のエントランスに飾られている大きな絵画には、あるウワサがある。
 エントランスに誰もいない時間に、絵の中の婦人の手が動くというのだ。

 婦人は、左の腕に小さな赤ん坊を抱いていて、右手はその子のお腹のあたりをなでている。そして、その横顔は、すやすや眠る赤ん坊を愛おしそうに見つめている。
 そこだけを見ると愛情深い母親の日常のワンシーンを切り取っただけのように思える。
 しかし、実はこのマダムはこの赤ん坊をひそかに憎んでいるのだという。だから、その微笑みの下におそろしい計画を隠しているのだ。
 今は赤ん坊のお腹あたりを優しくなでている右手は、毎日誰も気が付かないくらい少しずつ動いていて、いつの間にか赤ん坊の胸元をつかみ、最後には赤ん坊を放り投げて殺してしまうらしい。

 ――動いた姿のマダムを見た人は死ぬ。
 ……というのがタソガレ小学校で『マダムの呪い』と呼ばれているウワサの詳細だ。

 今でこそ、笑い話にしているメイたちだけれど、低学年の頃にその話を知った時は、あまりの恐怖にエントランスに入るのをこわがる子が続出した。
 一年生が入り口の近くのくつ箱で、学年が上がるとだんだんマダムに近づいていく今のレイアウトは、このウワサが原因らしい、とメイはジュリから聞いたことがある。

***
 
 ある日のことだった。
 放課後、教室に残っておしゃべりしていたメイとジュリは、たまたま現れた先生に頼まれて、教室の掲示物の張り替えを手伝っていた。
 なので、その日は帰りがいつもより遅かった。空は図工室の絵の具を何種類も溶かし込んだみたいに深いオレンジ色で、普段の学校の景色が夢の中のように幻想的だった。

「やっと終わったー! かえろかえろー」
「来月の学級新聞、先生気合い入ってたね」

 そんな風におしゃべりしながら二人で並んでくつをはきかえようとした時、どこからか小さな声が聞こえてきたのだ。

――ぐすん……ぐすん……
 
「だれかいるのっ?!」
 メイはとっさに声のする方へ呼びかけた。
 ジュリと顔を見合わせて、おそるおそる声の方へ進む。すると、入り口の床でうずくまっていたのは一年生の名札をつけた女の子だった。

「あの子、一年生……だよね?」
「ちょっと、話しかけてみようか」
「うん、そうだね」
 ジュリはいくつか歳のはなれた弟がいるので、メイと違って年下と話すのが上手い。
 メイがいつもの勢いでいきなり突撃しても、余計にこわがらせてしまいそうなので、おとなしくジュリに任せることにした。
 
「ねえねえ、どうしたの」
「ぐすん……わたし、忘れ物しちゃって……」
「そう、忘れ物したのが悲しかったの?」
「ううん、忘れ物に気がついて、取りに来たの。だけど……マダムがこわくて中に入れなくて……」

 うつむいたまま、女の子は手だけを伸ばして後ろのほうを指差した。
 メイは導かれるようにその方向を振り返る。

 マダムが、笑っていた。
 しかし、毎日見るような柔らかな微笑みではなかった。
 夜の気配が混ざった赤黒い夕焼け空を見上げるマダムは、その肌を燃える夕日に照らされて、なんだかとても邪悪(じゃあく)な笑みを浮かべているように見えたのだ。

「わぁ……」
「たしかに、これは、ちょっとこわかったね……」

 メイとジュリは気の毒な気持ちになって、下級生の忘れ物を教室まで一緒に取りに行ってあげることにした。
 無事にノートを見つけた女の子に「おねえちゃんたち、ありがとう!」とキラキラした目で言われて、思わず「もし私に妹がいたら、こんな感じだったのかな」なんてニヤけてしてしまうメイなのだった。
 

 その帰り、二人の話題はマダムで持ちきりだった。

「さっきのマダムは、たしかに今にも動き出しそうって感じだったね」

 ジュリは冬の寒い日にそうするように、両手をクロスさせて自分の両うでをさすっている。メイも、さっきの景色を思い出すとゾクゾクとした寒気のようなものが背中を走っていた。

「でもさ、マダムの手はちゃんと赤ちゃん抱っこしてたよね? 動いてはいなかったはず」

 あんなものを見てしまった後なので、ウワサなんか信じない派のメイも、なんだか自分に言い聞かせるような口ぶりになってしまう。

「そうだけど、私たちが気づかないくらいちょびっとずつ動いてるって話だよ。昨日と今日でほんのちょっと場所が変わってて私たちが見逃してる……って、ありえるんじゃない?」
「それはそうだけど……あっ! そうだ!」

 メイが急に立ち止まったので、ジュリはおどろいて前につんのめった。

「わあっ! ちょっと、急に大きい声出さないでよ!」
「あはは、ごめんごめん。ねえ、私、いいこと考えた!」

 メイはそのまま「明日から、私ちょっと早めに学校行くことにするねーっ!」とジュリに手を振って、家までの道を走り始めた。

 ***

 メイはいつかの夏休みに、自由研究で「爪のかんさつ」という課題に取り組んだことがある。
 爪は普段動いているようには見えないけれど、いつのまにか伸びている。ずっとそれがフシギだったから、自分の爪がどれくらいのスピードで伸びているのか調べたのだ。
 その方法はシンプルで、爪の付け根のところに油性ペンで印をつけておく。それを何日かおきに繰り返し、爪が伸びるのとともに印が移動していく様子を観察したのだ。

 ――この方法、マダムの手の動きを調べることにも使えるんじゃない?
 メイがひらめいたのは、それだった。

 次の日、メイは誰よりも早く登校した。エントランスに誰もいないことを確認してから、額縁の外側の壁にえんぴつで小さく印をつける。
 それは、マダムの手の指先からまっすぐ下に下りてきた位置だ。

「もしマダムが動いているなら、この線を目印にすれば分かるはず」

 一週間、いや、一ヶ月経っても場所が変わらなければ、この印がマダムは動いていない証拠になる。
 そうしたらあの一年生の女の子に言ってあげよう。
「マダムのウワサはただの作り話だよ」って。
 
***

 メイの情熱は本物だった。
 学校がある日は毎朝、ねぼうすることも、くじけることもなく朝早くに登校して、マダムの指先の位置を記録し続けた。
 そうして一ヶ月が経つ日、メイは最後の印をつけようとしている。

「これで二十回くらい記録をつけたことになるのか……でも……」

 えんぴつで引いた線はずっと同じ場所。
 位置が変わらないから、今日の線が何本目なのかわからないくらい。

「もうこれは、動いてないってことで間違いない……よね」

 うん、これでいい。
 メイは、今日、クラスのみんなに話すつもりだ。
「マダムの呪いはニセモノだ」って。
 
 友達同士でナイショ話をするみたいにこわいはなしを共有するのも楽しかったけど、それは小さい子を泣かせてまでする楽しみじゃない。

 メイは朝日が射して、神々しい輝きを放っているマダムの絵を改めて見上げた。 

「マダムが赤ちゃんを殺すなんてさ、ひどいデタラメだよねえ。ねっ、マダム」

 絵の中の婦人は「そうですとも」とでも言いたげに、メイに向かって小さく首をかしげて、穏やかな微笑みを浮かべている。
 
***
【真宵の解説編】
 気がつきましたか?
 このお話のおかしな部分に。

 メイさんたちが「マダム」と呼んでいる絵画の中の女性ですが、最初は腕の中の赤ん坊を見つめていたのではありませんでしたか?
 しかし、最後の場面では、マダムはメイさんの方を向いて微笑んでいるではありませんか。
 よく考えると、夕焼けに照らされた日も、手元の赤ん坊ではなく夕焼けを見上げています。

 マダムの手が動くというのは間違った情報です。
 それはメイさんが確かめた通りでした。
 
 だって――誰も気が付かないところで動いていたのは、首だったのですから。
 
 そういえば、メイさんの学校には「動いたマダムを見ると死ぬ」というウワサがありましたが……メイさん、無事に卒業できると良いですね。