病室からの帰り道、俺は廊下で一人の女性とすれ違った。お互い会釈をしてそのまま通り過ぎようとしたが、その人が急に立ち止まって話しかけてきた。
「あの……もしかして貴方が嵐君?」
「え?」
 呼び止められた事に驚いて振り返るとその人が笑顔で近づいてきた。
「吹雪の母です。いつも吹雪が貴方の事を話してくれるのですぐにわかりましたよ。」
「え……お母さん…?」
 思いがけないタイミングでの遭遇に慌てて直立不動になる。実を言うと同棲すると決まった時に一度両親に会わせてくれと吹雪に言ったんだけど、『結婚する訳じゃないし、そんなにかしこまらなくてもいいわよ。』と押し切られて結局会わずじまいだったのだ。こんなとこで会うなんて……
「ど、どうも……あ、初めまして。辻本嵐です。吹雪さんとはその……」
「そんなにかしこまらなくてもいいのよ。別に貴方達の交際や同棲に関して反対してる訳じゃないんだから。」
 さすが母娘。言ってる事が見事に被ってる。しかも言い方とかそっくりだし。顔はお父さん似なのかな、あんまり似てない…って考えてる場合じゃないか。
「でもちゃんとご挨拶に伺うべきでした。すみませんでした。」
「まぁ!今時珍しいできた子ね。ねぇ、ちょっといい?」
 そう言って吹雪のお母さんは近くの休憩スペースを指差した。何か話があるのだろう。俺は冷や汗をかきながらお母さんの後についていった。

「貴方が救急車を呼んでくれたんですってね。」
「えぇ。僕の目の前で事故にあってしまって……僕がついていながら本当に申し訳ありませんでした。」
「貴方のせいではないんだから頭を上げて。それよりあの子の足や声が出せない事について貴方に言いたい事があるの。」
「え、何ですか……?」
 心臓がドキリと跳ねる。何を言われるのかヒヤヒヤしながら待つと、少し悲しげな笑みを浮かべながら口を開いた。
「先生が仰るにはね、リハビリをすれば歩けるようになるかも知れないそうなの。」
「そうなんですか!?」
「でもその為にはとても辛いリハビリに挑まないといけないって言われて……それに今はまだ安静にしてないと本人も痛みで夜も眠れない状態でね。リハビリに入れるようになるにはまだまだかかるかも知れないの。」
「それは……そうですよね。まず痛みがとれないと動けないですもんね……」
 俺が沈んだ声で返すと、お母さんは吹雪に良く似た明るい声で言った。
「そんな顔しないの!男の子でしょ!」
「いっ……!」
 病院の中、しかも相手が恋人の母親だっていう事も忘れて大声を上げそうになった。それにしても吹雪のあの凶暴さはお母さんゆずりって事か……
「あら、ごめんなさい。私ってばつい……」
『つい、いつものくせで……』って続きそうな言葉を聞いて、何だかお父さんに同情したくなった。

「で、どこまで話したかしら?」
 加えて天然か!心の中で突っ込んでいると思い出したのかうんうんと頷きながら、
「そうそう。あの子の声の事なんだけど。」
 そう言った。俺は居住まいを正す。
「失声症っていうそうよ。心理的な要因によるものだって。たぶんよっぽど怖い思いをしたんでしょう。一瞬だったからよくわからなかったのかも知れないけど、無意識にストレスがかかってしまったのね。できる事なら代わってあげたいわ……」
 沈痛な面持ちで目頭に指を当てるお母さんを、俺は黙って見ている事しかできなかった。
「それでね、今後の事なんだけど。」
 しばらくそうした後、顔を上げたお母さんは俺に向き直って切り出した。
「いつ退院になるかわからないけど、退院したらこちらの方で引き取って療養させたいの。だから悪いんだけど一旦同棲は解消っていう事になるわね。」
「そんな……」
 わかっていた。吹雪が戻ってきたところで俺一人で面倒をみる自信なんてない。それでも、『同棲解消』この言葉が酷くショックだった。
「……わかりました。でも入院している間は毎日来てもいいですよね?」
「ふふっ……もちろんいいわよ。」
 口元を隠して上品に笑うお母さんを見て、『あ、そこは似てないんだな。』と密かに思った。

「ありがとう。」
「何がですか?」
 急にお礼を言われて戸惑う。ポカンとしているとお母さんは吹雪の病室の方を見ながら、
「あの子が声が出ないって最初に言った時、私母親なのに吹雪の心配じゃなくて歌が歌えない事を心配した。バンドのメンバーに迷惑がかかるからどうしようとか、社長さんには何て説明しようとか……でも貴方は純粋にあの子自身を心配して、こうしてお見舞いにも来てくれて。素直じゃない吹雪の代わりも込めてですけど、お礼を言わせてもらうわ。ありがとう。」
 と言った。
 頭を下げられ慌てる。俺だって声が出ないって聞いた時半分くらい……いや七割くらいは歌えないっていう事にまず意識がいった。
 今日なんか吹雪が歌えないから活動休止するっていう事を伝えにきたのだ。純粋に吹雪の事を心配してるとは言えない自分がいる。もし今回の状況が足の怪我だけだったら、俺達は活動休止っていう決断をしただろうか。
 もしかしたら吹雪にとったら俺達がとったこの行動そのものがショックな事だったのかも知れない。
『歌えない=価値がない』そんな風に思っているのかも知れない。だから落ち込んでいたのかも……でも……

「僕、吹雪さんが元気になるまで毎日でも来ます!笑ってる彼女が大好きですから。」
 そう。どんな吹雪でもいいけど一番は笑顔の吹雪が好きだから。
 歌ってる吹雪はたくさんある彼女の中のたった一面でしかないのだ。その一面が今はちょっと修理中なだけで、いつかきっと……いや、必ず治るんだから。
「ありがとう……」
 頭を上げたお母さんは涙をいっぱい溜めた目で俺を見つめて、そして微笑んだ。
 それが驚く程吹雪に似ていた……