その尊が、アイドルの夢を叶えた。
 
 ううん、正しくは、スタートラインに立った。
 とても喜ばしいことだ。
 いいじゃないか、いちご。
 
 ……うれしいはずなのに。


「どうしたぁ、野宮、顔が死んでるぞー」


 英語教諭の茂木はうるさい。
 私は精一杯の反抗を示すべく背筋を伸ばした。
 学校ではドがつく真面目で通している私は、陽気な教師にいじられるのをよしとしない。

 それが茂木につまらないと言われるけれど、つまらなくて結構。

 私は静かにシャープペンの芯を少しだけ繰り出した。かちかち、と。

 過去完了形と未来完了形の入り交じった例文に目を通しながら、私は音もなくため息をつく。
 つまらないのは、こっちの方だ。


 とんとん、と肩をたたかれたかと思うと、小さなメモ紙が回されてきて、「田中と別れたってマジ?」という丸い字が私を殴りつけてくる。
 
 私はそれにイェスって書いて、元のように戻してやる。
 
 別れた理由は噂話となって誰もが知っているから、言わない。
 
 彼女たちは私に言質を取りに来たにすぎないのだ。



 野宮いちごと田中尊は、別れた――学校では、そういうことになっている。



 私は隣のクラスで空席になっているだろう田中尊の席のことを思い浮かべた。
 窓際の、大きな窓の、青空の時は青がとても綺麗に映えるあの席のこと。



 私は尊の夢を応援し続けてきた。
 ずっと昔から尊はアイドルになりたくて、三年前からオーディションを受けては毎回落ちて――それでも諦めずにアプローチを続けてきた。

「俺自身が、アイドルに救われちゃったんだよな」と尊は言う。

「あんなに必死になって、体全体で、人の幸せを祈れる職業ないぜ」


 尊いわく、アイドルはそういうものなのだという。私にはよくわからない。
 でも、尊にとってアイドルが天職であることはわかっていた。
 
 顔も声も、そうあるべく生まれたかのような尊は――きっとスポットライトの下でも映えるだろう。

 

 過去完了形と未来完了形の解説をしている茂木から視線をそらして、私は空を見る。
 雲が穏やかに流れていく秋の空は、私の憂うつをそのまま溶かしたような寝ぼけた青をしていた。
 尊が居るだけで、あんなに輝いている空が――。



『いちご、しばらく一緒に帰れない。休む日も出てくるかもしれない。明日から研修が始まるんだ』

 スマホのメッセージに残された言葉のことを思い出して私はまたため息をついた。
 シャープペンの芯をかちかちと鳴らし、意味もなく引っ込め、また鳴らし……そうして無心に親指を動かし続けていても、私の心の中に居座っている重だるい憂うつは晴れない。

 それどころか、増すばかりだ。

 尊にもきっと、ファンができる。今まで隠れファンクラブを持っていた尊だ。
 こんどはアイドルとして正式にファンを抱えることになる。
 そして尊はそのファンに、笑顔や、仕草や、パフォーマンスで、感動や愛を伝えるのだ。
 
 ファンサで叫ぶんだ。

「愛してるよ」とか。



 ……もやもやする。

アイドルとしての尊と、私の恋人としての尊を混同してはいけない。そう思うのに。……そう思いたいのに。

かちかち。かちかち。かちかち。



「野宮、本当にどうした?」

 茂木が授業を止めた。私は立ち上がり、こみあげてくる何かをこらえながら、体調不良なので保健室に行きます、とだけ告げた。





 応援してたはずだった。その気持ちには嘘も偽りもなかった。
 
 付き合う前から、いろいろとアドバイスしたり、応募用の写真を撮ったり、志望動機を一緒に考えたり、不安なときは電話で話聞いて、それからことあるごとに神社で尊がアイドルになれますようにってお願いして、そうして、ずっと。

 ずっと願ってきたことだった、はずなのに。


保健室に行くなんて嘘。私は誰もいない校舎裏の、寂れた自転車置き場の日陰に座って、一人で膝を抱えた。

 今ここで、尊に電話を掛けようか、とすら思った。
 私はいまひとりぼっちで、孤独で、やさしい尊の手を求めていた。
 あの手に今すぐ触りたかった。
 あの硬い手のひらに触れて安心したかった。



「たける」

 月のものの前かな? すごくだめな感じ。

「……たける」

不安で。

 私はスマホを取り出して、尊へメッセージを打とうとした。

あいたい。
 はなしたい。
 かおみたい。
 全部、打ち込んでは消す。最後に残ったメッセージは当たり障りないものだった。

『調子どう?』

 既読はすぐにつかない。私はスマホをだらりと垂らして途方に暮れた。

「私って本当は汚い人間だったのかな……」

 偽善者、って言葉が頭の中をぐるぐる回る。
 尊のことをずっと応援してたのに、実際に夢が叶った今となっては、ただただ、悔しくて悲しくて、つらい。

「応援してる、ふりだったのかな……」

 うれしいよりも、つらい。
 自分がわからない。

「たける」

 涙声でつぶやいたそのとき、スマホが震えた。慌てて確認するメッセージには「尊」の名前。

『放課後会える?』

 私は、目の前に尊がいるわけでもないのにうんうんうなずいてしまった。秒で返事を打つ。

『会いたい!』