「右も左も知らない、目を離したらどこかに行っちゃいそうで守ってあげたくなる。…海真が惹かれる子って感じもするわ」


「…そーでしょ」


「……海色(みいろ)がいたら、もっと賑やかだったんだろうね」



ああ、そういうことだったのか。

ビールやカクテルじゃなく日本酒だなんて珍しいと思った。


おれは鍵盤に指を落とす。


ベートーヴェン「月光」第三楽章、この曲がいちばんおれの心の葛藤を現してくれる。



『お姉ちゃんなら平気だよ。海真は喧嘩ばっかしちゃダメだからね?』


『…つぎのピアノの演奏会、いつ?』


『んーっと、来月だったかな』


『行くよおれ。姉ちゃんのピアノだけは好きだから』


『ふふ、ありがと。あっ、でも血がついた学ランで来るのだけはやめてよ?』



海真のほうが私より上手なんだけどね───と、必ず言っていた彼女はおれの3つ離れた姉だ。


姉弟ではあるが、いっしょに暮らすことはできなかった。

幼い頃に両親が事故で帰らぬ人となってから、親戚のもとへ別々に引き取られたおれたち。


だとしても中学の頃あたりからたまに顔を合わす程度はできて、おれたち姉弟をずっと繋いでくれていたものこそ、ピアノだった。