「ハルちゃん〜!」

どこからか、大きな声で自分を呼ぶ声がする。
そんな可愛い呼び方で、自分を呼ぶ人はこの家には一人しか居ない。

「ハルちゃん〜!起きてる〜?」

2階のバルコニーでのんびりと本を読んでいた千陽は、母親─千冬(チフユ)に庭園から呼ばれ、立ち上がる。見下ろす形でバルコニーから下の母を見ると、母は元気に手を振っていて。

「何〜?母さん」

広い庭の、真ん中。
薔薇園にいる母親に届くように声を張り上げると、それに負けじと、母は声を張り上げた。

「あのねー!カゲくんのお嫁さんについて知りたいの!教えて〜!」

カゲくんというのは、橘家長男の千景のことだ。
千陽の双子の兄、冷血漢とも言われる男。

(本当はただ、不器用なだけなんだけど)

今頃、片割れは朱音と婚姻届を書いているとこだ。契約だ何だで話通したけど、朝からの浮かれぷりと言ったら……上手くやれているといいが。

「…取り敢えず、そっちに行くから、もう叫ぶのやめなー!」

母親の喉の為、あまり強くない身体の為にそう言うと、母は両手で大きな丸を作った。
素直な母で何よりだ。
ほんと、喜怒哀楽が分かりやすい、素直な人。

千景もいっそのこと、ここまで分かりやすくなれば良いのに。
もっとわかりやすければ、人に誤解されることも減るだろうに。

─と思ったが、そもそも、千景は幼い頃からの絶えることのない猛烈なアタックで女性が苦手だ。その上、橘の長男ということで色々あって、人間不信にもなっている。

だから、今のまま、冷血漢で良いのかも。
結婚相手の朱音はほぼ間違いなく、千景には惑わされないし、利用しようとは思わないだろう。
だからこそ、契約婚に最適な相手なわけだが。

(問題は、母さんに契約婚であることをバレないことだな……)

母はいつもほわほわしていて、穏やかな人。
だが、1度怒ると、手がつけられなくなるほど怖く、大変なことになる。
だからこそ、契約婚はバレる訳にはいかない。

朱音が了承していたとしても、母さんが許すことは無いだろう。母さんは父さんと心から愛し合って、紆余曲折を経て、結婚している。

幼い頃から、千陽も千景も

『本当に愛する人と結婚するのよ』

と、言われて育ってきた。

それは、母なりの愛情だった。
三大名家に生まれた以上、僕達はどうしても他の名家や分家、国の上級階級の女性との婚姻を勧められるから、それを家のため、と、千陽達が選択しないよう、母は予め、僕達に約束させた。

なのに、契約婚。
絶対に間違いなく、怒られる案件である。

(まぁ、千景は……)

「─あれ?」

考え事しながら部屋に戻ると、部屋の物が少し動いていた。閉めていたはずの扉が開いていて、いつも閉じているはずのガラス戸も開いている。

こんなことをする子は、この家にひとり。

「─やっぱり。みーつけたっ!」

ガラス戸のすぐ側にしゃがみこんで、口を両手で押さえている幼い子。

ずっと仲の良い両親が意を決して授かった、3人目。千景と千陽の弟であり、今年で5歳になる弟は千陽に抱き上げられた瞬間、目を輝かせる。

「えへへ!ハル兄に見つかっちゃった〜!」

「悪戯っ子は誰だ〜?」

母親似の容貌に、母親似の性格。
遅くに授かった子どもということもあって、父親に溺愛されている末っ子の千彩(チサ)は愛らしくて、女の子みたいな見た目をしている。
まるで、母さんの生き写しのような子。

(俺は見た目は父さんで、雰囲気は母さんって言われるからな……)

父さんには、
『お前とはまた違う愛らしさがある』
と、力強く言われたことがある。

成人した、自分によく似た息子相手に愛らしさとは…と思ったけど、敢えて深くは突っ込まなかった。

「ねぇねぇ、ハル兄、カゲ兄はー?」

「カゲ兄はね、千彩のお義姉ちゃんになってくれる人に会いに行ってるよ」

「お姉ちゃん!?」

「うん。楽しみだねぇ」

「うん!……えへへ」

見た目の可愛らしさ通り、というのは、ちょっとおかしいかもしれないが、千彩は幼い頃から可愛いものが大好きで、車や怪獣よりはぬいぐるみ、青や黒よりはピンクや白が好きな子だった。

─いや、まだ全然幼いんだけどね。5歳だし。
これから、好みも変わっていくかもしれない。
全然変わる可能性がある年齢だし、好きなものが変化していくのも楽しいだろう。
人生は長いし、いっぱい好きなものができても、いっぱい大切なものができてもいい。

好きなものを胸張って好きだと言えるのは良いことで、それは否定されるべきことでは無いから。

だから、この子の好きを存分に伸ばしてあげよう、例え周囲に何を言われても、この子の好きを決して否定したり、邪魔したりしないようにしようと、この子が2歳くらいの時に、家族全員で決めた。

これは、三大名家と呼ばれるほどに大きなこの家に、父さんと恋に落ちたってだけで嫁いできてしまった母さんが幼い頃、千陽や千景の教育でやることなすこと否定され、苦しんだ時に父さんと話し合って決めたことらしい。

母さんの苦しみにいち早く気付いて、ずっとそばにいて、抱きしめて、いっぱい話して。
それから、どんなに小さなことでも母さんの話を聞いて、相槌を打った父さん。

『大切なものを大切と言えるだけで良いんだよ』

幼い頃から、父さんは僕達にそう言った。
母と父は、僕達の自由を大切にしてくれた。

家の為とか、家の未来がとか、今生きる俺達には関係無いのだと、そう言って、父さんは笑った。

祖母に似て優しい容貌なのに、性格は祖父似で、家族以外には冷酷な父さん。

千彩や母さんに激甘な姿を見ていると信じられないが、祖父の頃より更に事業を成功させるほどの実力者であり、ずっと幼い頃から、仕事も全力だが、家庭も大事にする父さんが俺と千景の憧れだった。