目一杯泣いて顔を赤く腫らしたままの繭は、怜がドリンクバーから持ってきてくれた冷たい烏龍茶をゆっくりと喉に流し込み気持ちと身体を落ち着かせようとしていた。身体の中に冷たい液体が流し込まれてゆく感覚がなんとなく心地よかった。
いざ我にかえり、会ったばかりの人間に対して泣き喚いてしまったことと、腫れぼったい顔を見せてしまったことへの羞恥で繭は顔を手で隠した。
「あ、あ、あの、す、すみません…みっともないとこ見せちゃって…」
「ううん。そんな気にしないで。どう?落ち着いた?」
「はい。お陰様でなんとか…」
「よかった。でも無理しないでね。今日話せそうになかったら次の機会でも大丈夫だから。繭さんのタイミングに合わせるよ?」
「いえ…もう大丈夫です。多分、今日話さないと難しいと思います…あの人が…」
「釘藤瑠璃奈?」
怜の口から出た瑠璃奈の名前に繭はゆっくりと頷いた。きっと今日というチャンスを逃したらきっと彼女からの妨害で真実を知る機会を逃してしまう。繭の中でその懸念が強かった。
何よりも、緊張し怯えて口つぐむ自分に自らが受けた悲しい過去を話してくれた怜への感謝と澪の優しさに応えたいという気持ちが繭を勇気付かせた。
まだ油断すると涙が溢れてくるがさっきよりはマシになっていた。
もう一口烏龍茶を飲みゆっくりと深呼吸をする。
「安心しな。もしあの女がこっちに戻ってきても追い返す。アイツは嘘しか話さない」
「ありがとうございます。本当にごめんなさい。私…臆病で何も言い返せなくて…」
「謝らないで。あんなマシンガンみたいな言い方じゃなかなか言い返せないよ。私も殆ど反論できなかったし…」
「まぁ、自分のメンツの為の虚言だからな。全く反省もしてないようだし」
「怜さんの言う通りで瑠璃奈さんは何も反省もしていません。それどころか自分を正当化してます。朱音ちゃんが亡くなった後、駅や校門前でご両親と署名とビラを配ってた程ですから…」
繭の口から出たビラという言葉に怜は心底呆れてしまった。瑠璃奈の親も非を認めず娘の保身に走っているという事実だ。
繭のスマホに保存してある配られたビラの写真を見せてもらう。ビラには"いじめという事実はない"、"羽美朱音ちゃんの自殺の原因はいじめではない"、"原因は自己中な母親"、"週刊誌やSNS等の情報はデタラメ!!"等、気が滅入るようなことばかり書いてあった。怜と澪はもう怒りを通り越してため息しか出なかった。
「こ、香ばしいわね〜…」
「うげ…まさに蛙の子は蛙…救いようがない…」
「配っている時も演技がかっててとても怖かったです。何も知らない人が見ちゃうと信じてしまいそうなぐらいに。その時の映像がコレです」
スマホに映っているのは、駅前で瑠璃奈と両親とその支援者が必死になって通行人にバラを配る姿。瑠璃奈は自分の無罪を叫び、母親は涙声になりながらビラを配り、何も知らずに署名する人に嬉しそうに頭を下げる父親。人が死んでいるというのに彼等に反省の色なんて微塵もなかった。
気分が悪くなってきた怜はもう充分だからと繭に動画を停止してもらった。
瑠璃奈と彼女の周辺の人間のあまりの身勝手さに怜と澪は頭を抱えるしかなかった。
「狂人しかいねぇ」
「両親もそうですが瑠璃奈さんの友人もヤバい人達ばかりで…私と朱音ちゃんはずっと彼女達の近くで生きるしかなかった。朱音ちゃんが目をつけられたのもそれのせい…いえ…全部私のせいなんです」
「繭さんの?どうして?」
「私のせいで朱音ちゃんはいじめられるようになったから…私を庇ったせいで…」
溢れてくる涙をぐいっと乱暴に拭う。
繭の脳裏に浮かぶのは在りし日の朱音。気弱な自分に躊躇なく話しかけ笑いかけてくれた明るかった頃の朱音の姿。
傍にいる澪と背格好がとてもよく似ているせいか時折朱音と重ねて見てしまう。朱音もいじめられて泣いていた繭に寄り添い慰めてくれた。その時のことを思い出してまた涙腺が緩む。
「まさか繭さんも」
「怜さんの言う通り私も瑠璃奈さん達からいじめを受けていました。苦しんでいた私を朱音ちゃんが助けてくれたんです。そのせいで瑠璃奈さん達に目をつけられた。私が朱音ちゃんを殺した様なもの。そして…救うことができなかった…」
朱音と繭が辿ってきた悲劇は今に始まった事ではない。助かる余地はあったのに周りの生徒も大人達も彼女達を救おうとせず瑠璃奈という悪女の言葉を信じ毒された。
朱音が自ら死を選んだ理由と怜が聞いた不思議な声の正体が繭の口から語られる。涙に染まっているその目は勇気と決意に切り替わろうとしていた。
全てが明るみになった今、繭の恐怖で満ち怯えていた心は異地から閃光のようにやって来た二つ星から差し伸べられた光によって罪滅ぼしと救済の旅に出た瞬間だった。
まだ中学に上がる前。小学6年の頃にまで遡る。
落書きされた机でたった1人で読書をする繭に横髪の三つ編みに水色のリボンを編み込んだ可憐な少女羽美朱音は躊躇なく話しかけた。
「繭ちゃん。どうしたの?」
「あ…朱音ちゃん…」
「また落書きされてる。この前やっと綺麗にしたばかりなのに」
「いいよ。いつものことだから」
「良くないって!!机だけじゃない!教科書にも落書きされてるでしょ?!」
繭の教科書は黒いマーカーで塗りつぶされていてとても読めない状態だったが誰にも迷惑と心配をかけたくないとひた隠してきた。けれど、親友の朱音に見つかってしまい少し騒動になった。
それでも瑠璃奈達のいじめは止まる気配を見せなかった。
遠くの方で朱音達を見つめる瑠璃奈と取り巻きはクスクスと2人を嘲笑っていた。周りの生徒も自分可愛さに黙っているしかなかった。それは教師達も同じ。
仕事で忙しい両親に心配をかけたくない。もう繭の味方は朱音しかいなかった。
「朱音ちゃん。もう私とつるむのやめなよ。朱音ちゃんもいじめられちゃうよ?」
「絶対ヤダ!何があっても私は繭ちゃんの友達だもん。大丈夫だって!神様はちゃんと見てくれているもの」
朱音の"神様はちゃんと見てくれている"というのは彼女の口癖だった。両親や親族がどこかの宗教に入信しているとかそういうわけではなく、彼女自身が神様という存在を信じているという思想からくるものだった。
どんなに今が辛くても必ず報われると朱音は信じて疑っていなかった。だから、彼女はいつもニコニコと笑顔が絶えなかった。近くにある悪意も物ともしなかった。
「朱音ちゃん怖くないの?」
「怖いって何が?」
「釘藤さんのこと。怖くないわけ?」
「怖くないって言ったら嘘になるかな。でも、平気。私強いから」
そう言って不安がる繭にニコッと笑いかける朱音は彼女にほんの少しの勇気と安心を与えていた。それに応えられない自分にヤキモキする気持ちも同時に湧き上がる。
もし、逆の立場だったら自分は朱音を守れるのか。彼女の様に笑いかけられるのか。
(駄目だ。何もできない私じゃ弱いままの私じゃ朱音ちゃんを守れない…。朱音ちゃんみたいに強くなりたい…どうしたらなれるんだろう?)
瑠璃奈達にいじめられて泣いて耐えることしかできない今の自分に立ち向かう術はまだ見つかっていない。術が見つからない限り朱音を守れない。自分を変えられない。
「悩まないで。私は平気だから。繭は何も心配しなくていいの」
自信に満ちた朱音の言葉。正義感の強い彼女はどんな悪にも折れることを知らない心と勇気で立ち向かう。
だが、釘藤瑠璃奈がそんな純粋な光を許す筈がなかった。彼女のどす黒い魔の手が朱音を包み込むのにそう時間は掛からなかった。
きっかけは、ある日の教室で瑠璃奈が繭を突き飛ばした時だった。
何か気に入らないことがあったのか近くにいた繭を突然机がある方へと強く突き飛ばしたのだ。その拍子で額を切ってしまい赤い鮮血が床に点々と落ちた。
瑠璃奈以外はその姿に引いてしまい押し黙っていたが、彼女は楽しそうに笑いながら繭にスマホを向けていた。
「アハハ!ダッサ!ちょっと押しただけで大怪我するとかキモッ!!」
痛がる繭を介抱するどころか嘲笑いスマホで撮影を続ける。さすがの取り巻き達も"少しやり過ぎでは?"という雰囲気を醸し出していたが瑠璃奈に合わせるしかないのか無理矢理笑っていた。
どよめく中で朱音は急いで負傷した繭の元へ駆け寄った。朱音は持っていた白い花の刺繍が入ったハンカチを繭の切れた額に当たる。ハンカチはじんわりと白色を赤色に侵食してゆく。
「繭、大丈夫?!」
「すごく痛い…痛いよぉ…!!」
「早く保健室行こう!!先生に診てもらって…」
「はぁ?アタシの許可無しで保健室連れてくとかやめてくれる?こんな奴の怪我なんて先生に診せる必要なし!!だって…」
瑠璃奈はニヤニヤしながら朱音と繭に近づいてくる。その手には針と糸と鋏が入ったソーイングボックスが。瑠璃奈がやろうとしていることをすぐに悟る。
ぱっくりと裂けた繭の額を無理矢理押さえつけて傷を縫う。そして、その様子を取り巻きにスマホで撮影させるというあまりにも危険極まりない行為。
今の瑠璃奈に躊躇いという言葉は一欠片もない。自分が思い付いたモノは全て実行する。それが相手の死に繋がっても彼女は気に留めないだろう。
「根暗陰キャ女に保健室なんて贅沢!だ・か・ら!アタシが治してあげる♪羽美さん?そこどいてくれる?血ぃ出てるから早く止めてあげないといけないからさぁ?」
「ちょっと!アンタ!!自分で何言ってるのか分かってるの?!!!」
「はぁ?このアタシがバカ繭の怪我を治してあげるって言ったんだけど?保健室の先生に迷惑かけるよりマシだし偉いでしょ?ほらほら!どいたどいた!!」
繭に寄り添っていた朱音を突き飛ばした。朱音はバランスを崩しその場に倒れてしまう。
床に体を打ち付け痛がる朱音を気に止めることなく、痛そうに額の傷に手を当てる繭を押し倒し馬乗りになった。
流石にまずいと思った他の生徒が急いで先生を呼びに職員室に向かった。瑠璃奈は職員室に向かった生徒に「呼んでも無駄!!」と叫んだ。取り巻き達に捕まえる様に支持する。だが、取り巻き達は躊躇してしまう。
「え、でも、流石にヤバいよ…先生達呼んだ方がいいと…」
「うるさい!!アンタらはアタシの言う通りにしてくれればいいの!!!早くアイツら追って!!」
「わ、わかったよ…」
スマホで撮影する担当の1人を残し、職員室へ向かった生徒を追いかける。
少し人数が減った教室は未だ騒然としている。
抵抗し暴れる繭の額をおもいっきり平手打ちをする。額と頰の叩かれた痛みと恐怖で動きが止まる。恐怖で動きも言葉も封じられた繭は今から瑠璃奈が行おうとしている地獄の様な縫合ショーをただ受け入れるしかない。
瑠璃奈は、怯える繭に糸の通った針を見せつけ恐怖を更に煽る。その笑顔はとても歪だった。
「だーいじょぉぶぅ♪アタシ、こう見えてお裁縫得意なの♪《《痛くない》》ように縫ってあげるから安心してねぇ?」
「ひっ…!!」
「ちょっと律?ちゃんと撮ってる?」
「撮ってる撮ってる。バッチリだよ。早く縫ってあげな。痛そうだし」
「それもそうね。ほら!暴れるな!!指刺しちゃうでしょ?!」
再び暴れる始めた繭をもう一度殴りつける。次は平手打ちではなく拳で鼻を殴りつけた。繭の鼻からも血が溢れ出した。
「手ぇ汚れちゃったでしょ!!クズ女!!」とまた顔面を殴る。額の血と鼻血で繭の顔面は真っ赤に染まった。
今度こそ繭の動きが止まる。彼女の抵抗は暴力と諦めに打ち勝つことができなかった。
瑠璃奈が持つ針が繭の額の切り傷を突き刺そうとする。
「安心してねぇ?ちゃんと縫い合わせてあげるからぁ」
ニタリと笑う瑠璃奈の顔が繭に絶望を与えようとした時だった。突然、軽くなったと同時に繭の視界から馬乗りになっていた瑠璃奈が消えたのだ。次の瞬間、聞き覚えのある声で怒号が響いた。
「いい加減にしろ!!釘藤瑠璃奈!!お前がやってることは犯罪だ!!」
「朱音ちゃん…」
「もう我慢の限界だわ!!絶対に許さない!!」
繭がゆっくりと起き上がると朱音に突き飛ばされた瑠璃奈が倒れ込んでいた。怒りで歪んだ表情で朱音を睨みつける。
「テメー…よくもアタシの邪魔しやがって…!!」
「何が"アタシが縫い合わせてあげる"よ!!"痛くない様にしてあげる"?ふざけるな!!嘘つき!!本当は繭ちゃんの痛がる姿をスマホで撮ろうとしてたくせに!!」
「もういい…もういいから…十分だよ朱音ちゃん…」
(うへ〜度胸あんな〜この女)
瑠璃奈に歯向かう朱音に律という少女は唖然とするも楽しそうに撮影を続ける。
真剣な眼差しで瑠璃奈を睨みつける朱音に迷いはなかった。怯む素振りを見せない朱音に瑠璃奈は完全にキレた。倒れ込んでいた瑠璃奈はむくっと立ち上がりズンズンと朱音に近づき怒りに任せて彼女に飛びかかった。
お互いの髪や服を引っ張り合い、頬を叩いたり、机にぶつかったりと2人の取っ組み合いで更に辺りは騒然としてなる。
朱音のリボンが組み込まれた三つ編みがボロボロになっても争いは終わらなかった。
繭はそんな2人の様子を見ながらもうやめてと小さい声で呟くしかできなかった。周りの生徒も2人を煽るだけで止めようとしなかった。
それからしばらく経たないうちに職員室に向かった生徒が教員を連れてきたことで瑠璃奈と朱音の喧嘩は一先ずは収まった。
一部始終を見ていた生徒が担任に伝えた事によって全てが明らかになった。そして、繭へのいじめ行為もピタリと止まった。
事情を知った繭の両親が学校と瑠璃奈の両親に猛抗議したのと、怪我と心身の関係でしばらく休みをとった繭が次に学校に来た時。彼女が知っていた状況とは打って変わっていた。
「あか…ね…ちゃん…?」
「おはよう。繭。やっと学校来てくれた」
「嘘…なんで…なんでなの…?!」
朱音の机に黒マジックで罵詈雑言が落書きされてる。休む前は何も落書きされていない綺麗な机だったのに、自分がされていた筈の行為が守ってくれた朱音がされている。
瑠璃奈達はいじめ行為をやめていなかった。寧ろ、ターゲットを繭から朱音へと変わっていた。
クラスで唯一瑠璃奈に立ち向かい、自分を助けてくれた朱音。最後に見た彼女の瞳は光で満ちていたのに、今の朱音の瞳は光が霞みどこか疲れている様子だった。
顔と腕に痣ができている。髪も引っ張られて少しボサボサになっていた。
落書きは机だけじゃなくスクールバックにも書かれていた。
「そんな…そんな…私のせいで朱音ちゃんが…!!」
「いいの、私が勝手にやった事だから。繭は何も悪くないよ。大丈夫。私は平気だから」
「良くないよ!!早く先生に言おう!!だって…」
「大丈夫だから余計な事しないで!!!」
「朱音ちゃん…?!」
「お願い…もう何もしないで…!!大丈夫だから…何もしないで…!!」
机に伏せて咽び泣く朱音に繭はこれ以上何も言えなかった。それと同時に彼女が受けているいじめが繭が受けていたモノより壮絶で過酷なモノだと思い知らされた。
瑠璃奈のあの反抗の恨みは想像以上のモノだったのだ。
瑠璃奈があの日と同じ様に2人を見て嘲笑っていた。まるで、あの取っ組み合いの勝者は自分で敗者の朱音はただのサンドバッグと化したから何したって構わないと体現している様に見えた。
「繭ぅ?そいつと絡むのやめた方がいいよぉ?馬鹿が移るよぉ?」
(釘藤瑠璃奈…?!)
「アタシに歯向かったコイツにはイイ結末でしょ?アハハ⭐︎」
(この人、何も変わってない。何も反省もしてない。ただ新しい玩具を手に入れただけ…!!朱音ちゃんとお母さんとお父さんが戦ってくれたのに何も…!!!何も…!!!)
「繭。本当に大丈夫だから。もう私に構わないで」
結局何も状況は変わっていなかった。瑠璃奈に立ち向かった朱音を見てもクラスの人間は誰も変わっていなかった。それどころか、瑠璃奈に加担する人間の方が増えたと言った方が正しかった。
繭が今まで受けてきたいじめの内容を朱音にも行ってきたが今回は新たな行為を加えてきた。
《羽美朱音のいやらしい写真公開〜☆保存必須だょ( ^ω^ )》
瑠璃奈からクラスのグループメッセージに送られてきた一文。その後すぐにに送られてきたのが無理矢理撮られたであろう朱音の裸の写真と彼女の身体のある一部を自ら広げた卑猥な写真。撮られている時の朱音の方は今にも泣き出しそうな顔だった。
メッセージには、"保存した"、"友達に見せてもいい?"、"おかずありがとう"等、繭と一部の生徒以外誰も朱音の心配なんてしていなかった。日に日に加担する人間が増えるだけ。
結局、画像は消される事なく色んな人間の元へ散布されてしまった。もう全てを回収するのは困難なモノへとなってしまった。
繭が想像していた以上に朱音が置かれている状況があまりにも悲惨で、小学校を卒業して中学に上がった後もその状況は変わることはなかった。寧ろ悪化した。
朱音と繭のクラスの担任になった若い女教師畠山は何故か瑠璃奈に心酔し彼女を敬っていた。なんの中身のない彼女のどこに魅了されたのか分からない気持ちの悪い女だった。
瑠璃奈が悪い事をしても必ず無実の生徒のせいにした。特に朱音への待遇は酷いものだった。
「瑠璃奈さんにいじめられてたって嘘つくなんて本当最低だな!!土下座して謝りなさい!」
繭と友人達が小学校の頃からいじめを受けていると畠山に通告したのだが何故かいじめられている側の人間に謝罪させるという愚行に走ったのだ。
畠山に無理矢理土下座させられている朱音の姿を瑠璃奈と律、そして大勢の取り巻きはくすくすと笑いながらスマホで写真を撮ったり動画に収めていた。また彼女達に弱みという玩具が増える。
頼りになる筈の大人に裏切られ朱音と繭はもう失望するしかなかった。
いじめを止めるどころか加担する人間がまた増えただけで解決がまた遠のく。暴力や写真漏洩以外にも高額の金銭の要求も加わり更に遠のいた。物を隠されたり投げつけられるのも。
遂に決定的な事件が起こってしまう。
それは、繭の友人で数少ない味方の1人からの電話からだった。
「朱音ちゃんがデパートの屋上から飛び降りた…?!」
『アイツらがあっちゃんに指示したっぽい…どうしよう…まだ目覚める様子ない…!!」
「朱音ちゃんのお母さんは?」
『来てるけど瑠璃奈の嘘をお医者さん達が信じちゃって病室に入れてくれない!こんなの酷過ぎるよ…!!』
「待って!!今から私も行く!どこの病院?!」
『マツシヅ大学病院だよ!』
繭は急いで病院へ向かうも友人の言う通りで朱音の母親は瑠璃奈達の嘘で入室を断られていた。
飛び降りた理由が母親からの受けた虐待から逃れる為。自分達は必死に朱音を止めていたが防げなかったっと涙ながらの虚偽。
実際は、大自分達の前で飛び降りろと命令されていた。ちゃんと飛び降りたら写真と動画を消すという薄っぺらい条件付きで。
しかも瑠璃奈達は他校から大勢の仲間を呼び観客をつけた。彼女の小学生の妹・美紗とその友人達もその中にいた。
7階建てのデパートの屋上から飛び降りたらどうなるか誰でも想像ができる。けれど、怯える朱音を瑠璃奈達が連れてきた大勢の愚か者が早く飛び降りろと煽ったのだ。
いざ飛び降りたが地上に停めてあった車がクッションになり一旦は死を免れたとても危険な状態。
大怪我をし、管と包帯まみれでベッドに横たわる娘を近くで見てやらない母親の悔しさと虚しさが繭と友人に痛いほど伝わった。
必死に娘に会わせて欲しいと訴る朱音の母親の姿と、朱音の状況を見て怖くなった瑠璃奈の仲間の1人がようやく真実を医者達に話した。真実を知った医者達は急いで母親を朱音のある病室へと通した。親子が再会できたのは、朱音が病院に運ばれてから6時間後のことだった。
傷ついてボロボロになった愛する娘を見て啜り泣く朱音の母親の声が繭の耳にこびりつく。そして、痛々しい姿で眠る朱音を見て繭の目からも悔しさで涙が溢れ出た。
ベッドの近くの机には血に染まった水色のリボンが悲しげに置かれていた。
(私のせいだ…!!私の…!!)
朱音の受けた痛みは飛び降りた時のものだけではない。繭の見えないところでも与えられていたのだ。それは言葉や殴られる等の暴力だけではない。最も陰湿なやり方で人生を狂わしかねない最悪の行為まで朱音は影で受けていたのだ。
繭がその事を知るのは朱音が不登校になってしばらく経ってからのこと。瑠璃奈がグループメッセージで晒した吐き気を催すほどの邪悪に満ちた動画だった。それが一因となり、彼女の身に起こった異変が自殺を決意しまうきっかけの一つとなる。
繭は動画を保存してあったが、飽く迄それは朱音が受けてきた壮絶ないじめの証拠物としてのこと。
いじめが明るみになってからグループメッセージに残っていた動画はすぐに消去されたが、繭と友人達がその前に全て保存したことで難を逃れた。
だが、大人達にその証拠を見せても動かなかった。寧ろ、自分の欲のために保存してあると言われても過言ではない。もう絶望と失望しかもう残っていなかった。
最後の希望の光は大人達ではなく、自分と同じぐらいの少年と少女。その光さえも瑠璃奈は遮ろうとしている。それでも繭は諦めたくなかった。
「怜さん達、さっきの動画で何か違和感を感じませんでしたか?」
「違和感?」
「ええ。瑠璃奈さん達の声と魔獣の叫び声以外の声」
「やっぱり空耳なんかじゃなかったんだ」
「あの廃工場で亡くなったのは朱音ちゃんだけじゃありません。もう1人いたんです」
「もう1人って…」
「なぁ…?!まさか…っ」
怜が聞いた純粋な泣き声。朱音が受けてきた過去から察しはついていたが信じたくなかった。あまりも酷すぎる現実は繭の口から語られる。人間から魔獣となった悲しい結末を。
「その子の声は--朱音ちゃんが産んだ子供。望まない妊娠で産まれた子の声です。飛び降りる以前から無理矢理そういう行為を何度も強要されて出来た子供」
「…そんな…だってこんなの…!!」
「産んだばかりの赤ちゃんを殺害して、そのすぐ後に朱音ちゃんは自殺を図りました。あんな寂しくて冷たい場所で全てを終わらせたんです。瑠璃奈さんから赤ちゃんを守る為には道連れにするしかない。そう言い遺して朱音ちゃんは…っ」
悲し過ぎる朱音とその子供の最期に澪は涙を流した。話していた繭も最後の方は涙声で震えていた。
怜の中の瑠璃奈への感情が怒りと殺意で入り混じる。
「朱音ちゃんが死んだ後も瑠璃奈さんは見ての通りずっと被害者面。あの週刊誌でいじめが明らかになった後もずっと」
瑠璃奈が朱音の身に起きていたことを知ったのは彼女が自殺した後。
悪びれることなく瑠璃奈は「何?あの女、子供孕んでたの?アハハ!!!本当ウケる!!傑作だわ!!」っと嘲笑った。「自殺するとか最期までダセーな」とも皆に言いふらしていた。
瑠璃奈のグループメッセージはまさに地獄絵図そのまんまだった。
「羽美のガキ。殺さないで欲しかったなぁ〜。遊んであげたかったのにぃ〜」
瑠璃奈の邪悪は朱音が死んだ後も衰えを見せなかった。寧ろその逆。自分を守ってくれる盾を更に増やす為ならなんでもした。
平然と朱音の葬式に現れた瑠璃奈は棺の中で眠る朱音の前で泣いて参列していた人間に可哀想な友人と印象付かせた。
葬式を終えた後、繭は瑠璃奈と2人きりになった時のこと。
「繭ぅ?アタシィ来年東京に行くの。アイドルのオーディションに受かってぇ卒業したらデビュー♪アイツとは大違いの幸せな人生♪」
「……」
「アイドルになって、カッコいいハイスペ彼氏みつけるでしょお?それでぇ結婚して、当然式は豪華にしてぇ、んで〜とっっっても可愛い赤ちゃんを産んで〜羽美のお母さんの前で見せびらかせてやるの!!早く"娘さんとお孫さんは残念でしたが、アタシが彼女の代わりに幸せになりますね"って言ってやりたいなぁ〜♪フフ☆」
もう同じ人間とは思えない思考に怒りを込み上げた繭は彼女に飛びかかろうとしたが反撃を喰らい朱音のように取っ組み合いにはならなかった。けれど、あの時のような怯えた目ではなく殺意を込めた目で瑠璃奈を睨みつけた。
そんな目で見られても瑠璃奈に恐怖心は湧いてこない。少し驚愕はしていたが、結局軽蔑の目が繭に返ってくるだけだった。
「は?アンタ親友1人助けられなかったくせにイキがるなよ。全部アタシに歯向かったアイツが悪かったんだから。誰が幸せになれるか"神様はちゃんと見てるのよ"。あ、これ羽美の口癖だったね。ごめんねぇ〜傷抉るようなこと言っちゃってぇ♪アハハ♪アハハハハ♪」
繭は話の最後に朱音が最期に遺したボイスメールを聴かせてくれた。遺書ともとれるそのボイスメールには本当はもう少し生きたかったけれど限界がきてしまったという朱音の悲痛な叫びが伝わった。
怜と澪は静かにそのボイスメールを聴き、今回のこの任務の重さを改めて思い知った。
必ず羽美朱音とその子供を救い光へ導くこと。
これ以上の苦しみを彼女らから断ち切ること。
そして、釘藤瑠璃奈の悪意を抹消すること。
「怜さん、澪さん。彼女を苦しみから解放して欲しい。その為なら何だってします!!お金とか私の臓器とか何だって差し出します!!だから…お願いです…朱音ちゃんと赤ちゃんを救ってください…!!お願いします…!!!」
怜と澪はもう瑠璃奈の依頼を受けるつもりはない。
2人が何をすべきかもう決まっている。繭の悲痛の依頼に捧げ物等必要なかった。
朱音と繭を覆っていた闇が祓われる瞬間だった。
「雨宮繭さん。十分報酬は貴女達からいただきました。貴女のご友人達を俺達が空へ還します。必ず」
-繭のスマホに残されているボイスメール-
《繭。久しぶり。こんなボイスメール送ってごめんね。これは遺書だと思って欲しいの。もう全部嫌になっちゃった。殴られるだけじゃないこともいろいろされて心と身体がもうボロボロなんだよ。その結果がお腹の中にいる。お母さんにもまだ言えてない。でも、私はこの子と一緒に死のうと思う。きっと瑠璃奈がこの子をおもちゃにするから。お母さん、繭、こんなに弱い私を許して。本当はもう少し生きたかったけどごめんね。さようなら》
いざ我にかえり、会ったばかりの人間に対して泣き喚いてしまったことと、腫れぼったい顔を見せてしまったことへの羞恥で繭は顔を手で隠した。
「あ、あ、あの、す、すみません…みっともないとこ見せちゃって…」
「ううん。そんな気にしないで。どう?落ち着いた?」
「はい。お陰様でなんとか…」
「よかった。でも無理しないでね。今日話せそうになかったら次の機会でも大丈夫だから。繭さんのタイミングに合わせるよ?」
「いえ…もう大丈夫です。多分、今日話さないと難しいと思います…あの人が…」
「釘藤瑠璃奈?」
怜の口から出た瑠璃奈の名前に繭はゆっくりと頷いた。きっと今日というチャンスを逃したらきっと彼女からの妨害で真実を知る機会を逃してしまう。繭の中でその懸念が強かった。
何よりも、緊張し怯えて口つぐむ自分に自らが受けた悲しい過去を話してくれた怜への感謝と澪の優しさに応えたいという気持ちが繭を勇気付かせた。
まだ油断すると涙が溢れてくるがさっきよりはマシになっていた。
もう一口烏龍茶を飲みゆっくりと深呼吸をする。
「安心しな。もしあの女がこっちに戻ってきても追い返す。アイツは嘘しか話さない」
「ありがとうございます。本当にごめんなさい。私…臆病で何も言い返せなくて…」
「謝らないで。あんなマシンガンみたいな言い方じゃなかなか言い返せないよ。私も殆ど反論できなかったし…」
「まぁ、自分のメンツの為の虚言だからな。全く反省もしてないようだし」
「怜さんの言う通りで瑠璃奈さんは何も反省もしていません。それどころか自分を正当化してます。朱音ちゃんが亡くなった後、駅や校門前でご両親と署名とビラを配ってた程ですから…」
繭の口から出たビラという言葉に怜は心底呆れてしまった。瑠璃奈の親も非を認めず娘の保身に走っているという事実だ。
繭のスマホに保存してある配られたビラの写真を見せてもらう。ビラには"いじめという事実はない"、"羽美朱音ちゃんの自殺の原因はいじめではない"、"原因は自己中な母親"、"週刊誌やSNS等の情報はデタラメ!!"等、気が滅入るようなことばかり書いてあった。怜と澪はもう怒りを通り越してため息しか出なかった。
「こ、香ばしいわね〜…」
「うげ…まさに蛙の子は蛙…救いようがない…」
「配っている時も演技がかっててとても怖かったです。何も知らない人が見ちゃうと信じてしまいそうなぐらいに。その時の映像がコレです」
スマホに映っているのは、駅前で瑠璃奈と両親とその支援者が必死になって通行人にバラを配る姿。瑠璃奈は自分の無罪を叫び、母親は涙声になりながらビラを配り、何も知らずに署名する人に嬉しそうに頭を下げる父親。人が死んでいるというのに彼等に反省の色なんて微塵もなかった。
気分が悪くなってきた怜はもう充分だからと繭に動画を停止してもらった。
瑠璃奈と彼女の周辺の人間のあまりの身勝手さに怜と澪は頭を抱えるしかなかった。
「狂人しかいねぇ」
「両親もそうですが瑠璃奈さんの友人もヤバい人達ばかりで…私と朱音ちゃんはずっと彼女達の近くで生きるしかなかった。朱音ちゃんが目をつけられたのもそれのせい…いえ…全部私のせいなんです」
「繭さんの?どうして?」
「私のせいで朱音ちゃんはいじめられるようになったから…私を庇ったせいで…」
溢れてくる涙をぐいっと乱暴に拭う。
繭の脳裏に浮かぶのは在りし日の朱音。気弱な自分に躊躇なく話しかけ笑いかけてくれた明るかった頃の朱音の姿。
傍にいる澪と背格好がとてもよく似ているせいか時折朱音と重ねて見てしまう。朱音もいじめられて泣いていた繭に寄り添い慰めてくれた。その時のことを思い出してまた涙腺が緩む。
「まさか繭さんも」
「怜さんの言う通り私も瑠璃奈さん達からいじめを受けていました。苦しんでいた私を朱音ちゃんが助けてくれたんです。そのせいで瑠璃奈さん達に目をつけられた。私が朱音ちゃんを殺した様なもの。そして…救うことができなかった…」
朱音と繭が辿ってきた悲劇は今に始まった事ではない。助かる余地はあったのに周りの生徒も大人達も彼女達を救おうとせず瑠璃奈という悪女の言葉を信じ毒された。
朱音が自ら死を選んだ理由と怜が聞いた不思議な声の正体が繭の口から語られる。涙に染まっているその目は勇気と決意に切り替わろうとしていた。
全てが明るみになった今、繭の恐怖で満ち怯えていた心は異地から閃光のようにやって来た二つ星から差し伸べられた光によって罪滅ぼしと救済の旅に出た瞬間だった。
まだ中学に上がる前。小学6年の頃にまで遡る。
落書きされた机でたった1人で読書をする繭に横髪の三つ編みに水色のリボンを編み込んだ可憐な少女羽美朱音は躊躇なく話しかけた。
「繭ちゃん。どうしたの?」
「あ…朱音ちゃん…」
「また落書きされてる。この前やっと綺麗にしたばかりなのに」
「いいよ。いつものことだから」
「良くないって!!机だけじゃない!教科書にも落書きされてるでしょ?!」
繭の教科書は黒いマーカーで塗りつぶされていてとても読めない状態だったが誰にも迷惑と心配をかけたくないとひた隠してきた。けれど、親友の朱音に見つかってしまい少し騒動になった。
それでも瑠璃奈達のいじめは止まる気配を見せなかった。
遠くの方で朱音達を見つめる瑠璃奈と取り巻きはクスクスと2人を嘲笑っていた。周りの生徒も自分可愛さに黙っているしかなかった。それは教師達も同じ。
仕事で忙しい両親に心配をかけたくない。もう繭の味方は朱音しかいなかった。
「朱音ちゃん。もう私とつるむのやめなよ。朱音ちゃんもいじめられちゃうよ?」
「絶対ヤダ!何があっても私は繭ちゃんの友達だもん。大丈夫だって!神様はちゃんと見てくれているもの」
朱音の"神様はちゃんと見てくれている"というのは彼女の口癖だった。両親や親族がどこかの宗教に入信しているとかそういうわけではなく、彼女自身が神様という存在を信じているという思想からくるものだった。
どんなに今が辛くても必ず報われると朱音は信じて疑っていなかった。だから、彼女はいつもニコニコと笑顔が絶えなかった。近くにある悪意も物ともしなかった。
「朱音ちゃん怖くないの?」
「怖いって何が?」
「釘藤さんのこと。怖くないわけ?」
「怖くないって言ったら嘘になるかな。でも、平気。私強いから」
そう言って不安がる繭にニコッと笑いかける朱音は彼女にほんの少しの勇気と安心を与えていた。それに応えられない自分にヤキモキする気持ちも同時に湧き上がる。
もし、逆の立場だったら自分は朱音を守れるのか。彼女の様に笑いかけられるのか。
(駄目だ。何もできない私じゃ弱いままの私じゃ朱音ちゃんを守れない…。朱音ちゃんみたいに強くなりたい…どうしたらなれるんだろう?)
瑠璃奈達にいじめられて泣いて耐えることしかできない今の自分に立ち向かう術はまだ見つかっていない。術が見つからない限り朱音を守れない。自分を変えられない。
「悩まないで。私は平気だから。繭は何も心配しなくていいの」
自信に満ちた朱音の言葉。正義感の強い彼女はどんな悪にも折れることを知らない心と勇気で立ち向かう。
だが、釘藤瑠璃奈がそんな純粋な光を許す筈がなかった。彼女のどす黒い魔の手が朱音を包み込むのにそう時間は掛からなかった。
きっかけは、ある日の教室で瑠璃奈が繭を突き飛ばした時だった。
何か気に入らないことがあったのか近くにいた繭を突然机がある方へと強く突き飛ばしたのだ。その拍子で額を切ってしまい赤い鮮血が床に点々と落ちた。
瑠璃奈以外はその姿に引いてしまい押し黙っていたが、彼女は楽しそうに笑いながら繭にスマホを向けていた。
「アハハ!ダッサ!ちょっと押しただけで大怪我するとかキモッ!!」
痛がる繭を介抱するどころか嘲笑いスマホで撮影を続ける。さすがの取り巻き達も"少しやり過ぎでは?"という雰囲気を醸し出していたが瑠璃奈に合わせるしかないのか無理矢理笑っていた。
どよめく中で朱音は急いで負傷した繭の元へ駆け寄った。朱音は持っていた白い花の刺繍が入ったハンカチを繭の切れた額に当たる。ハンカチはじんわりと白色を赤色に侵食してゆく。
「繭、大丈夫?!」
「すごく痛い…痛いよぉ…!!」
「早く保健室行こう!!先生に診てもらって…」
「はぁ?アタシの許可無しで保健室連れてくとかやめてくれる?こんな奴の怪我なんて先生に診せる必要なし!!だって…」
瑠璃奈はニヤニヤしながら朱音と繭に近づいてくる。その手には針と糸と鋏が入ったソーイングボックスが。瑠璃奈がやろうとしていることをすぐに悟る。
ぱっくりと裂けた繭の額を無理矢理押さえつけて傷を縫う。そして、その様子を取り巻きにスマホで撮影させるというあまりにも危険極まりない行為。
今の瑠璃奈に躊躇いという言葉は一欠片もない。自分が思い付いたモノは全て実行する。それが相手の死に繋がっても彼女は気に留めないだろう。
「根暗陰キャ女に保健室なんて贅沢!だ・か・ら!アタシが治してあげる♪羽美さん?そこどいてくれる?血ぃ出てるから早く止めてあげないといけないからさぁ?」
「ちょっと!アンタ!!自分で何言ってるのか分かってるの?!!!」
「はぁ?このアタシがバカ繭の怪我を治してあげるって言ったんだけど?保健室の先生に迷惑かけるよりマシだし偉いでしょ?ほらほら!どいたどいた!!」
繭に寄り添っていた朱音を突き飛ばした。朱音はバランスを崩しその場に倒れてしまう。
床に体を打ち付け痛がる朱音を気に止めることなく、痛そうに額の傷に手を当てる繭を押し倒し馬乗りになった。
流石にまずいと思った他の生徒が急いで先生を呼びに職員室に向かった。瑠璃奈は職員室に向かった生徒に「呼んでも無駄!!」と叫んだ。取り巻き達に捕まえる様に支持する。だが、取り巻き達は躊躇してしまう。
「え、でも、流石にヤバいよ…先生達呼んだ方がいいと…」
「うるさい!!アンタらはアタシの言う通りにしてくれればいいの!!!早くアイツら追って!!」
「わ、わかったよ…」
スマホで撮影する担当の1人を残し、職員室へ向かった生徒を追いかける。
少し人数が減った教室は未だ騒然としている。
抵抗し暴れる繭の額をおもいっきり平手打ちをする。額と頰の叩かれた痛みと恐怖で動きが止まる。恐怖で動きも言葉も封じられた繭は今から瑠璃奈が行おうとしている地獄の様な縫合ショーをただ受け入れるしかない。
瑠璃奈は、怯える繭に糸の通った針を見せつけ恐怖を更に煽る。その笑顔はとても歪だった。
「だーいじょぉぶぅ♪アタシ、こう見えてお裁縫得意なの♪《《痛くない》》ように縫ってあげるから安心してねぇ?」
「ひっ…!!」
「ちょっと律?ちゃんと撮ってる?」
「撮ってる撮ってる。バッチリだよ。早く縫ってあげな。痛そうだし」
「それもそうね。ほら!暴れるな!!指刺しちゃうでしょ?!」
再び暴れる始めた繭をもう一度殴りつける。次は平手打ちではなく拳で鼻を殴りつけた。繭の鼻からも血が溢れ出した。
「手ぇ汚れちゃったでしょ!!クズ女!!」とまた顔面を殴る。額の血と鼻血で繭の顔面は真っ赤に染まった。
今度こそ繭の動きが止まる。彼女の抵抗は暴力と諦めに打ち勝つことができなかった。
瑠璃奈が持つ針が繭の額の切り傷を突き刺そうとする。
「安心してねぇ?ちゃんと縫い合わせてあげるからぁ」
ニタリと笑う瑠璃奈の顔が繭に絶望を与えようとした時だった。突然、軽くなったと同時に繭の視界から馬乗りになっていた瑠璃奈が消えたのだ。次の瞬間、聞き覚えのある声で怒号が響いた。
「いい加減にしろ!!釘藤瑠璃奈!!お前がやってることは犯罪だ!!」
「朱音ちゃん…」
「もう我慢の限界だわ!!絶対に許さない!!」
繭がゆっくりと起き上がると朱音に突き飛ばされた瑠璃奈が倒れ込んでいた。怒りで歪んだ表情で朱音を睨みつける。
「テメー…よくもアタシの邪魔しやがって…!!」
「何が"アタシが縫い合わせてあげる"よ!!"痛くない様にしてあげる"?ふざけるな!!嘘つき!!本当は繭ちゃんの痛がる姿をスマホで撮ろうとしてたくせに!!」
「もういい…もういいから…十分だよ朱音ちゃん…」
(うへ〜度胸あんな〜この女)
瑠璃奈に歯向かう朱音に律という少女は唖然とするも楽しそうに撮影を続ける。
真剣な眼差しで瑠璃奈を睨みつける朱音に迷いはなかった。怯む素振りを見せない朱音に瑠璃奈は完全にキレた。倒れ込んでいた瑠璃奈はむくっと立ち上がりズンズンと朱音に近づき怒りに任せて彼女に飛びかかった。
お互いの髪や服を引っ張り合い、頬を叩いたり、机にぶつかったりと2人の取っ組み合いで更に辺りは騒然としてなる。
朱音のリボンが組み込まれた三つ編みがボロボロになっても争いは終わらなかった。
繭はそんな2人の様子を見ながらもうやめてと小さい声で呟くしかできなかった。周りの生徒も2人を煽るだけで止めようとしなかった。
それからしばらく経たないうちに職員室に向かった生徒が教員を連れてきたことで瑠璃奈と朱音の喧嘩は一先ずは収まった。
一部始終を見ていた生徒が担任に伝えた事によって全てが明らかになった。そして、繭へのいじめ行為もピタリと止まった。
事情を知った繭の両親が学校と瑠璃奈の両親に猛抗議したのと、怪我と心身の関係でしばらく休みをとった繭が次に学校に来た時。彼女が知っていた状況とは打って変わっていた。
「あか…ね…ちゃん…?」
「おはよう。繭。やっと学校来てくれた」
「嘘…なんで…なんでなの…?!」
朱音の机に黒マジックで罵詈雑言が落書きされてる。休む前は何も落書きされていない綺麗な机だったのに、自分がされていた筈の行為が守ってくれた朱音がされている。
瑠璃奈達はいじめ行為をやめていなかった。寧ろ、ターゲットを繭から朱音へと変わっていた。
クラスで唯一瑠璃奈に立ち向かい、自分を助けてくれた朱音。最後に見た彼女の瞳は光で満ちていたのに、今の朱音の瞳は光が霞みどこか疲れている様子だった。
顔と腕に痣ができている。髪も引っ張られて少しボサボサになっていた。
落書きは机だけじゃなくスクールバックにも書かれていた。
「そんな…そんな…私のせいで朱音ちゃんが…!!」
「いいの、私が勝手にやった事だから。繭は何も悪くないよ。大丈夫。私は平気だから」
「良くないよ!!早く先生に言おう!!だって…」
「大丈夫だから余計な事しないで!!!」
「朱音ちゃん…?!」
「お願い…もう何もしないで…!!大丈夫だから…何もしないで…!!」
机に伏せて咽び泣く朱音に繭はこれ以上何も言えなかった。それと同時に彼女が受けているいじめが繭が受けていたモノより壮絶で過酷なモノだと思い知らされた。
瑠璃奈のあの反抗の恨みは想像以上のモノだったのだ。
瑠璃奈があの日と同じ様に2人を見て嘲笑っていた。まるで、あの取っ組み合いの勝者は自分で敗者の朱音はただのサンドバッグと化したから何したって構わないと体現している様に見えた。
「繭ぅ?そいつと絡むのやめた方がいいよぉ?馬鹿が移るよぉ?」
(釘藤瑠璃奈…?!)
「アタシに歯向かったコイツにはイイ結末でしょ?アハハ⭐︎」
(この人、何も変わってない。何も反省もしてない。ただ新しい玩具を手に入れただけ…!!朱音ちゃんとお母さんとお父さんが戦ってくれたのに何も…!!!何も…!!!)
「繭。本当に大丈夫だから。もう私に構わないで」
結局何も状況は変わっていなかった。瑠璃奈に立ち向かった朱音を見てもクラスの人間は誰も変わっていなかった。それどころか、瑠璃奈に加担する人間の方が増えたと言った方が正しかった。
繭が今まで受けてきたいじめの内容を朱音にも行ってきたが今回は新たな行為を加えてきた。
《羽美朱音のいやらしい写真公開〜☆保存必須だょ( ^ω^ )》
瑠璃奈からクラスのグループメッセージに送られてきた一文。その後すぐにに送られてきたのが無理矢理撮られたであろう朱音の裸の写真と彼女の身体のある一部を自ら広げた卑猥な写真。撮られている時の朱音の方は今にも泣き出しそうな顔だった。
メッセージには、"保存した"、"友達に見せてもいい?"、"おかずありがとう"等、繭と一部の生徒以外誰も朱音の心配なんてしていなかった。日に日に加担する人間が増えるだけ。
結局、画像は消される事なく色んな人間の元へ散布されてしまった。もう全てを回収するのは困難なモノへとなってしまった。
繭が想像していた以上に朱音が置かれている状況があまりにも悲惨で、小学校を卒業して中学に上がった後もその状況は変わることはなかった。寧ろ悪化した。
朱音と繭のクラスの担任になった若い女教師畠山は何故か瑠璃奈に心酔し彼女を敬っていた。なんの中身のない彼女のどこに魅了されたのか分からない気持ちの悪い女だった。
瑠璃奈が悪い事をしても必ず無実の生徒のせいにした。特に朱音への待遇は酷いものだった。
「瑠璃奈さんにいじめられてたって嘘つくなんて本当最低だな!!土下座して謝りなさい!」
繭と友人達が小学校の頃からいじめを受けていると畠山に通告したのだが何故かいじめられている側の人間に謝罪させるという愚行に走ったのだ。
畠山に無理矢理土下座させられている朱音の姿を瑠璃奈と律、そして大勢の取り巻きはくすくすと笑いながらスマホで写真を撮ったり動画に収めていた。また彼女達に弱みという玩具が増える。
頼りになる筈の大人に裏切られ朱音と繭はもう失望するしかなかった。
いじめを止めるどころか加担する人間がまた増えただけで解決がまた遠のく。暴力や写真漏洩以外にも高額の金銭の要求も加わり更に遠のいた。物を隠されたり投げつけられるのも。
遂に決定的な事件が起こってしまう。
それは、繭の友人で数少ない味方の1人からの電話からだった。
「朱音ちゃんがデパートの屋上から飛び降りた…?!」
『アイツらがあっちゃんに指示したっぽい…どうしよう…まだ目覚める様子ない…!!」
「朱音ちゃんのお母さんは?」
『来てるけど瑠璃奈の嘘をお医者さん達が信じちゃって病室に入れてくれない!こんなの酷過ぎるよ…!!』
「待って!!今から私も行く!どこの病院?!」
『マツシヅ大学病院だよ!』
繭は急いで病院へ向かうも友人の言う通りで朱音の母親は瑠璃奈達の嘘で入室を断られていた。
飛び降りた理由が母親からの受けた虐待から逃れる為。自分達は必死に朱音を止めていたが防げなかったっと涙ながらの虚偽。
実際は、大自分達の前で飛び降りろと命令されていた。ちゃんと飛び降りたら写真と動画を消すという薄っぺらい条件付きで。
しかも瑠璃奈達は他校から大勢の仲間を呼び観客をつけた。彼女の小学生の妹・美紗とその友人達もその中にいた。
7階建てのデパートの屋上から飛び降りたらどうなるか誰でも想像ができる。けれど、怯える朱音を瑠璃奈達が連れてきた大勢の愚か者が早く飛び降りろと煽ったのだ。
いざ飛び降りたが地上に停めてあった車がクッションになり一旦は死を免れたとても危険な状態。
大怪我をし、管と包帯まみれでベッドに横たわる娘を近くで見てやらない母親の悔しさと虚しさが繭と友人に痛いほど伝わった。
必死に娘に会わせて欲しいと訴る朱音の母親の姿と、朱音の状況を見て怖くなった瑠璃奈の仲間の1人がようやく真実を医者達に話した。真実を知った医者達は急いで母親を朱音のある病室へと通した。親子が再会できたのは、朱音が病院に運ばれてから6時間後のことだった。
傷ついてボロボロになった愛する娘を見て啜り泣く朱音の母親の声が繭の耳にこびりつく。そして、痛々しい姿で眠る朱音を見て繭の目からも悔しさで涙が溢れ出た。
ベッドの近くの机には血に染まった水色のリボンが悲しげに置かれていた。
(私のせいだ…!!私の…!!)
朱音の受けた痛みは飛び降りた時のものだけではない。繭の見えないところでも与えられていたのだ。それは言葉や殴られる等の暴力だけではない。最も陰湿なやり方で人生を狂わしかねない最悪の行為まで朱音は影で受けていたのだ。
繭がその事を知るのは朱音が不登校になってしばらく経ってからのこと。瑠璃奈がグループメッセージで晒した吐き気を催すほどの邪悪に満ちた動画だった。それが一因となり、彼女の身に起こった異変が自殺を決意しまうきっかけの一つとなる。
繭は動画を保存してあったが、飽く迄それは朱音が受けてきた壮絶ないじめの証拠物としてのこと。
いじめが明るみになってからグループメッセージに残っていた動画はすぐに消去されたが、繭と友人達がその前に全て保存したことで難を逃れた。
だが、大人達にその証拠を見せても動かなかった。寧ろ、自分の欲のために保存してあると言われても過言ではない。もう絶望と失望しかもう残っていなかった。
最後の希望の光は大人達ではなく、自分と同じぐらいの少年と少女。その光さえも瑠璃奈は遮ろうとしている。それでも繭は諦めたくなかった。
「怜さん達、さっきの動画で何か違和感を感じませんでしたか?」
「違和感?」
「ええ。瑠璃奈さん達の声と魔獣の叫び声以外の声」
「やっぱり空耳なんかじゃなかったんだ」
「あの廃工場で亡くなったのは朱音ちゃんだけじゃありません。もう1人いたんです」
「もう1人って…」
「なぁ…?!まさか…っ」
怜が聞いた純粋な泣き声。朱音が受けてきた過去から察しはついていたが信じたくなかった。あまりも酷すぎる現実は繭の口から語られる。人間から魔獣となった悲しい結末を。
「その子の声は--朱音ちゃんが産んだ子供。望まない妊娠で産まれた子の声です。飛び降りる以前から無理矢理そういう行為を何度も強要されて出来た子供」
「…そんな…だってこんなの…!!」
「産んだばかりの赤ちゃんを殺害して、そのすぐ後に朱音ちゃんは自殺を図りました。あんな寂しくて冷たい場所で全てを終わらせたんです。瑠璃奈さんから赤ちゃんを守る為には道連れにするしかない。そう言い遺して朱音ちゃんは…っ」
悲し過ぎる朱音とその子供の最期に澪は涙を流した。話していた繭も最後の方は涙声で震えていた。
怜の中の瑠璃奈への感情が怒りと殺意で入り混じる。
「朱音ちゃんが死んだ後も瑠璃奈さんは見ての通りずっと被害者面。あの週刊誌でいじめが明らかになった後もずっと」
瑠璃奈が朱音の身に起きていたことを知ったのは彼女が自殺した後。
悪びれることなく瑠璃奈は「何?あの女、子供孕んでたの?アハハ!!!本当ウケる!!傑作だわ!!」っと嘲笑った。「自殺するとか最期までダセーな」とも皆に言いふらしていた。
瑠璃奈のグループメッセージはまさに地獄絵図そのまんまだった。
「羽美のガキ。殺さないで欲しかったなぁ〜。遊んであげたかったのにぃ〜」
瑠璃奈の邪悪は朱音が死んだ後も衰えを見せなかった。寧ろその逆。自分を守ってくれる盾を更に増やす為ならなんでもした。
平然と朱音の葬式に現れた瑠璃奈は棺の中で眠る朱音の前で泣いて参列していた人間に可哀想な友人と印象付かせた。
葬式を終えた後、繭は瑠璃奈と2人きりになった時のこと。
「繭ぅ?アタシィ来年東京に行くの。アイドルのオーディションに受かってぇ卒業したらデビュー♪アイツとは大違いの幸せな人生♪」
「……」
「アイドルになって、カッコいいハイスペ彼氏みつけるでしょお?それでぇ結婚して、当然式は豪華にしてぇ、んで〜とっっっても可愛い赤ちゃんを産んで〜羽美のお母さんの前で見せびらかせてやるの!!早く"娘さんとお孫さんは残念でしたが、アタシが彼女の代わりに幸せになりますね"って言ってやりたいなぁ〜♪フフ☆」
もう同じ人間とは思えない思考に怒りを込み上げた繭は彼女に飛びかかろうとしたが反撃を喰らい朱音のように取っ組み合いにはならなかった。けれど、あの時のような怯えた目ではなく殺意を込めた目で瑠璃奈を睨みつけた。
そんな目で見られても瑠璃奈に恐怖心は湧いてこない。少し驚愕はしていたが、結局軽蔑の目が繭に返ってくるだけだった。
「は?アンタ親友1人助けられなかったくせにイキがるなよ。全部アタシに歯向かったアイツが悪かったんだから。誰が幸せになれるか"神様はちゃんと見てるのよ"。あ、これ羽美の口癖だったね。ごめんねぇ〜傷抉るようなこと言っちゃってぇ♪アハハ♪アハハハハ♪」
繭は話の最後に朱音が最期に遺したボイスメールを聴かせてくれた。遺書ともとれるそのボイスメールには本当はもう少し生きたかったけれど限界がきてしまったという朱音の悲痛な叫びが伝わった。
怜と澪は静かにそのボイスメールを聴き、今回のこの任務の重さを改めて思い知った。
必ず羽美朱音とその子供を救い光へ導くこと。
これ以上の苦しみを彼女らから断ち切ること。
そして、釘藤瑠璃奈の悪意を抹消すること。
「怜さん、澪さん。彼女を苦しみから解放して欲しい。その為なら何だってします!!お金とか私の臓器とか何だって差し出します!!だから…お願いです…朱音ちゃんと赤ちゃんを救ってください…!!お願いします…!!!」
怜と澪はもう瑠璃奈の依頼を受けるつもりはない。
2人が何をすべきかもう決まっている。繭の悲痛の依頼に捧げ物等必要なかった。
朱音と繭を覆っていた闇が祓われる瞬間だった。
「雨宮繭さん。十分報酬は貴女達からいただきました。貴女のご友人達を俺達が空へ還します。必ず」
-繭のスマホに残されているボイスメール-
《繭。久しぶり。こんなボイスメール送ってごめんね。これは遺書だと思って欲しいの。もう全部嫌になっちゃった。殴られるだけじゃないこともいろいろされて心と身体がもうボロボロなんだよ。その結果がお腹の中にいる。お母さんにもまだ言えてない。でも、私はこの子と一緒に死のうと思う。きっと瑠璃奈がこの子をおもちゃにするから。お母さん、繭、こんなに弱い私を許して。本当はもう少し生きたかったけどごめんね。さようなら》