「調査により、ソースコードの漏洩をしたのは、佐京部長と判明しました」

 皆の前で強く言い切った海堂は、いつもとは少し違うリーダーに相応しい堂々さでオフィスを支配していた。

 騒動以来、調査を受けていた佐京の代わりを海堂がすることになっていた。

 噂はされていたが、事実を告げられてオフィス内はざわついた。一時は私が犯人扱いされ、冷ややかな対応がしばらく続いたが、ようやく事実が明るみになったことで、少しは皆の対応も変わることを祈るしかなかった。

 様々な憶測が飛び交う声を制止するように、海堂は言葉を続けた。

「動機については、詳しくはわかっておりませんが、この一件のおかげで、うちの社内セキュリティを見直すきっかけができました」

 防犯カメラの増設に加え、社員個人に割り当てられているパソコンの認証強化も促進されていた。

「部長はどうなるんですか?」

 信じられないとでも言わんばかりに、今にも泣きそうな女性の声が海堂に問う。

「残念ながら、佐京部長は退職だけでは済まない可能性があります。会社としても、金銭的な損出を被った訳ですから、刑事事件になることは避けられないかもしれません」

 そう言った海堂は、残念とは反対の表情をしているように見えた。

 ここまでの報告は、私には事前に知らされていたから、驚きも何もなかった。

「そして、僕からの報告は、もう一つあります」

 海堂は一度私の方を見てから皆に向き合う。

「実は僕、来月をもって辞めさせていただきます。この数年間、皆さんと一緒に仕事が出来き大変光栄に思います。今までありがとうございました」

 うそ……私は何も聞かされていない。

「えー、辞めてしまうんですか?」

「それは困ります!」

 いつの間にか皆に頼られる存在になってしまった海堂は、少し遠くに感じる。

「辞めてどうするんですか?」

「実は大学時代の友人と起業して、新たなゲーム会社をやろうと思っております。ですから、皆さんとは実質ライバル関係にはなりますが」

 部屋中に笑いが溢れる。

 ああ、いつの間にか人間と関わることを苦手にしていた海堂くんは、こうも皆に受け入れられる人物になってしまった。見ていて、本当に微笑ましい……だけれど、彼のいるその場所は、きっと自分の馴染める場所ではない気がして。

「僕からの報告は以上です。皆さん、お疲れ様でした」

 その言葉を合図にして人の群れが解散した。

 私はその場から逃げるようにしてデスクの荷物を鷲掴みにし、出口に向かって走った。

「広瀬さん!」

 後ろから海堂くんの声がしたが、私は決して振り返らなかった。

「広瀬さん!」

 彼の言葉がより近い所から聞こえた。

 私は時間に遅れて苛立った人のように、エレベーターを呼ぶボタンを無意味に何度も強く叩きつけた。

 空っぽだったエレベータのドアが奇跡的に開き、私は乗り込むと同時に閉じるボタンを連打する。

 が、エレベーターに乗り込んだのは、私一人ではなかった。

「佳奈さん……」

 狭い空間の中で吐かれた名前に、まるで耳元で囁かれたみたいな錯覚に陥る。

「怒っていますよね?事前に知らせなかったこと」

「……」

 私は頑なに彼を無視し、目を合わせないよう、壁に向いていた。

「本当に申し訳ないです。僕も先に佳奈さんに報告するべきとわかっていながら、あのような場で先に宣告したのは、僕が弱い人間だからです」

「……」

「あのような場を借りて自分の決意を固めないといけないくらいに、僕は弱いんです……」

「……どういうこと?」

 晒された弱さに負けてしまったのか、私の口は勝手に動き出した。

「起業は以前から考えていたことでしたが、いつの間にか会社に行くのが楽しくなってしまい、辞めたくないという気持ちが芽生えましたし……もしも、佳奈さんに先に告げて断られたりでもしたら、起業の意志ごと揺らいでしまう気がしたんですよ……っふ、恋愛にうつつを抜かしているのは、僕の方かもしれません」

 彼は自嘲をするように言い捨てた。

「断るって何を?」

 振り返った私を切なげに見つめる海堂を目にするだけで、紐でぎゅうと胸を強く締められたようだった。

 彼は私に近づき、両肩を抱くようにして私の顔を真剣に覗き込む。

「佳奈さん、僕の会社に来てくれませんか?僕に、佳奈さんの馴染める場所を作る権利をください」

「……っ」

 この上ない優しい眼差しに言葉を失ってしまった。

 私の馴染める場所はきっと、物理的な場所ではない気がしていた。環境を作り変えたとしても、それはきっと変わりない。

 私の沈黙の意味を探るように、海堂は私の頬を親指で撫でながら、何かを考えていた。

「……僕は物事に白黒をつけるのが好きでしてね。黙り込まれると困惑してしまうんですよ。……僕と一緒に起業するはYES、このままここで働くはNOと言ってください」

 私の心はYESと言いたい。正直、断る理由も思い当たらない。

「……い……っ」

 間近で熱っぽく見つめられ、つい声が裏返ってしまう。

「では、こうしましょう」

 海堂はいきなりスマホを取り出し、何かを検索していた。

「この人物の名前は、なんでしょう?」

 見せられた油絵のような写真には、茶髪で長髪の聖人男性だった。水をワインに変える力があるとか。これは……

「イエス」

「正解です」

「あっ……」

「それが、佳奈さんの答えなのでしょう?目を見れば、わかりますよ」

 私は海堂くんの目に吸い寄せられるように、顔を近づけた。

 そして、覗き込んだ漆黒の瞳の奥に触れると、もう一つの答えが浮かび上がる——私の馴染める場所は、この人の側なのだと。