席についた私は、向かいの海堂と目が合うと、二人だけの秘密のようにお互いに頬を緩ませてしまう。

 これはこれで仕事に集中できなくなるかもしれない。

 気を引き締め直すようにパソコンの電源を入れ、仕事の準備を始める。

 キュッキュッという廊下を足早に歩く、慌ただしい足音に妙な胸騒ぎがした。

 厳しい表情をした佐京部長が、オフィスにいる全員の注意を引き、自然とオフィス内は静まり返った。

「皆、ちょっと聞いてくれ」

 部屋の中心まで歩いてきた佐京部長が、皆が集まるのを待つように部屋にいる人物全員を見回す。そして、なぜか私を他の誰よりも長く見ていた気がする。

「実は今、大変なことが起きている」

 佐京部長の声音が、事態の深刻さを表していて、集まった社員のざわつきは防ぎようがない。

「新作のアプリのソースコードが漏れたようだ。さっそく、そのコードをいじって課金していないのにゲーム内の通貨を大量に発行しているユーザーが出てきている」

 頭の中が一瞬、真っ白になる。海堂くんがそれを阻止してくれたわけではなかったのか。答えを探るように海堂くんを見ると、彼は信じられないとでも言いたそうな顔をしていた。

「不正を働いたユーザーを強制退会させ、コード変更までゲームのサーバーをメンテナンス状態に入れて対処している。……だが、ソースコードが漏れたとなれば、それを漏らした張本人を止めなければ、ただのモグラ叩きのゲームになってしまう」

 佐京部長は視線を彷徨わせ、最後は私だけに話しているようにじっと私を見つめて言ってきた。

 もしかして、これもまた私の仕業ということになっているのか。底知れぬ不安が込み上げ、高鳴った鼓動がこれから起こることを予感していたようだった。

「広瀬、ちょっと会議室に来い。話がある」

 初めて見る部長の無表情な瞳に、私は固まってしまった。

「ちょっと待ってください。その前に僕の方から話があります」

 海堂が事の詳細を説明するために一緒について来ようとすると、佐京部長は語気を荒げ、「お前はついてくるな」とピシャリと海堂くんを一蹴する。

「ですが……」

 と言いかけた海堂だったが、私は強引に会議室に押し込まれ、続いて入室した部長は会議室の戸をバタンと閉め、鍵をかけた。

 別人のように怒りを顕にした部長と二人だけの会議室。私は異なる二つの恐怖に身を震わせていた。

 一つ目はソースコード漏洩の疑いを掛けられ、ひどい叱責を受けるかもしれないという恐怖。

 そして、もう一つは……

「広瀬……」

 名前を呼ばれ、部長が段々と距離を詰めて来る。彼の声が孕んでいた熱っぽさは、きっと気のせいではない。

「お前もわかっているかもしれないが、ソースコードを漏洩した疑いがお前に掛かられている」

「ぶ、部長。違うんです。私はやっていません。あれは加藤さんが昨夜、勝手に私のパソコンにアクセスして……っ!」

「シー」

 逃げ場のない私を壁に追いやり、冷たい人差し指を唇に当てられる。

「大丈夫。広瀬がやっていないのはわかっている。昨夜の件は、防犯カメラで確認済みだ。だが、今日の早朝にまた誰かがお前のパソコンを経由して、今度こそは本当にソースコードをばら撒いたようだ」

「そ、そんな」

「残念ながら、防犯カメラはその時間、何者かに作為的に消されたようだ」

「部長、私は本当に何もしていません」

 居心地の悪さを感じるほど至近距離にある部長の顔は、優しげなのにどこか歪んでいた。

「大丈夫。俺が佳奈を守るから、心配ない」

 突然呼び捨てにされたことに驚いていると、彼は逃げ場のない私を強い腕で私をきつく抱きしめ、混乱する私の反応を楽しんでいるように見えた。

「部長、離してください!」

 私の要求を無視し、今度は私の頭を恋人にしかしないような執拗な手つきで撫で始めた。

「や、やめてください」

 くっつけられた胸と胸の間に隙間がなく、彼の胸を叩きつけようにも腕を動かすことができない。

 体が本能的にこの危険な状況を察知したように、身体中の筋肉が不規則に震え出した。

「お願いします、部長。離してください!」

 目に血が昇り、刺激された涙腺がポロポロと液体を漏らし始めた。

 部長は一瞬力を緩め、私の顔を覗き込んでから言った。

「そうでしたね。佳奈さんは少し丁寧な口調で、もっと優しく接しないと、僕を好きになってくれないのでしょうね」

 彼は明らかに海堂くんの口調を真似していた。

「廊下であのような激しいキスをさせてくれるのでしたら、いくらでも優しくしますよ」
 
 迫ってくる顔を避け、目を瞑った私はもう一人の彼の顔を思い浮かべる。

「……海堂くん、助けて……」

 ピッという電子音がこだまし、ドアが開く音がした。

 骨と肉同士がぶつかり合うような鈍い打撲音がして、目を開けた時には、床に倒れた佐京に馬乗りになって胸ぐらを掴んでいた海堂と視線がぶつかった。

「海堂くん……」

「広瀬さん、もう大丈夫ですよ」

 彼は最後にもう一度殴りを入れ、立ち上がった。そして、伸ばされた腕に引き寄せられ、石鹸とヒノキの香りに身と心を余す所なく抱擁された。