そう言ってマスターは自身のハイボールを飲み干すと、壁にかかった時計をちらりと見てから、女性の方を向いた。


「もう時間だねー。あとは僕がやっておくから、今日はあがっていいよ田中ちゃん」


マスターの言葉が頭の中で反芻する中グラスを見つめていた岡嶋は、耳に入ってきた言葉に、ん?と顔を上げる。
岡嶋の視線の先で、女性が時間を確かめるように壁の時計を見上げている。


「……田中、さん?」


思わずそう声をかけると、女性が岡嶋へと視線を下ろした。


「はい。あっ、無理して飲まなくても大丈夫ですよ。マスターが勝手に作った物なので、別のものがよければ作り直しを――」

「ああ、いえ、そうではなくて」


“田中”はよくある名字だ。聞き馴染みのある名字だからといって、同一人物だとは限らないというか、別人の可能性の方が高い。
そう頭ではわかっているのに、どうしても確認せずにはいられなかった。


「田辺、……田辺 誠也って名前に、聞き覚えありますか?」


その瞬間、大きく目を見開いた女性を見て、岡嶋は確信した。
今目の前にいる彼女が、田辺が現在ご執心中の“田中さん”であることを。
そして彼女が話していたマイペースな自由人は、間違いなく田辺であることを。