僕の人生の中で、一番頭が良かったのは、間違いなく高校三年生の冬だ。大学に入ってからは、単位を落とさない程度に勉強していたけれど、純粋な知識量はどんどん低下していったと思う。実際、仕事で漢字が書けなかったり、クイズ番組の答えが分からなかったりして、焦る。社会人の半数は、そんなものだと思う。

 クリスマス商戦が始まる頃、僕は朝だけではなく、放課後も空き教室に行くようになった。元々、通っていた予備校は家から遠くて時間の無駄だと思っていたので、模試だけのコースにしたのだ。
 夕美は毎日、その空き教室にいた。彼女は予備校には通っていなかった。それなのに国公立志望だなんて、本当に勉強ができる子なのだなと当時は呑気に感心していた。今思えば、経済的な事情が多少なりともあったのだろう。
 陽奈と過ごすことができたのは、ほぼ昼休みだけだった。しかしその時間も、それぞれに友人がいるから、べったり一緒にいるわけにはいかない。それに彼女は、進路が決まっている女友達数人と自動車学校に通い始めた。予約のシステムがどうとか、どの教官が優しいとか、彼女らとそんなことを話していた。

「さて、問題です。陽奈さんは昨日の放課後、どこに行ったでしょう?」

 たまには息抜きをしよう、と陽奈に誘われ、久しぶりにいつものコーヒー・チェーンに行った。僕はホット・コーヒーを、彼女は冬限定メニューのハニーラテを飲んでいた。

「わかんないよ。五択にして」
「マークシートじゃないんだから……見りゃわかるじゃん」

 僕はなぜ陽奈がむくれているのか、まるでわけがわからなかった。付き合い始めの頃だったら、その問題を出されるよりも早く、答えを告げていただろう。けれど、その時の僕は、数日後の模試のことで頭がいっぱいだった。妙な言い方をしないで、昨日こんなことがあったと素直に話してくれればいいのに、と思っていた。
 陽奈は頑固だった。僕が解答を出すまで、ずっといじけていることにしたようだった。ストローの紙袋を蛇腹に折り、広げなおすということを繰り返していた。

「降参。っていうか、どうせ自動車学校だろ」

 僕はぶっきらぼうにそう言った。早くこの話題を終わらせたかったのだ。

「……違うよ」

 店内のBGMに紛れ、ハッキリとは聞き取れなかったが、陽奈の口はそう動いた。彼女はストローの袋をくちゃりと握りつぶした。

「もういい。志貴くんが気づいてくれないのなら、もういい。それに、そんな言い方ないと思う」
「ごめんって」
「何が悪いのかわかってないくせに、謝らないでよ」

 僕はまた、ごめん、と言おうとして慌てて飲み込んだ。その言葉は反射的に発しているだけだと、自分でも気づいたからだ。

「なあ、どこが悪かったんだ?」
「全部。しいて言えば、どうせ、って言ったこと」
「いや、それは、深く考えて言ったわけじゃないよ」
「じゃあ、無意識に思ってたことが言葉に出たんだね」

 それに対して違う、と反論することが、僕にはできなかった。
 言い訳をさせて欲しい。受験生活の中で、あの頃が一番しんどい時期だった。街はクリスマスモードで、道行く人たちは一人残らず浮かれているように見えた。それなのに、僕は遊べなくて、本当に受かるかどうかもわからなくて、進路が決まっている奴らが羨ましくて仕方が無かった。そこには、陽奈も含まれていた。
 正直、陽奈が自動車学校に通いだしたことを、僕は良く思っていなかったのだ。学科の勉強もあるし大変、なんて言われても、人生を左右されるようなものじゃない。一度落ちてもやり直せる。だから、大変なんて言葉は嫌味にしか聞こえていなかった。

「ごめん」
「いい。志貴くんが約束を忘れてるってことがわかったから。今日はもう、帰る……」

 陽奈はよろよろと立ち上がった。僕はこれ以上余計なことを言うのが恐くて、頷くだけだった。そして無言のまま、駅で別れた。

 翌日、僕と陽奈は、ごく自然に距離を空けていた。仲のいい公認カップルとして、クラスの誰からも怪しまれることのないように。彼女とケンカしたことを、僕は男友達にわざわざ言わなかった。このことを知っているのは、当事者の他には、夕美しかいなかった。

「夜に電話がかかってきたよ」

 空き教室で勉強した後、僕は夕美と下校していた。彼女なら、陽奈の機嫌を損ねた原因を知っているだろうという確信はあった。なのに、しょうもないプライドでその話をするのが嫌だった僕は、彼女からその話題を振ってくれたことに安堵した。

「問題の答えは、美容院」
「……はあ」
「数センチ切って、トリートメントしただけなんだけどね。実際、あたしも言われるまでわかんなかったし。けど、あれだ。彼氏なら、気づいてくれるべきだ、みたいな感じ?」

 気付いてやれなかった後悔と、そんなこと気付くかよ、という怒り。どちらも同じくらいの大きさだった。

「あとさ、僕が約束を忘れてるらしいんだけど、それはどれのことかわかる?」

 僕と陽奈は、いくつもの約束をしていた。主に、二人の未来に関することで。沢山ありすぎて、覚えきれていなかった。口先だけだった、と言うつもりはないけど、約束の数が多くなっていくにつれ、一つ一つの重みがなくなっていったことは否めなかった。

「二人だけで沖縄旅行しよう、ってやつ。レンタカー借りてね。だからあの子は自動車学校に通い始めたってわけ」
「え、そんなことだったのか?」
「うん。そんなこと」

 修学旅行。水槽の前。僕は陽奈の瞳を、仕草を、思い出した。

「どうやって謝ればいいと思う?」
「そんなの自分で考えなよ」

 夕美はこれ見よがしに大きな欠伸をした。

「間を取り持つのなんて嫌だよ、めんどくさい。大体、答えを教えてやったんだから、そのことに感謝してもらいたいね」
「ああ。ありがとう」

 夕美は突然、足を早め、少し先で立ち止まってくるりとターンした。

「今日のところはコーヒーで手を打とう」

 そう言って指さす先には、自動販売機があった。夕美は迷わずホットのブラックコーヒーを押した。

「僕もブラック派だ」
「そう」

 夕美は興味なさげな声を出した。