陽奈への返事は、その場ではしなかった。
 正式に、転勤先が決まったら。そう濁して、僕は逃げた。
 時間が欲しかったのだ。自分の気持ちを整理する、時間が。

 陽奈と電話してから、数日後、水曜日の会社帰り。夕美からきたメールはたった一言、「ラーメン」とだけあった。
 僕は味の好みを聞こうとして、止めた。きっと僕と同じ系統が今でも好きなのだと思ったからだ。
 その店にはカウンターしか無く、女性を連れてくるには一見不向きな場所なのだが、夕美は席よりも味にうるさいだろうということで、そこに決めた。予想通り、評判は上々で、実に満足した表情で彼女はスープをすする。

「ここ、チャーハンも美味しいんだ。さすがに今日はもう、お腹いっぱいだけどね」
「でも、酒なら飲めるんだろ?」
「そう言うと思った」

 僕たちは、波流のいるバーへ向かった。

「おっ、今日は二人揃ってご来店だね。ありがとう」

 波流はいつもの調子で話しかけてくる。僕はふと、彼女の職業について考える。彼女だって、辛いこと、困ったことが沢山あるだろうに、カウンターにいるときは、こうして明るく振る舞っている。それがバーテンダーという仕事なのか、と思う。

「何難しい顔してんの。注文は?」

 夕美に促され、僕はビールを注文する。乾杯の後、僕たち三人は、さして当たり障りのない話題で盛り上がる。けれど、何となく白々しい気がして、身が入らない。
 もしも夕美に、なぜ今日呼び出した聞いても、彼女は答えないだろう。ラーメン食べたかったから、とでも言われるに決まっている。
 そんな気持ちのブレに、夕美も波流も敏感だ。いや、女性はみんな、そうなのか。

「志貴、また陽奈と何かあっただろ」

 案の定、聞かれてしまった。

「……それで、返事はまだだけどさ、早くした方がいいとは解ってるんだ」

 僕は、陽奈の言ったことをできるだけ取りこぼさずに話した。こんな日に限って店は暇で、波流も全ての話を聞いてくれた。
 彼女らに話したことで、少し気が楽になったことを自覚する。もう社会人のくせに女々しいな、と思うが、他にどうしようもなかっただろう。

「焦らない方がいいんじゃない?下手すりゃお互いの一生に関わることなんだから」

 波流がそう言う。

「けど、自分の中で期限は決めろ。仕事の納期と一緒だ」

 夕美はそう言う。
 全くもって正しい忠告に、僕は素直に従うことにする。

「次の日曜。それまでに、どうするか決めて、陽奈に言うことにする」

 波流はうんうんと大きく頷き、夕美は空になったグラスを揺らす。
 さあ、これで逃げ場を無くした。だが同時に、時間も作った。僕は日曜までの間に、答えを作り出す。
 決意が固まると、お酒も美味しく思えるもので、明日も仕事だというのに、僕は調子よくビールを追加した。
 そうこうしていると、何組か客がやってきて、波流はそちらの対応に追われ出した。夕美も僕と同じくらいのペースでビールを飲み、それでいてどこか遠くを見つめながらタバコを吸っていた。

「志貴。駅はそっちじゃない」
「え?あ、うん」

 さて、調子に乗りすぎた。
 僕はどうも、誰かと一緒だと、多く飲みすぎてしまう傾向にあるらしい。夕美に先導されながら、路地を抜けていく。

「コンビニ寄ろう。水買ってやる」
「大丈夫だよ」
「どのみちタバコが切れたんだ」

 夕美がイライラしている、と気づく。酔っ払いの男を連れて歩くのだから、当然だが。
 さすがに水くらい自分で買おうとしたが、財布が中々出てこず、結局買ってもらう羽目になった。駅前の喫煙所で、僕は大人しく水を飲む。

「さっきの話だけどさ」

 夕美は僕の顔を見ずに、続ける。

「とりあえず断れよ。言っちゃなんだが、新しい仕事に差し支えるし、職場での評価も下がりかねない」

 そんな発想が無かった僕は、陽奈を連れて行くと決めたわけでもないのに、つい突っかかってしまう。

「それは言い過ぎだよ。僕だって、仕事と私情の分別くらいつくんだ。両立だってできる」
「……そうだな、悪い」

 さらなる反論が来ると身構えていた僕は、拍子抜けしてしまう。
 そして、思い出す。
 前も、こんなことが無かったか?
 高校生の、あの時。
 そうだ、あの時も。

「夕美……」
「さあ、とっとと帰るぞ。明日も仕事だろ」

 夕美はタバコを消し、駅へ歩もうとする。彼女の家は、確か僕と反対方向の駅だ。だから、改札を出たところで別れることになる。

「夕美!」

 僕は夕美の腕を掴む。彼女は抵抗しない。ただ、じっと僕を睨んでくる。その瞳は、勉強した後の帰り道の、あの時のままだ。

「僕は、まだ自分の気持ちが分からない。それでも、日曜までに絶対整理してみせる」

 夕美は小さく頷く。

「そのためには、夕美の気持ちが知りたい。本当の気持ちを」
「なんだよ、それ」

 もしかして、そろそろ終電なのだろうか。駅へ向かう人々の群れはせわしなく、僕たちを気に留める人など居ない。

「陽奈が言ってたんだ。陽奈は、夕美が僕のことを好きだと知ってて、僕と付き合ったって」
「ああ、そのこと。そんなことまで、陽奈は言ってたか」

 観念したかのような夕美の声。僕は手を離す。

「高校の頃、な。好きだったよ。だから、あんなことをした」

 聞いてしまえば、自分の首を絞めることになる。けれど、聞かないわけにはいかない。

「今は?」

 夕美は、何も答えなかった。