社会人三年目の春。
職場の歓迎会の後、飲み足りなさを感じた僕は、以前先輩と訪れたバーへ足を向けていた。
金曜の夜ということで、駅前はひどく混んでいた。しかし、そのバーがある雑居ビルの辺りは、至って閑散としている。ビラを持ったミニスカートの女の子が、つまらなさそうにスマートフォンをいじっている脇を通り抜け、昭和のセンスで作られた古い階段を上る。
看板もろくに出ていない、この店の名前は知らないが、場所だけはしっかり覚えていた。
ある程度の混雑を予想してドアを開ける。しかし、店の中には金髪の若い店員しかいなかった。前に来たときは見なかった顔である。
「いらっしゃい。どうぞ」
ハスキーな声と凛々しい顔立ちから、その店員は男だと思ったのだが、対面するとそれは女性であることがわかる。薄いながらも胸があり、シャツのボタンの位置が逆だ。僕はとりあえずビールを頼む。
「今日、マスターは?」
「遅番なんです。もう少ししたら来ると思いますよ」
ここのマスターは、四十代のよく喋る男性だ。直線のカウンターに席が十席なのだが、この前はほぼ満席だったので、一人慌ただしく口と手を動かしていたことを思い出す。
「私とは初めて、ですかね?」
「ええ。といっても、ここに来るのはまだ二回目です」
「二回目なら充分常連さんですよ」
彼女はそう言いながらビールグラスを差し出す。
「ここ、駅から離れているし、二階でしょ?ふらっと立ち寄る人はまず居ないんです」
「この前来たときも、常連さんばかりといった感じでしたしね。僕は会社の先輩に連れてこられたんですけど」
「その先輩は、うちによく来られるんですか?」
「多分。高畑さんっていうんですけど」
「ああ、あの、短髪で渋い声の」
「そうそう」
話しやすい子だ、そう思いながら改めて彼女の顔を見る。歳は僕と同じくらいだろうか。身長は、もしかしたら負けているかもしれない。彼女の方も、僕の顔を見てくる。そして、その表情が少しずつ揺れる。
「……あの、間違えてたら、申し訳ないんですけど」
僕は首を傾げて、彼女の言葉を待つ。
「もしかして、立野くんですか?」
「えっ、あ、はい!」
「やっぱり!私、香取波流です。覚えてます!?」
「あっ!」
僕は思わず彼女を指さす。名前を言われて一気に思い出した。彼女は、高校の同級生だ。
「バスケ部の波流ちゃん!」
「そうそう!お久しぶり!」
「っていうかごめん、最初全然わからなかった」
卒業以来、僕は高校時代の連中と一切会っていない。あれから何年になるのだろう、と指を折る。女性の変化は大きいというが、波流は金髪になったくらいで、雰囲気自体は当時とあまり変わっていない。高校生のときから、彼女は中性的な美人だった。そんな彼女のことを、なぜすぐに思い出せなかったのだろう、と申し訳ない気分になる。
「私も最初わからなかったけど、話し方でピンときた」
「僕、あまり変わってないってこと?」
「うーん、まあ、そうだね」
変わっていないのは、いいことなのか、どうなのか。複雑な気分になってしまったが、それで気づいてくれたのだから良しとしよう。
波流とはずっと別のクラスだったが、何回か話したことはあった。僕も運動部だったし、少なからず関わりはあったのだ。確か彼女も大学に進学したはずだ、なぜ今この店にいるんだ、等と聞きたいことがいくつも湧き出てくる。それは彼女も同じだろうが、とりあえず再開を祝して二人で乾杯する。
「立野くんは、私が働いてるのを知らなくて、うちに来てくれたんだよね?」
「うん。全くの偶然だね。まあ、何か引き寄せられるものがあったんじゃないかな?」
僕は大真面目にそう言ったのだが、波流はそれが可笑しかったようで、大げさに笑い出す。すると、ドアが開いてマスターが入ってくる。
「なんだ、やけに楽しそうだな」
「おはようございます。あのね、今、同級生と運命の再会を果たしていたんですよ」
マスターは、波流と僕の顔を交互に見比べる。
「波流の元彼か?」
「違いますよっ」
波流がマスターの肩を乱暴にはたく。残念ながら、本当にそういう関係ではなかった。
それから、僕たちはマスターに一通りの説明を始める。他に客は来ず、それで余計に話は盛り上がる。僕は大学卒業後、何て事の無い普通のサラリーマンになったことを言う。波流の方は、大学在学中にこの店で働きだし、そのまま居ついてしまったと笑う。
あっという間に終電の時間になり、僕は渋々席を立つ。明日、特に予定があるわけでもないのだが、朝まで飲み明かす体力は無いと思ったのだ。それに、波流は週に四日は店にいるとのことで、特に金曜は居る確率が高いらしい。
「立野くん、また来てくれよ」
「ええ。今日はごちそうさまでした」
「波流、送ってあげて」
「はーい」
波流と並んで廊下を歩く。背は辛うじて僕の方が高い、と勝手に安心する。今日は彼女と会えたし、マスターにもすっかり顔を覚えてもらえたしで、大いに収穫があった。
階段の踊り場で波流は立ち止まり、一礼する。
「ありがとう。気を付けて帰ってね」
「うん、こちらこそ、ありがとう」
僕と同じように、終電へと急ぐ人の波。それに乗って、帰路に着く。今夜はこのまま、深く眠ることができそうだ。
職場の歓迎会の後、飲み足りなさを感じた僕は、以前先輩と訪れたバーへ足を向けていた。
金曜の夜ということで、駅前はひどく混んでいた。しかし、そのバーがある雑居ビルの辺りは、至って閑散としている。ビラを持ったミニスカートの女の子が、つまらなさそうにスマートフォンをいじっている脇を通り抜け、昭和のセンスで作られた古い階段を上る。
看板もろくに出ていない、この店の名前は知らないが、場所だけはしっかり覚えていた。
ある程度の混雑を予想してドアを開ける。しかし、店の中には金髪の若い店員しかいなかった。前に来たときは見なかった顔である。
「いらっしゃい。どうぞ」
ハスキーな声と凛々しい顔立ちから、その店員は男だと思ったのだが、対面するとそれは女性であることがわかる。薄いながらも胸があり、シャツのボタンの位置が逆だ。僕はとりあえずビールを頼む。
「今日、マスターは?」
「遅番なんです。もう少ししたら来ると思いますよ」
ここのマスターは、四十代のよく喋る男性だ。直線のカウンターに席が十席なのだが、この前はほぼ満席だったので、一人慌ただしく口と手を動かしていたことを思い出す。
「私とは初めて、ですかね?」
「ええ。といっても、ここに来るのはまだ二回目です」
「二回目なら充分常連さんですよ」
彼女はそう言いながらビールグラスを差し出す。
「ここ、駅から離れているし、二階でしょ?ふらっと立ち寄る人はまず居ないんです」
「この前来たときも、常連さんばかりといった感じでしたしね。僕は会社の先輩に連れてこられたんですけど」
「その先輩は、うちによく来られるんですか?」
「多分。高畑さんっていうんですけど」
「ああ、あの、短髪で渋い声の」
「そうそう」
話しやすい子だ、そう思いながら改めて彼女の顔を見る。歳は僕と同じくらいだろうか。身長は、もしかしたら負けているかもしれない。彼女の方も、僕の顔を見てくる。そして、その表情が少しずつ揺れる。
「……あの、間違えてたら、申し訳ないんですけど」
僕は首を傾げて、彼女の言葉を待つ。
「もしかして、立野くんですか?」
「えっ、あ、はい!」
「やっぱり!私、香取波流です。覚えてます!?」
「あっ!」
僕は思わず彼女を指さす。名前を言われて一気に思い出した。彼女は、高校の同級生だ。
「バスケ部の波流ちゃん!」
「そうそう!お久しぶり!」
「っていうかごめん、最初全然わからなかった」
卒業以来、僕は高校時代の連中と一切会っていない。あれから何年になるのだろう、と指を折る。女性の変化は大きいというが、波流は金髪になったくらいで、雰囲気自体は当時とあまり変わっていない。高校生のときから、彼女は中性的な美人だった。そんな彼女のことを、なぜすぐに思い出せなかったのだろう、と申し訳ない気分になる。
「私も最初わからなかったけど、話し方でピンときた」
「僕、あまり変わってないってこと?」
「うーん、まあ、そうだね」
変わっていないのは、いいことなのか、どうなのか。複雑な気分になってしまったが、それで気づいてくれたのだから良しとしよう。
波流とはずっと別のクラスだったが、何回か話したことはあった。僕も運動部だったし、少なからず関わりはあったのだ。確か彼女も大学に進学したはずだ、なぜ今この店にいるんだ、等と聞きたいことがいくつも湧き出てくる。それは彼女も同じだろうが、とりあえず再開を祝して二人で乾杯する。
「立野くんは、私が働いてるのを知らなくて、うちに来てくれたんだよね?」
「うん。全くの偶然だね。まあ、何か引き寄せられるものがあったんじゃないかな?」
僕は大真面目にそう言ったのだが、波流はそれが可笑しかったようで、大げさに笑い出す。すると、ドアが開いてマスターが入ってくる。
「なんだ、やけに楽しそうだな」
「おはようございます。あのね、今、同級生と運命の再会を果たしていたんですよ」
マスターは、波流と僕の顔を交互に見比べる。
「波流の元彼か?」
「違いますよっ」
波流がマスターの肩を乱暴にはたく。残念ながら、本当にそういう関係ではなかった。
それから、僕たちはマスターに一通りの説明を始める。他に客は来ず、それで余計に話は盛り上がる。僕は大学卒業後、何て事の無い普通のサラリーマンになったことを言う。波流の方は、大学在学中にこの店で働きだし、そのまま居ついてしまったと笑う。
あっという間に終電の時間になり、僕は渋々席を立つ。明日、特に予定があるわけでもないのだが、朝まで飲み明かす体力は無いと思ったのだ。それに、波流は週に四日は店にいるとのことで、特に金曜は居る確率が高いらしい。
「立野くん、また来てくれよ」
「ええ。今日はごちそうさまでした」
「波流、送ってあげて」
「はーい」
波流と並んで廊下を歩く。背は辛うじて僕の方が高い、と勝手に安心する。今日は彼女と会えたし、マスターにもすっかり顔を覚えてもらえたしで、大いに収穫があった。
階段の踊り場で波流は立ち止まり、一礼する。
「ありがとう。気を付けて帰ってね」
「うん、こちらこそ、ありがとう」
僕と同じように、終電へと急ぐ人の波。それに乗って、帰路に着く。今夜はこのまま、深く眠ることができそうだ。