次の日の朝。何事も起こらなければ、夜中の出来事は悪い夢だったのだと、私も安心出来たかもしれないけど。

「おはよう――ってごめん。一睡(いっすい)もしてないのに、おはようは違うか。ごめんごめん」

 夢であってほしかったという、私の希望はあっさりと打ち砕かれた。恐怖で一睡もできず、目が赤くなっている私の姿で、鏡の中の悪魔はわざとらしくあくびをしてみせた。落ち着け私……すごくムカつくけど、挑発(ちょうはつ)にのったらだめ! 怒って鏡の中の悪魔に手を出そうとすれば、昨日みたいに鏡の中に引きずり込まれるかもしれない。

「誰のせいで寝不足だと思ってるのよ」

 鏡の中の悪魔と向かい合ったまま、歯磨(はみが)きをしたり、顔を洗う気にはなれない。今日は、洗面所じゃなくて、キッチンで歯磨きや洗顔をすることにした。

「……嫌な感じ」

 普段はあまり意識していなかったけど、鏡の中の悪魔と出会い、日常生活はたくさんの鏡に囲まれているのだなという実感を、恐怖と共に覚えた。手鏡や、登下校中に見かける駐車している車のミラー。学校のトイレの手洗い場といった分かりやすい鏡はもちろんのこと、ガラスの反射や、消えたテレビやパソコンの画面など、鏡になるものはいくらでも存在している。それらに私の姿が映り込む度に、鏡の中の悪魔は私の姿で、あおるみたいに笑いかけてきた。私は常に監視(かんし)されている。

 ――授業中が一番安心かも。

 そんな私にとって、唯一安心出来る時間は教室での授業中だった。私の席は廊下側で、右隣は壁だ。窓ガラスからは遠いし、私と窓ガラスの間には、背の高い子を含めて何人もクラスメイトがいるので、私の姿をした鏡の中の悪魔が視界に入ることもなかった。勉強はあまり好きじゃなかったけど、今この瞬間は、教室で授業を受ける時間が世界で一番安心出来た。

 だけど、安心してばかりもいられない。教室で授業を受けるのは大丈夫でも、教科によっては移動教室もある。体育や音楽ならそこまで問題はないと思うけど、姿を反射する物が多そうな理科室で実験や、後片付けで洗い場で水洗いをする可能性のある美術や書道、調理実習をする家庭科室も危ないかもしれない。

 幸い、今週の美術や書道の授業はもう終わっているし、しばらくは理科室での実験や家庭科室での調理実習の予定もないけど、鏡の中の悪魔がいつになったらいなくなるのか分からないし、油断は出来ない。

朋絵(ともえ)。何だか顔色悪いよ? 目も赤いし」

 昼休みになると、隣のクラスから夏奈(なつな)が私の席に訪ねてきた。流石は親友。一目見て私の不調に気づいたみたいだ。

「具合が悪いわけじゃないから安心して。ちょっと色々あって寝不足なだけ」

「何か悩みごと? 私でよければ相談に乗るよ」

「……た、大したことじゃないから大丈夫」

 夏奈に鏡の中の悪魔について相談すべきかどうか迷ったけど、結局はやめた。夏奈のことは信頼しているけど、だからといって鏡の中の悪魔が私と入れ替わろうとしているなんて、常識離れした話を信じてもらえるかはまた別問題だ。私自身がまだ状況をうまく理解できていないし、上手く説明できる自信もなかった。

「何があったか知らないけど、あまり悩みすぎたらだめだよ。こういう時は(いや)しの猫動画でも見てリラックスリラックス。お勧め動画のリンク張っておくね」

 夏奈が笑顔で自分のスマホを操作すると、私のスマホのメッセージの通知が鳴った。早速お勧めの猫動画を送ってくれたみたいだ。夏奈の言うように、癒しの猫動画でリラックス……。

「……しまった」

 スマホを取り出して操作しようとしたら、真っ黒なスマホの画面が鏡の役割を果たし、鏡の中の悪魔が不気味な笑みを浮かべていた。次の瞬間、画面に触れていた指に、別の指が触れた。一瞬、真っ黒な画面から指先が伸びているのが見えた。鏡の中の悪魔が私に触ったんだ。

「きゃっ!」

 私は驚きのあまりスマホを手放してしまい、それがそのまま床に落下した。突然悲鳴を上げた私に教室は静まり返り、クラスメイトの視線が私に向く。

「朋絵。だ、大丈夫?」
「ご、ごめん。静電気(せいでんき)かな? いきなり指先に変な感じがして。みんなも驚かせてごめんね」

 変に思われたくて、とっさに言い訳を口にする。それで納得してくれたみたいで、クラスメイトたちはそれぞれの会話へと戻っていった。

「スマホ、こっちまで(すべ)ってきてたよ」

「拾ってくれてありがとう。成町さん」

「大事にしなよ。壊れたら大変だし」

 床に落としたスマホは横滑りして、クラスメイトの成町(なりまち)マリナさんの足元に届いていたらしい。成町さんがそれを拾って私に渡してくれた。たまたま成町さんはスマホの画面を上向きにして渡してくれたので、私は鏡になっている画面に触れないように、背中側をてのひらに乗せるような形で受け取り、そのままポケットにしまった。

「スマホ見ないの?」

 夏奈が聞いてくる。そういえば、夏奈から癒しの猫動画を送ってくれたんだった。だけど、もう一回スマホに(さわ)るのもな……。

「ごめん。スマホの充電(じゅうでん)忘れてて、もう赤色なの忘れてた。動画は帰ったらゆっくりチェックするね」

「もう。朋絵ったらおっちょこいちょいなんだから」

 本当は充電は八十パーセント以上あるけど、今はそう言ってごまかすしかなかった。今回は無事だったけど、もしかしたらスマホは最も身近な鏡で、今の私にとっては鏡の中の悪魔との最も危険な接点かもしれない。だからといって、ずっとスマホを使わないわけにもいかないし。バッテリーの消費が早くなるけど、安全に使うためには画面が消えないように設定して、スマホが鏡にならないように気をつけるしかなさそうだ。