呉川さんに言い寄る男を撃退した翌日。初めての図書委員会が放課後に開かれる。俺は終礼が鳴るなり、呉川さんに話しかけに行った。

「委員会、一緒に行こう」
「……うん」

 指定された教室は、三年一組だった。一年生の教室があるのは一階、三年生の教室があるのは三階。だから、割と長い時間、呉川さんと歩くことになる。しかし、彼女は俺とまるで目を合わせてくれなかった。昨日のこともあるし、当然か。無言のまま、俺たちは三年一組の教室に入った。
 そこに、安奈の姿があったのは想定内として。なんと、春日優太が彼女の隣に居た。

「やあ、どーも」

 そう言ってヘラヘラと手を振る彼に、俺はどう対応したものかと思い、とりあえず安奈の方を見た。すると、彼女はこう言った。

「優太くんったらね、呉川さん目当てで図書委員になったんだよ」

 俺は驚いた。彼が図書委員になったということより、安奈が彼を優太くん、と下の名前で呼んだことについてだ。彼女は今まで、俺以外の男子生徒を苗字でしか呼んだことが無かった。俺の隣の呉川さんは、あからさまに嫌そうな表情を浮かべた。

「おい、優太とやら。あたしはお前と付き合う気、無いからな」
「優太って呼んでくれた! じゃあおれも、芹香って呼んでいい?」
「好きにしろ」

 それから、話の流れで、一組と二組の図書委員たちは、下の名前で呼び合うことになってしまった。俺も、呉川さんのことを芹香と呼べる。それ自体はとても喜ばしいことだった。
 優太は俺にとても馴れ馴れしかった。その理由はおそらく、俺に安奈という恋人が居るからだろうというのはすぐに察しがついた。あちらは俺の事を恋敵だとは思っていないのだ。当然のことだった。
 委員会では一通りの説明を受けた後、図書室に移動し、物品の場所なんかを教わった。一度、上級生と一緒に仕事をして、それから一年生だけの当番も回ってくるらしかった。
 思いのほかくたびれた俺は、安奈と一緒に電車に揺られながら、彼女の話を上の空で聞いていた。

「それでね、達矢……って聞いてる?」
「ああ……何の話だっけ」
「優太くんのこと」

 安奈が優太を下の名前で呼んだのは、彼がそうしてほしいと言ったということの他に、こんな理由があった。

「芹香ちゃんのことが好きなんでしょう? わたしには興味無いんでしょう? だったらこわくないもん」
「そういうことか」

 納得した俺は、大きく欠伸をした。なんだかややこしい事態になってしまったが、安奈が他の男子とも話せるようになったというのは、大きな一歩だった。そして俺は思った。どうにかして、安奈を優太に押し付けることはできないかと。
 もしも優太が安奈に心変わりしてくれれば、「本当の恋人」ができたとして俺と安奈の関係は解消できるし、芹香への障害も一つ減ることになる。良い考えだと思った。

「良かったな、俺の他に喋れる男子ができて。同じ委員として、優太とは仲良くやっていこうな?」
「もちろんだよ! それに、芹香ちゃんともね。彼女、確かにすっごく可愛いもんね。優太くんが告白しちゃったのも無理はないよ」

 そう、すっごく可愛い。けれども、ここで自分の気持ちを安奈に晒してしまうわけにはいかなかった。俺は話を優太のことに戻した。

「優太も凄くカッコいいよな。男目線からでもいい顔してるよ」

 それは本当のことだった。悔しいが、優太はくっきりとした二重まぶたにスッと通った鼻筋をしていて、そこらのアイドルかなんかになれそうな顔立ちだったのだ。

「もし二人が付き合ったらお似合いだよね! 応援しちゃおっか?」
「やめとけ、安奈。芹香は誰とも付き合いたくないって言ってるんだぞ?」

 芹香。会話の中とはいえ、そう呼び捨てで呼んでしまうことに何だか興奮を覚えた。そして、優太との仲は徹底的に邪魔してやろうと心に決めた。

「で、今日はどうする? いつもの公園寄っていくか?」
「あっ、今日はね、わたしが夕飯作る約束してるの。お買い物とかあるから、真っ直ぐ帰るね」
「何作るんだ?」
「クリームシチューだよ」

 電車を降りた俺たちは、大きな交差点まで来て、そこで左右に別れた。家の距離はごく近い。徒歩七分といったところだ。一人になった俺は、芹香との仲が一歩前進したことに浮かれ、ついつい鼻歌を口ずさんでしまった。

「ただいまー」

 今日は母親が休みの日だった。台所からは、いい匂いが立ち込めていた。

「おかえり、達矢。なんかあんた、機嫌良さそうね」
「まあね。今日の夕飯、何?」
「ビーフシチュー」

 台所に入ると、鍋がぐつぐつと煮えていた。俺は冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出した。

「安奈のところはクリームシチューだってさ。安奈が作るって」
「たまには達矢も手伝いなさいよ? 今時の男の子は料理くらいできなきゃ」
「はいはい」

 相変わらず口うるさい母親だが、料理は美味い。今日はとても良い日だ、と思いながら、俺はごくごくとコーラを飲んだ。