クラスで始まった自己紹介。出席番号順なので、名字が「や」から始まる俺は最後だ。廊下側の一番後ろの席で、俺はまた退屈な時間を過ごしていた。自分が言うことはもう決めていた。特に緊張なんかも無い。だから、他の奴らの発表も適当に聞き流していた。
 彼女の番が来るまでは。

呉川芹香(くれかわせりか)です。部活に入るつもりはありません。以上」

 それだけ言って、すとんと席に着いてしまった彼女は、黒く美しいストレートのロングヘアをしていた。前髪はセンター分けで、くっきりと出た額は陶器のように白かった。そして、ヒヤリとした冷たい物言いと、クレカワセリカという涼やかな名前の響きに、俺は釘付けになってしまった。
 綺麗だ。
 それが、俺が彼女に抱いた最初の感情だった。
 俺は自分の番が来るまで、彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。背は低めだろうか。机の上に置かれた白い飾り気のないペンケースも、彼女にぴったりだと思った。

「はい、最後山手くんだよ」
「あっ、はい!」

 担任に促され、俺はしどろもどろで自己紹介を済ませた。こんなに動揺するはずじゃなかったのに。俺が喋っている間、呉川さんはこちらを見向きもしなかった。いや、俺だけじゃない。誰の番のときも、彼女はそちらを見ようとしていなかった。

「じゃあ、校内オリエンテーションについてですが……」

 そんな担任の説明も、耳からすっと通り抜けていった。俺が見ていたのは呉川さんの墨をひいたような黒髪だけだった。そうしている内に、ホームルームが終わった。

「達矢」

 廊下から、ひょっこり安奈が顔を出した。ざわめきが起こった。

「お待たせ。帰ろうか」
「うん」

 俺はちらりと呉川さんの席を見た。彼女の姿はもうそこには無かった。

「見た? 今の」
「あれって、二組の子だよね」
「あの二人、付き合ってるのかな?」

 そんなクラスメイトたちの声を後に、俺と安奈は連れ立って下校した。俺たちの噂は、あっという間に広がるだろう。そうすれば、安奈はもう誰にも告白されることは無い。
 帰り道、安奈はきゅっと俺のブレザーの裾を掴んだ。

「どうした?」
「その、ご飯食べて帰らない?」

 百七十センチの俺と、百六十センチの安奈の身長差は十センチだ。その高低差から繰り出される上目遣いは、幼馴染じゃなかったら途端に落ちてしまうようなものだろう。しかし、いちいちそれに反応する俺では無い。

「いいよ。何食べたい?」
「パスタがいいな。カフェ入ろうよ」

 俺たちはセルフサービス式のカフェに入った。俺は明太子パスタ、安奈はカルボナーラだ。制服のまま、向かい合って食事をする俺たちの姿は、どう見てもカップルそのものに映るだろう。もしかすると、ミナコー生が居るかもしれない。だからこそ、彼氏のフリを続ける必要があった。

「安奈は相変わらずコーヒー無理なのな」

 安奈は砂糖をどっさり入れたカフェラテを頼んでいた。

「むぅ。ちょっとだったら飲めるよ」
「じゃあ、練習してみるか?」

 俺はホットのブラックコーヒーのカップを安奈に突き出した。

「……やっぱり苦ぁい」
「お子様だなぁ」

 本当は、もっと野蛮な言葉で罵りたいところだが、ぐっと我慢した。俺は彼女には優しい彼氏なのだから。

「それで安奈、クラスでは上手くいきそうか?」
「んー、まだ一日目だからわかんないよ。でも、同じ中学の子が何人か居るから、とっかかりは掴めるかも」

 これは、幼馴染としての俺のお節介だった。安奈は同性からやっかみを向けられることが度々あった。だから、中学生のときはいつも同じ少人数のグループに属していた。男嫌いなだけでなく、そもそも人見知りでもあるのだ。

「達矢こそ、どうなの?」
「俺の心配はしなくていいぞ」

 ハッキリ言うと、呉川さん以外の生徒には目がいっていなかった。前の席の男子が背が高くて、黒板が見づらいと思ったくらいだ。しかし、こんなところで呉川さんの話題など出すべきではない。ましてや、安奈相手に。彼女に見惚れてしまったなんて言えるわけがない。

「あっ、達矢ったら誰かのこと考えてたでしょう」

 目ざとい幼馴染は、俺の癖をよく知っていた。それが何なのかはよく分からないが、こうして内心を言い当てられることがよくあった。

「別に、考えてねぇし」
「ふぅん」

 安奈は美しい動作でカルボナーラを巻き取ると、上品に口に運んだ。彼女の家は躾に厳しい。父親は大学教授で、母親は英語の教師だ。家族ぐるみで食事をしたとき、いつも食器の使い方を厳しく指導されていたのが思い出された。

「二組にね、いきなり金髪の男の子が居てね。ちょっと恐かった」
「入学初日に金髪かよ」

 ミナコ―は校則がゆるい。しかし、初日に髪を染めたり脱色したりする勇気は俺には無かった。もう少ししたら、茶髪にでもしようかと考えていたのだが、それを呉川さんがどう思うのかが気になってしまった。
 いや、何考えてるんだ、俺。俺なんか、まだ彼女の視界にも入っていないのに。しかも、偽ではあるが安奈という彼女が居る。そのことを、彼女はどう思うのだろうか。

「達矢は染めるの?」
「うん。ちょっとだけ茶色にしようかなーって」
「そのままの方がいいよ。その方がカッコいい」
「そうか?」

 俺はわしゃわしゃと自分の伸びだした髪をいじった。カッコいいと安奈は言うが、俺の顔なんて、一重で目付きが悪いし、鼻筋は通っている自覚はあるけれど、何てことのない普通の顔立ちだ。
 パスタを食べ終えた俺たちは、真っ直ぐにそれぞれの家に帰った。明日から、本格的な高校生活が始まる。