冬。
 寮長が寮務のさなか、転倒した。大腿骨骨頭を骨折し、療養生活に入っていたが院内感染の肺炎をこじらせた挙句、多臓器不全で亡くなった。梅雨に学長でもある夫人を亡くして以来、身体は痩せる一方だったという。その結果、筋力低下で転んだ、ということらしい。
 梅雨の時と同じようにおれと新野は告別式に参列した。
 ああ、またか、と思う一方、今の新野なら二人羽織でのネクタイ結びも嫌がるだろうな、と苦い気持ちで迎えた告別式の朝だった。髭も剃り終え礼服に黒ネクタイを完璧に締め、多少は世話になった寮長への哀悼の意を胸にしていた。
 新野、さすがに動画かなんかで結び方の一つや二つ、覚えているだろうなと思いながらトイレの手洗い場へ向かう。しかし、やっぱりというかなんというか、長さがうまくゆかないのか何度も締めては解きを繰り返していた。

「貸せ」
「いい」
「なんで」
「自分でできるから」
「——あと三回」
「え?」
「あと三回結んでもだめだったらおれに結ぶ権利をよこせ」
 おれは腕時計で時間を見ながらいう。
「——いや、いい。結んで」

 寮室で椅子に座らせた新野に後ろから覆いかぶさるようにしてネクタイを結ぶ。
「まず首に掛けたときに大剣の長さは小剣のおおむね倍にし——」

 右の大剣を小剣の上から左に回し、交差したところを左手でしっかりと把持し、けして離さない。その大剣を小剣の下をくぐらせて右へ回し、輪の中に通し一番下へ持ってゆく。

「——さらに大剣をもう一度右から回し、一番上側を跨がせる。その時にできた輪に左下から大剣を回し、一番下から一番上の輪まで通し、確実に締めると、セミウィンザーノット、もしくはハーフウィンザーノットとなる。覚えれば結構楽だし、ネクタイの生地の厚さや崩れにくさという点でもいいんじゃないかと思う。ああ。この時に大剣にディンプル、つまり窪みができるが弔事では平らにしておくのがマナーらしい。ちなみに弔事ではタイピン、カフスボタン、ボタンダウンシャツも好まれない」

「ありがと、楠原」
「ちなみに」
 おれは新野の目を見て悟る。
「まあ、その——嫌われてなくてよかった」
「うん? ぜんぜん嫌ってるよ?」
「——そ、そういうことは先にいえよ、先に」
「なんで?」
「なんでって、おまえ——いや、いい。おれはゲイにもバイにも向いてないようだし、その、あん時は、すまなかったよ。好きでもないやつに、その」
 新野が急に立ち上がりおれの下顎骨を掴み、身体ごとぶつかるように唇をふれさせたかと思う間もなく、舌を入れてくる。
「ん! ん——!」
 新野の手はぱっと離され、おれは解放される。
「ぼくね」
 信じられないといった面持ちをしているだろう、あまり見られたくないがおれは新野の方をうかがう。
「ぼくね、これでもけっこう上手なんだ。相手を選ぶけどね。——ん? 相手に選ばれるのかな? とにかく、楠原が目つぶってたらそこらの女子には負けないから。でも残念、楠原は」

「まじでごめん、気持ち悪かった。と同時に気持ちよかった。この感情にどう対処したらいいのか死ぬほど分からん」
「いいんじゃないの? こればっかりは死ななきゃ分かんないんだし。あ、死んでも分かんないか。まあ——活用してくれても、いいよ?」
 うがい、うがいがしたい。でも新野の舌は確かにそこらの女子と比べて一〇〇倍以上柔らかくて熱くて、心地よかった。途中から新野の指が耳孔を塞ぎ、口の中の水の音が頭の中で五〇〇〇倍に増幅されて——ああもう、調子が狂う。
「も、もう少し、心の準備ができたら、な」おれには、そういうほかなかった。

 新野、か。
 いま思い出しても新種の恐竜の化石のように、たぶんとても価値はあるのだろうがその使い道に大いに悩んでしまう、そんなやつだった。今にも蘇って牙を剥きかねない、そんなやつ。しばらく年賀状や暑中見舞いの付き合いは続いた。あるときからぱったりと音信が途絶えた。
 牙に飽き足らず、翼でも手に入れちまったんじゃねえかとおれは読んでいる。