まだだれも来てないな。
 二段ベッドが二台、奥は南向きの窓で換気扇、空調、奥は畳敷きとなっており、机と座布団。テレビはない。
 入学式の直後、本当に最低限の荷物を持って寮に着いたのだが、自分が一番乗りのようだ。畳のスペースで荷ほどきをしているとドアをこんこんとノックする音が聞こえ、おれと同時にはい、と両隣からも学生が返事をした。いい防音設計だな。鼻で笑ったらドアは開かれ、壮年男性が入室した。

「ああ、どうも(おれも中腰で会釈をする)。名前は? ああ、オーケー。あ、そのままで聞いて。質問はあと。このあと二時から入寮式で、その次がオリエンテーションなんだけど、君には軽く説明しておく。そう、別に君が特別とかじゃなくて、知識量に差があると統率が取れるし何かと役立つからね。序列ってこと。入寮式とオリはおおむね二時四十五分で終わる。終わらせなきゃならない。そののち各班、つまり部屋ね、それに分かれて寮生活の手引書をひたすら読み込む。目安として一〇分で全員完全に覚えてほしい。班長選出は各部屋に一任、部屋は同学年の四名から六名。部屋の異動はめったにないけどたまにある。貴重品は金庫含めて自己管理。入寮式はさっきの入学式と同じくスーツ、ネクタイ着用のままで。では、以後よろしく」
よろしくお願いします、といいかけて、

「あの、失礼ですがお名前をまだ」と慌てて呼び止める。
「恩部。恩部(おんべ)智之(ともゆき)。学長はわたしの奥さん。わたしは寮長」
「は、はい。よろしくお願いします」

 入寮式、入寮オリエンテーションそのあと。
 だいたいの予想はつくと思うが、そのあとは寮で古株が新入りにいちゃもんをつけるお時間だ。教員のいない寮で執り行われる伝統行事なんだろうな、おれも標的にされた。
 がんっ、と拳で壁ドンをされる。
「キミねえ、いただけないねえ、その目つき。そんなんじゃあ誰もお友達になってくれないよ? せっかくボクたちが友好の意を示してるのに、もったいないって思わんの?」

 面倒だな。とても面倒だ。血は服が汚れる。暴力はきらいだし、場合によっては停学だ。学生生活の初っ端に汚点をつけることだけは避けたい。
「あ、それは気づきませんでした。ははっ、ぼくって鈍いんで困ってるんです。ぜひ先輩に指導を」
 ——おっと。
「どうや。少しは態度を改める気になったか? ご希望通り、合意のうえで指導したんだがなあ」
 腹部に突きをもらったが、まともには食らっていない。腹筋に十分力も込めた。このありがたい先輩は打突部位に注目してからの起こり頭だったし——まあ、いいだろう、ジョーク程度の意趣返しをしても。
先輩のたるみきったネクタイの結び目に左親指を差し入れ、小剣——細い方を思い切り引っ張る。ネクタイは一気に締まり、息ができず半ばパニック状態の先輩を連れて歩く。記念撮影も何枚か撮った。

 付近に教員も寮関係者もいないし、格好の散歩日和だった。見れば先輩は四つ這いで涙もよだれもたらし、顔を赤黒くしながらおれの腕をタップしている。そういえばお仲間さんたちはどこへ行ったんだ? ああ、遠巻きに見ているだけか。ひょい、とネクタイを持ち上げて見せる。蜂の子を散らすように向こうへ逃げて行った。
 ぱっ、とネクタイから手を離すと先輩は床に転がり必死でネクタイを取ろうともがく。やっと息ができるようになった先輩は全力疾走の直後のように床に延び、逃げる気配もない。さすがに哀れになり、「すみません、少々やりすぎました。ただ自分がいるところではネクタイ、締めない方がいいですよ」とアドバイスをする。