どうしよう‥‥‥‥


あと15分くらいで
バイトの時間は終わりなのに
帰りたくなくなってしまった


カウンターの席にスーツのジャケットを
脱いで背もたれに綺麗にかけると
スマートにカウンターに腰掛け
マスターと笑顔で何かを話していた


Openの看板立てを中に片付けると、
カウンターに座っていたあの人が、
私を見てニコっと笑ってくれたので
小さくお辞儀をした。


今日アルバイトに来て良かった‥‥


話すことは出来ないけど、
自分だけに向けられた笑顔だけで
今日1日がいい日だって思えたから。


『霞さん、そろそろ
 お仕事上がってくださいね。
 傘はありますか?』


テーブルを拭き
裏の片付けをしていた私は
帰る支度をした後、
マスターの呼びかけに表に向かった


「はい、マスター。
 今日もありがとうございました。
 傘はあるので平気です。」


ペコリとお辞儀をすると、
カウンターの向こうにいた彼と
また目が合う


話しかけようか頭だけ下げようか、
一瞬の間でモヤモヤと
悩んでしまったけど、
黙って帰るのもおかしいと思い、
唾をゴクリと飲み込んでから
深呼吸をした



「あ、あの‥‥良ければ
 この傘を使ってください。」


鞄から水色の折り畳み傘を取り出し
そっとカウンターに置くと、傘に視線を
落とした彼が私の方に視線を向けた。


外はまだかなり雨が降っていて
いつ止むかも分からない。
マスターは裏に黒い傘が一本
置いてあるから大丈夫そうだし。


珈琲も
殆ど飲み終わっていたようだから、
帰るきっかけに
なればいいなと思ったのだ。


『助かるけど、君の傘は?』


「大丈夫です。もう一本持ってます。
 素敵なスーツがまた濡れてしまうと
 いけませんし、夜はまだ寒いので
 風邪など引かれませんように。」


緊張しながらもニコっと笑ってから
お辞儀をすると、
彼が折り畳み傘を手に取り
そのままカウンターから立ち上がった


『ありがとう、ではお借りします。』


「お役に立てて良かったです‥‥
 ではそろそろ失礼します。
 マスターお疲れ様です。」


『はい、霞さん。
 また月曜日にお会いしましょう。』


2人にまた頭を下げると
裏口に向かって歩き、ドアを開けた後
そこから思い切り走り出した


傘なんて一つしか持ってない。


きっと優しい人だから
持ってないと伝えれば
受け取ってもらえないと思ったから
咄嗟に嘘をついたのだ


スーツが濡れてしまうことも、
風邪をひいてほしくないことも
嘘じゃない‥‥



知っているのはマスターが呼んでいた
『筒井さん』という名字だけ


こんなにもあなたに恋焦がれる
幼稚な大学生がいるなんて
筒井さんは知らないでいい‥‥



どうしようもなく好きなんです。


土砂降りの中を走りながらも、
あの人のために何かができたことが
嬉しくて仕方なかった。