春雷の名前を出した途端に男性が怒鳴ったので、反射的に両腕でお腹を庇ってしまう。
 男性はそんな華蓮の様子を気にすることもなく、大股で近づいてくると、汚いものを見たかのように眉を顰める。
 
「人間臭いな。どこのあやかしだ?」
「あやかしじゃありません。人間です……」
「人間!? 人間だというのか!?」

 男性が憤怒に満ちた目を見開いた瞬間、華蓮の首が乱暴に掴まれる。あまりに一瞬の出来事に驚き、戸惑う間もなく、男性は首を掴む手に力を込めると華蓮の首を締め上げたのだった。

「うぐっ……」

 首を掴む男性の手から黄色の電流が溢れて辺りを舞う。
 すぐに息が苦しくなって男性の手を引き剥がそうとするも、身体付きの良い男性に太刀打ち出来るはずがなかった。華蓮は身体を動かしてどうにか男性から逃れようとするが、壁に背中をぶつけてしまう。そのまま追い詰められてしまうと、男性は掌に込める力を強くしたのだった。

「しゅん、らい……しゅんらい……。たすけっ、しゅんらい……!」

 目に涙を溜めながら、白くなっていく視界の中で無我夢中で名前を呼ぶ。こんな蚊の鳴くような声で名前を呼んでも、出掛けた春雷に聞こえるはずがない。頭ではそう分かっていても、華蓮は春雷の名前を繰り返した。
 やがて身体に酸素が回らなくなって、意識が沈んでいきそうになった時だった。遠くから黒い塊が飛んで来たかと思うと、華蓮の腕を掴む男性の腕に噛み付いたのだった。

「ごほっ……ごほっ……、げほっ……!」

 その場に座り込んで咳き込む華蓮の目の前では、男性の腕に牙を立てて食らい付く黒犬とそんな黒犬を引き離そうと腕を大きく振る男性の姿があった。

「離せ! 離せ! この木偶の坊! 出来損ないの我が家の恥め!」

 男性は声を荒げながら黒犬を柱に叩きつけるが、黒犬はしっかりと噛み付いたまま腕から離れなかった。喉を押さえながら息を整えていた華蓮は、次に続いた男性の言葉に驚愕したのだった。

「この期に及んでまだ恥を晒す気か!? 人間を攫って子を産ませるなど、おれとの約束を忘れたのか、春雷っ!!」
「えっ……春雷?」

 まだ掠れてはいたものの、華蓮の言葉に黒犬が反応したような気がした。男性は黒犬の頭を乱暴に掴むと掌から黄色の電気を放つ。黒毛が逆立つと同時に黒犬姿の春雷が苦悶の声を上げたのだった。

「春雷!!」
 
 男性が腕を大きく払うと、春雷は腕から離れて庭に飛んで行く。大切に育てていた畑の野菜を薙ぎ倒しながら、春雷は畑の中に落ちたのだった。
 華蓮もお腹を庇いながら庭に降りると、白い足袋を土や泥で汚しながら春雷に駆け寄ったのだった。

「春雷!! 春雷っ!! しっかりして、春雷っ!!」

 黒犬姿の春雷を抱き上げると、華蓮は繰り返し名前を呼ぶ。焦げた臭いが鼻をつき、涙で視界が霞んでくる。やがて春雷は目を開けると、頭を上げたのだった。

「すい……れん……」
「春雷!! 良かった……」

 華蓮が春雷を抱きしめると、春雷は安心させるように華蓮の顔を舐める。その仕草が以前春雷の過去を知って、涙を流した華蓮に口付けた時と同じだったので、やはりこの黒犬は春雷なのだと確信する。

「怪我はないか?」
「大丈夫だよ。でも春雷の方がひどい……」
「これくらい平気だ。それより問題は……」

 春雷は華蓮から男性に視線を移すと、華蓮の腕からするりと抜けて庇うように前に出る。春雷の身体が青く光ったかと思うと、見慣れた人の姿に戻ったのだった。

「睡蓮と子供に手を出すなら容赦はしない。親父」
「えっ!? あの人、春雷のお父さんだったの!?」

 男性はーー春雷の父親は華蓮の問いに答えるように不愉快そうに鼻を鳴らす。

「この木偶の坊の親と言われたのは何年ぶりかな。数ヶ月前から雪起が慌しくお産の用意をしているから、てっきりまた孫でも産まれるのかと思っていたら……まさか木偶の坊の春雷の子供とはなっ!」
「親父、おれは……」
「言ったはずだ、春雷! 犬神と人間は結ばれない。おれたちは人間を不幸にすることしか出来ない。お前の母親が良い例だ! 悲劇を繰り返すな! それ故に人間と交わることを禁止したはずだ! 犬神の仕来りだかなんだか知らないが、人間の血を引く犬神は必要ない。即刻堕ろしてしまえ!」

 春雷の父親の言葉に華蓮の身体が大きく身震いする。
 人間の血を引く犬神は必要ない。
 つまりそれは、人間との間に産まれた春雷さえも否定する言葉だった。
 華蓮に背を向けている春雷が今どんな顔をしているのかは分からないが、内心では傷ついているに違いない。
 頭に血が上った華蓮は、その言葉に反論してしまう。

「そんな言い方はないでしょう!? 春雷だって貴方の子供よ!?」
「黙れ、人間! 人間が犬神に関わって幸せになれる訳がない! 犬神と関わった人間は不幸になる。『犬神憑き』となって死ぬまで苦しむことになるんだ。『犬神憑き』だけじゃない。『犬神使い』も犬神に人生を狂わされることになるんだ。お前の両親のように……」
「お父さんとお母さんを知っているの?」

 これまで華蓮の両親を知っている者はほとんどいなかった。両親は華蓮が物心つく前に他界したので何も覚えておらず、親戚や友人もいなければ、遺品らしいものも無かった。
 春雷と出会って、華蓮が「犬神使い」の血を引くと教えられるまで、華蓮は自分のことさえ何も知らずにいた。
 
「人間たちの時間で何十年も前、『犬神使い』の血を引く人間の娘が人間の男と共に早逝したと聞いた。幼い子供を残して……。残された子供は娘だと聞いたな」
「その子供って、まさか……」
「睡蓮!」

 頭の中が真っ白になって何も考えられなくなる。絶望や悲傷といった複数の感情が渦を巻いて身体を戦慄かせていると、春雷が身体を抱き寄せて何度も身体を摩ってくれたのだった。
 
「犬神と関わった人間は早死にする運命だ。不幸の中で苦しみ、もがき、犬神を恨みながら……。お前もそうなりたいか? 人間」
「……」
「嫌ならその子供は堕すことだな。我が家の恥晒しにはここで一人で暮らしていく方が……」
「……いで」
「睡蓮?」
「勝手に決めつけないでっ!」

 華蓮は叫ぶと、春雷の腕の中から春雷の父親をきつく睨み付ける。

「犬神と関わった人間は不幸になるって誰が決めたの!? 不幸になったのが、たまたま犬神と関わった人だっただけかもしれないじゃない! 私はっ……! 私は春雷と出会ってこんなにも幸せなのに……!」
「睡蓮……」

 華蓮の言葉に春雷は目を見張る。そんな二人を春雷の父親は冷淡な顔で見つめていたのだった。

「そこの春雷はな、妖力を失った時にもう二度と人間と関わらないと約束した。人間と交わって子を成すなど以ての外。もしそうならおれは止めなければならない。これ以上、誰かを不幸にする前に……」
「春雷は誰かを不幸にする存在じゃない! 犬神だってそう。自ら望んで不幸にするんじゃなくて、たまたまそうなっただけかもしれない。必ずしも犬神と関わったからって不幸になるとは限らないわ!」

 華蓮は口を尖らせると、ここぞとばかりに不満を溢す。
 
「勿論、最初は勝手に抱いた上に妊娠までさせられて嫌だったけど……。でも手紙をくれたり、かき氷を作ってくれたり、一緒に畑を歩いたりするのはとても幸せで、何より春雷の優しさが嬉しかったの!」

 少なくとも、あの日雨に濡れた華蓮に番傘を貸そうとしてくれた春雷に他意は無かった。華蓮を不幸にさせてやろうという考えは微塵も感じられなかった。
 ただ純粋に華蓮を心配して、風邪を引かないように気遣ってくれた。
 あの時、春雷が手を差し伸べてくれなければ、華蓮は途方もなく街を歩き、どこかで倒れていたかもしれない。