自然にとっての恵みの甘雨は二人にとってはただの冷雨だった。春雷が部屋の明かりを点けると、殺風景な暗い部屋の中が生活感のある明るい部屋に変わったのだった。
「この部屋って……」
「俺の部屋だ」
「春雷の?」
最低限の物しか置かれていないので物置きだと思っていたが、よくよく見ると部屋の隅には乱雑に布団が積まれ、わずかに開いた押し入れからは布地がはみ出していた。
なんとなく、春雷らしいと思ってしまう。
「じゃあこの鏡も春雷の物なんだね」
「ああ。これは親父が……俺の父親がくれたものなんだ。人間界の様子を映す鏡だと言って……。俺が母親の話をねだってばかりいたらくれたんだ」
「春雷のお父さんは犬神なんだよね。でもお母さんは人間なの?」
「俺の母親も君と同じ『犬神使い』の家系でな。親父が子供を産ませるために、人間界から攫ってきたんだ」
「攫って……!?」
「前も言ったが、犬神は不幸を招くことからあやかしの中でも嫌われている。雪起のように条件が合う犬神がいればいいが、いない時は君と同じ。子供を産んだら記憶を消して、全て元の状態に戻すことを条件に、人間界から『犬神使い』の血を引く女性を攫ってきていた。俺の母親もそうだった」
外に目を移すと、春雷は遠くを見つめながら話し続ける。
「母親には恋人がいたんだ。それなのに親父と関係を持って、俺を身ごもったことで半狂乱状態になった。俺の成長に比例するように母親の心身もおかしくなり、一時は俺の命さえ危なかったらしい」
「そんな……」
言葉を失ってしまうが、春雷は華蓮に視線を戻すと笑みを浮かべる。
「でも君はそんなこと無いな。俺に怒りを向けてくるどころか、腹の子を慈しんでくれさえいる。悲観に暮れてばかりいないのは心が強い証だ」
「そんなことないよ。だって最初は部屋から出て来なかったし……。私だって恋人がいたら春雷を恨んでいたかもしれない……」
もし華蓮が恋人に振られる前に春雷に攫われて、同じように妊娠したとしたら、それこそ春雷の母親と同じ状態になっていただろう。たまたま出会ったタイミングが良かったとしか思えない。
華蓮を買い被る春雷を否定するが、春雷は首を振る。
「部屋から出て来なかったのは体調が悪くて身動きが取れなかったからだろう。俺が君の立場でも同じことをした。それに……俺のことは嫌いじゃないんだろう?」
「それは……」
まだつわりが酷く、部屋に引きこもっていた時に部屋に来た黒犬に話した内容を、どうして春雷が知っているのだろう。犬神だけあって犬と会話でも出来るのだろうか。
「俺の母親は最後まで親父とまともな会話が出来ないまま、俺を産み落とした。親父はすぐにここでの記憶を消すと、母親の身体を元の状態に戻して人間界に帰した。親父もすぐに夫に先立たれた犬神の女性と結婚した。その人がお袋だ。お袋は俺のことを実の子供のように思ってくれたし、俺もお袋のことを実の母親だと思って慕っていた。だが……」
そこまで話すと春雷は大きく息を吐く。雨が降り出したことで気温が下がったのか、室内はどこか薄寒いように感じられたのだった。
「雪起を始めとする弟や妹たちが産まれたことで気づいてしまったんだ。俺と雪起たちが似ていないことに。どうして似てないのかしつこく親父に聞いた時に初めて知った。俺の母親が人間ってことも……」
やがて春雷の熱意に負けたのか、父親は母親のことや、子孫を残すために犬神たちが「犬神使い」の女性に子供を産ませる話をしてくれた。
そうして、春雷に人間界の様子を映す鏡をくれたのだった。
「真実を知って、人間界を映す鏡を貰った時に、俺は初めて実の母親の姿を見た。知らない人間の男と俺とよく似た小さな男児の三人で動物たちがたくさんいる場所にいた。人間界では動物園って呼ばれているところらしいな。とても幸せそうだった」
人間界と春雷たちあやかしが住むかくりよの時間の流れは違うそうで、人間界に戻った母親は付き合っていた恋人と結婚して、春雷の異父弟となる息子を産んだらしい。
春雷の存在や犬神のことを完全に忘れて、母親は笑っていた。
「俺と一緒に鏡を見ていた親父が漏らした言葉を今でも忘れられない。『あいつはあんな笑顔をしているんだな……』と。それくらいここでの母親は酷い状態だったらしい」
「それからどうしたの?」
「鏡を貰ってからは毎日飽きずに見ていた。その頃になると、お袋も俺より実の子供である雪起たちの方が良いみたいでな。俺のことはずっと放置していた。それを良いことに、一日中部屋にこもって鏡を見ていた。そんな毎日を過ごすようになって、しばらく経ったある日、俺は母親と父親違いの弟に直接会ったんだ」
「人間界に会いに行ったの?」
「いや、二人からこっちに来たんだ。交通事故に遭って、生死の境を彷徨ったことで」
二人が事故に遭った時、母親の息子は成長して大学生になっていた。自動車の運転免許証を取得して、母親を隣に乗せて山道をドライブをしていると、カーブを曲がり損ねて正面から来た大型トラックに接触した。
二人が乗った車はガードレールを突き破って、崖下へと転落したのであった。
「二人は見るからに大怪我を負っていた。いつ死者の魂が向かう場所――常世に行ってもおかしくなかった。鏡でその様子を見ていた俺はすぐに二人を助けに行こうとした。それを親父に阻まれた」
「お父さんが? どうして……」
「これ以上、母親に関わるべきではないと。犬神の俺と関わったことで母親は不幸になるかもしれない。そして俺自身も傷付くことになるからと……」
慌てる春雷の様子から異常を察した父親は春雷を止めるが、父親の言ってる意味が分からなかった春雷は父親の制止を振り切って二人の元に駆けつけた。
犬神の妖力を使って、自分の身体に流れる母親の血を縁として辿ることで、自分と同じ血が流れる二人を見つけた。
「俺が二人の魂を見つけた時、二人はもう少しで常世に足を踏み入れるところだった。俺は二人に声を掛けると人間界に続く道まで案内した。かくりよと人間界の境目まで。最初こそ二人は驚いていたが、俺にも好意的に接してくれた。感謝もしてくれたし、他愛のない話もしてくれた。この時だけは本当の家族に――母さんの息子になれたみたいで嬉しかった。けれども……」
今まで滔々と話していた春雷だったが、急に言葉を詰まらせたかと思うと、何かを堪えるように握った手に力を込める。
「俺が余計な一言を言ってしまったために、全て台無しにしてしまった」
「何を言ったの……?」
「別れる時につい口走ってしまったんだ。『母さん』と。そうしたら親父がかけた忘却の術が解けてしまった。母親は親父に攫われて俺を産んだことやここでの日々を思い出した。思い出した母親は俺に向かって叫んだんだ。『化け物!』……と」
つい数刻前まで優しかった母親は顔を真っ青にすると、春雷に向かって「化け物!」と吐き捨てた。
『今までよくも騙していたわね……。この化け物!! あっちに行きなさい!! 私の大切な息子に何をするつもり!?』
豹変した母親に春雷と息子が呆然としていると、母親は息子の手を引いて、脇目も振らずに人間界へと走り去った。
一度も振り返ることもなく、ただ春雷から逃げるように消えたのだった。
「二人の姿が見えなくなっても、根が生えたようにその場から動けなかった。そのまま立ち尽くしていると、かくりよの治安を守る獄卒がやって来て捕まったんだ」
「どうして捕まったの?」
「理由は二つ。獄卒の許可なしに常世に立ち入ろうとしたこと。勝手に人間の魂を人間界に帰したことだ。常世は俺たちあやかしも立ち入ることを許されていない。死者だけが住む国だ。俺たちも死んだら常世に行くと言われている」
全ての生き物は死んだ時に常世に行き、そこで輪廻転生の時を待つことになる。
生前に善行を積んだ分だけ早く次の生に転生するが、悪行ばかりしていた時や心残りがある時は、転生出来ずにいつまでも常世に留まることになるらしい。
「常世には常世の決まりごとがある。その中に常世に行こうとする人間を引き止めていけない決まりがある。俺はそれを破ってしまった。そして罰を受けたんだ。あやかしとしては自分の存在意義にも関わる大きな罰だ」
「どんな罰を受けたの?」
華蓮の言葉に春雷は一瞬躊躇ったように視線を彷徨わせたが、やがて
「妖力を……犬神としての力を奪われた。ほんの僅かな妖力は残っているが、今の俺はほとんど人間と変わらない」
「えっ……」
「心配しなくても、子供が産まれた後、君の身体を元に戻して、人間界に帰すことくらいなら出来る。記憶を消すこともな。庭の季節を変えるのと同じく簡単だ。いざというときは、雪起にも手伝ってもらうつもりだ」
「そうじゃなくて……。春雷はそれでいいの? 妖力が無くて辛くないの?」
「たまにもどかしく感じることがあるな。妖力があれば怪我の治りは早いし、老化も遅い。数年くらい飲まず食わずでも生きていられるが、妖力が無いとなかなか怪我は治らないし、すぐに老ける。人間と同じように毎日飲み食いしないと生きていけない。そのために畑を始めたようなものだが……」
自分で育てるのが難しい果物や米、肉や魚などは雪起が定期的に近くの村から買って届けてくれるらしい。卵は家の近くに鶏小屋があるそうで、毎朝産みたての卵を手に入れられるとのことだった。
「人間と同じような生活を送って大変なのに、もっと他のあやかしが多いところに住まないの? 自給自足の生活じゃなくて、それこそ利便性が良い街とか村に……」
「出来ないんだ。嫌われ者の犬神が街に住んでも、他のあやかしから迫害されて、居場所が無いだけだ。君は経験したことはあるか? 話しかけても無視をされて、どこにいても石を投げられる。店に行っても何も売ってもらえず、病院の診察さえ拒否されたことが」
華蓮は首を振る。人種や容姿、性別、出身地を理由にした差別の話を聞いたことはあるが、自分には全く関係無いと思っていた。
「それなら他の犬神はどこに住んでいるの?」
「犬神たちは街から離れた場所で村や集落を作って生活している。雪起や家族の家もこの近くの犬神の村にある。俺は立ち入ることすら許されていないから、どんな場所かほとんど知らないが……」
「どうして春雷は村に入れないの?」
「俺が罪を犯した犬神だから……妖力を奪われたあやかしもどきだからだ。この場所でさえ、何年か前にようやく見つけたんだ。それまでは俺のせいで住んでいた犬神の村を追われて、家族共々かくりよ中を彷徨ったんだ」
かくりよにおいて、妖力を持たないあやかしというのは罪人を示すらしい。そういったあやかしはあやかしたちのコミュニティに入ることさえ許されない。命尽きる時まで爪弾きにされ、孤独で生きなければならない。
それまでは後ろ指を指されながら、かくりよを転々として隠れ住み続けるか、安住の地を求めて人間界に渡るしかなかった。ただ人間界に行っても、今度はあやかしを祓う退魔師たちに命を狙われるので、生きづらいことに変わりはないらしい。
あやかしたちがやっていることも人間たちがやっていることと、何も変わりが無かった。
「獄卒から連絡を受けた父が迎えに来て家に帰ったが、小さな犬神の村では噂はあっという間に広まった。俺たち家族は村を追われて、別の犬神の村や集落に身を寄せた。正体を隠して大きな街に住んだこともある。でもほとんどは俺を理由に追い出された」
「家族はどうしたの? 怒らなかったの?」
「親父は呆れたのか何も言わなかった。妖力を失ったことで俺に興味が無くなったんだろう。村を出てからは最低限の話しかしなくなったからな。元から不仲のお袋には憎まれたし、存在を無視されるようになった。雪起以外の弟や妹たちはまだ幼かったから何も言わなかったが、成長するにつれて俺に原因があることに気がついた。雪起以外からは煙たがれるようになって、ここに住み始めてからは顔さえ出さなくなった。会わなくなってからしばらく経ったな」
春雷は割れた鏡に視線を移す。
「あの鏡はここに住み始めた時に、父が持って来てくれた。今までは親戚に預けていたと言って」
雪起や春雷の家族が住んでいる今の村は、春雷を村に立ち入らせないことを条件に他の家族が住むことを許してくれた。
その代わりとして春雷には当時荒れ放題だったこの家を与えた。元は春雷と同じように罪を犯して妖力を奪われたあやかしが住んでいたそうで、他の場所に移り住んでからは荒屋となっていたらしい。
明らかに住めるような状態では無かったが、それでも春雷は家族のために、一人で荒屋に住むことを決めた。雪起は反対したが、母親と他の弟妹は春雷を厄介払い出来るとして春雷に賛成したらしい。
そんな荒屋を春雷は何十年もかけて、今の綺麗な形にした。家を直し、畑を耕し、庭を造った。
妖力があれば簡単に出来ることでも、妖力が無い春雷は時間を掛けて少しずつ手を加えて入った。
人間のように地道に、日々積み重ねて……。
「久しぶりに見た母親はすっかり老けていた。丁度息子の結婚式の日だったようで、とても幸せそうな顔をしていた。俺のことや死にかけたことを忘れたように……」
実の母親に化け物と呼ばれ、咎人として妖力と住処を失い、あやかしどころか家族にさえ嫌われて、どこにも居場所が無い傷心の春雷。
そんな春雷とは対照的に、何事もなかったように息子の晴れの日を祝う母親と、愛する伴侶と共に新しい生活に向けて歩み始める幸せの絶頂にいる父親違いの弟。
事故に遭って死ぬ寸前だったことや、助けた春雷に感謝を忘れた二人だけが幸福を享受しようとしていた。
そんな二人の姿を遠くかくりよから見ていた春雷は、きっと悔しかったに違いない。
「母親の姿が消えて、ただの鏡に戻った時、映ったのは俺だった。自分の姿を見て、化け物と呼ばれた時を思い出した。人間の母親そっくりの顔をしていながらも、人間じゃなくて犬神の俺……。もし犬神じゃなくて人間として産まれていたら、俺を息子と呼んでくれたのか。母さんと呼んでも答えてくれたのか。俺を家族として抱きしめてくれたのだろうか。そんな考えばかり浮かんできたな。意味ないって分かっているのに……」
春雷は鼻を鳴らすと、過酷の自分を嘲笑する。
「苦しくなって、何もかもが嫌になった。もう母親の姿も自分の顔も見たくなかった。それで鏡を割ったんだ。それからは一度も母親の姿を見ていない」
犬神としての自分を春雷は誇りに思っていた。それが化け物と言われて存在を否定されてからは自信が無くなった。
望みもしないのに犬神の子供を生まされた母親から否定されただけではなく、妖力を失ったことで父親からも見放されてしまった。
春雷がいなければ、家族はかくりよを転々と移り住む必要は無かった。今も最初の村で幸せに暮らしていただろう。札付きとなった春雷はただのお荷物。家族の足枷だった。
両親に存在を否定され、周囲からも拒絶された時、子供は何を寄る辺にすればいいのだろう。
「妖力を失ってあやかしの仲間にも入れてもらえず、だからといって人間でもない。どこにも混ざれないはみ出し者だよ、俺は。……悪かったな。そんな俺の子供を産まされて。全部終わったら、必ず無かったことにする。この話しも……」
「な、んで……なんでそんな平気そうな顔をするの……。怒っていいんだよ!? 泣いたっていいんだよ!? 春雷は……春雷は悪くないのに……。お母さんと弟を助けただけなのに、なんで……。なんで一人でこんな思いをしなきゃいけないの……!」
華蓮の目に涙が溜まる。母親や家族のことを話している時の春雷はどこか諦めているようにも、冷めているようにも見えた。それでもどこか哀愁漂うのは何故だろう。
春雷は自分の過去を悲観することも、恨むことも、同情を求めることもなかった。ただ過ぎたことを淡々と話すだけ。それなのに外を見ながら話す横顔には寂寥感が滲んでいた。
それはきっと――。
(寂しいんだ。誰にも受け入れてもらえなくて、ずっと一人で暮らしていて、孤独を感じているんだ)
「久しぶりに見た母親はすっかり老けていた。丁度息子の結婚式の日だったようで、とても幸せそうな顔をしていた。俺のことや死にかけたことを忘れたように……」
実の母親に化け物と呼ばれ、咎人として妖力と住処を失い、あやかしどころか家族にさえ嫌われて、どこにも居場所が無い傷心の春雷。
そんな春雷とは対照的に、何事もなかったように息子の晴れの日を祝う母親と、愛する伴侶と共に新しい生活に向けて歩み始める幸せの絶頂にいる父親違いの弟。
事故に遭って死ぬ寸前だったことや、助けた春雷に感謝を忘れた二人だけが幸福を享受しようとしていた。
そんな二人の姿を遠くかくりよから見ていた春雷は、きっと悔しかったに違いない。
「母親の姿が消えて、ただの鏡に戻った時、映ったのは俺だった。自分の姿を見て、化け物と呼ばれた時を思い出した。人間の母親そっくりの顔をしていながらも、人間じゃなくて犬神の俺……。もし犬神じゃなくて人間として産まれていたら、俺を息子と呼んでくれたのか。母さんと呼んでも答えてくれたのか。俺を家族として抱きしめてくれたのだろうか。そんな考えばかり浮かんできたな。意味ないって分かっているのに……」
春雷は鼻を鳴らす。きっと過酷な状況に置かれた自分を嘲笑したのだろう。
「苦しくなって、何もかもが嫌になった。もう母親の姿も自分の顔も見たくなかった。それで鏡を割ったんだ。それからは一度も母親の姿を見ていない」
それまで犬神としての自分を春雷は誇りに思っていた。それが化け物と言われて存在を否定されてからは自信が無くなった。
望みもしないのに犬神の子供を生まされた母親から否定されただけではなく、妖力を失ったことで父親からも見放されてしまった。
春雷がいなければ、家族はかくりよを転々と移り住む必要は無かった。今も最初の村で幸せに暮らしていただろう。札付きとなった春雷はただのお荷物。家族の足枷だった。
両親に存在を否定され、周囲からも拒絶された時、何を寄る辺にすればいいのだろう。
「妖力を失ってあやかしの仲間にも入れてもらえず、だからといって人間でもない。どこにも混ざれないはみ出し者だよ、俺は。……悪かったな。そんな俺の子供を産まされて。全部終わったら、必ず無かったことにする。この話しも……」
「な、んで……なんでそんな平気そうな顔をするの……。怒っていいんだよ!? 泣いたっていいんだよ!? 春雷は……春雷は悪くないのに……。お母さんと弟を助けただけなのに、なんで……。なんで一人でこんな思いをしなきゃいけないの……!」
華蓮の目に涙が溜まる。母親や家族のことを話している時の春雷はどこか諦めているようにも、冷めているようにも見えた。それでもどこか哀愁漂うのは何故だろう。
春雷は自分の過去を悲観することも、恨むことも、同情を求めることもなかった。ただ過ぎたことを淡々と話すだけ。それなのに外を見ながら話す横顔には寂寥感が滲んでいた。
それはきっと――。
(寂しいんだ。誰にも受け入れてもらえなくて、ずっと一人で暮らしていて、孤独を感じているんだ)
人は集団の中でより孤独を感じると言われている。
春雷が完全な一人だったら孤独を感じなかっただろう。けれども近くに村があって、営みを感じられる場所があった。
春雷が世捨て人のような生活を送っていたとしても、幸せそうな雪起や村人たちの姿を見てしまえば、自分の置かれた状況と比較せざるを得ない。
身近に集団があるのに、仲間に入れてもらえないというのは、手が届きそうな場所にあるのに届かないのと同じくらいもどかしい。
しかもそれが偶然ではなく、負い目や罪悪感などの弱味につけ込んで意図的にしていると分かっているからこそ、やるせなさを感じてしまう。
もしかすると妖力を失ったあやかしにこの家を与えているのは、善意ではなく悪意からかもしれない。春雷に孤独を感じさせることで、罪を犯した自分の存在に苦しみ、自らここを去るように仕向けた罠なのかもしれなかった。
「睡蓮。君が悲しむことは無いんだ。怒ることも」
「でも……」
「それにこれからは一人じゃなくなる。俺の子供を産んでくれるんだろう? 子育てに専念すれば気も紛れるし、何も考えなくていい。自分の子供のことだけ考えればいいからな……」
「一人で出来るの?」
「それはやってみないことには……。誰にでも始めてはあるものさ。最初は上手く行かなくても徐々に良くなっていくだろう。心配しなくていい。だからもう泣くな」
ポロポロと涙を溢す華蓮の涙を拭おうとしたのか春雷は手を伸ばしたが、手が土や泥で汚れていることに気付いて手を引っ込めてしまう。その代わりに春雷は顔を近づけると、華蓮の目尻に口を付けて涙を吸い取ったのだった。
「頼むからもう泣かないでくれ……。縁があるからか、俺の子供を身ごもっているから、どちらにしろ君の感情が大きく乱れると俺まで感情が不安定になるんだ……。君が泣いている姿を見ていると、俺まで悲しくなってくるんだ……」
衝撃で涙が止まっていた華蓮だったが、自分の胸を押さえながら顔を歪める春雷の姿に再び涙が込み上げてくる。
そんな涙を隠すように華蓮は自ら春雷に近くと、大きな胸元に縋り付いたのだった。
「春雷。私……私っ、絶対春雷の子供を産むからっ! そうしたらもう寂しくないよね?」
華蓮の行動に驚いたのか春雷は戸惑っていたようだったが、やがてそっと身を寄せたのだった。
「そうだな……きっと……」
春雷の背中に腕を回すと、華蓮は静かに涙を流す。汗を掻いたと言って気にしていたものの、春雷からは黒犬と同じ瑞々しい睡蓮の香りしかしなかった。
「あまり強く抱きつくと、腹の子に負担が掛かるぞ」
「そう思うなら、春雷から離せばいいじゃない」
「離せるわけないだろう。……こうして誰かに抱きしめられたことは、今まで無いんだからさ」
やがて春雷は華蓮の顔に残っていた涙を掬ってしまうと、どこか言いづらそうに話し出したのだった。
「その……汚れてしまうかもしれないが、腹に触れてもいいか。その……子供に」
「うん。触って」
華蓮が頷くと、春雷は恐る恐る大きく膨らんだ華蓮の腹に触れる。始めは壊れ物を扱うように触っていたが、やがて愛おしむように撫でると頬を寄せたのだった。
「温かいな」
穏やかな表情をして腹に身を寄せる春雷の姿が、何故か黒犬と重なる。黒犬と春雷が同じ香りを纏っているからなのか、それとも二人が同じ表情をしているように見えるからなのか。いずれにしても、最初に比べて春雷に対する恐怖や不信感が消えたのは確かだった。
今ではお腹の子と同じくらい春雷を愛おしく感じる自分がいる。
(でも、春雷とは……)
子供が産まれたら春雷とは縁が切れてしまう。縁が存在しない以上、二人は別れなければならない。華蓮は人間で、春雷はあやかし。住む世界さえ違う。人間は人間の世界で、あやかしはあやかしの世界で住むのが一番良い。
それに春雷は自分の置かれた事情に華蓮を巻き込むつもりは無いだろう。優しい彼は自分が原因で華蓮が傷付き、苦しみ、苦労する姿を見たくないだろうから……。
そんなことを考えていると、内側から身体を蹴られたように感じて顔を上げる。春雷も気づいたのか、頬を離して瞬きを繰り返すと、華蓮と目を合わせたのだった。
「睡蓮。今のは……」
「春雷も感じた!? 今、お腹蹴ったよね!?」
二人は華蓮のお腹に意識を傾けると、また内側から蹴られる。先程よりは小さかったものの、それでも自分の存在を主張するように華蓮のお腹を蹴る我が子に頬を緩ませたのだった。
「この子も早く会いたいって」
「ああ。俺も早く会いたいよ」
愛おしむようにお腹を撫でる春雷と華蓮の手が重なる。黒土で汚れた手を春雷は引っ込めようとするが、それより先に華蓮が春雷の手を掴む。春雷に心を許したからか、今度は電流が流れなかった。離せと言われる前に手を握ってしまうと華蓮は話し出す。
「春雷はどんな子に育って欲しいとか、男の子と女の子のどっちが良いとか、希望はある?」
「男でも女でも元気に産まれてきてくれれば……自分のなりたいように育ってくれればいい。子供には俺のような思いをさせたくないんだ。寂しいとか、悲しいとか」
「春雷は良いお父さんになるね」
華蓮が庭を振り返ると、いつの間にか雨が晴れて空には虹が架かっていた。
春雷も外の様子に気づいたのか、ゆっくり立ち上がると華蓮に手を貸してくれたのだった。
「いつまでも辛気臭い顔をして暗い部屋に詰めていないで畑に戻るとするか。睡蓮はどうする? 部屋に戻るのか?」
「私、春雷のためにタオルと飲み物を取りに行こうとしたの。汗を掻いたと言っていたし、一休みするかなと思って」
華蓮の言葉に春雷は驚いたような顔をすると、みるみる内に顔を赤く染める。そして目を逸らしながらも、「そうだな」と同意したのだった。
「やりたいことは一通り終わったし、もう少し休んでもいいか……。睡蓮も一緒にどうだ?」
「いいの?」
「ああ。俺の話はしたし、今度は睡蓮の話が聞きたい。身体の調子や人間界の話を」
「そんなことが聞きたいの?」
「人間界はたまに出入りするが、様変わりするのが早くてついていけなくてな……。前から聞いてみたいと思っていたんだ。秋に穴を開けた南瓜を飾っていたかと思うと、今度は緑の葉が茂る木に飾りつけをするだろう。あれは何だ。門松や笹飾りとは違うようだが……」
「ハロウィンかぼちゃとクリスマスツリーも知らないの? クリスマスケーキやローストチキンも?」
「ケーキは知っている。雪起がたまに作って持ってくるからな。その『ろーすとちきん』というものは知らないな。どういうものなんだ?」
春雷の手を掴んだまま二人は部屋を出る。春雷を怖がり、避けるようにして部屋にこもっていた最初の頃が嘘のようだった。
足元が覚束なくてわずかな段差に躓きそうになれば、春雷が手を引いて肩を支えてくれる。華蓮を振った彼氏は、華蓮がどんなに大荷物を持っていても、気に掛けてくれなかった。
華蓮のことを気丈だと思っていたのか、それとも弱音を吐かなかったからか。どんなことでも華蓮から頼まない限り、彼氏は何もしてくれなかった。
それに対して些細なことでも華蓮を大切に想ってくれる春雷の気遣いが、今はとても心地良い。
(そんなお父さんの元に生まれるなんて、この子は幸せ者だね)
お腹に触れると自然と笑みを浮かべてしまう。母親としての自覚が出てきたのかもしれない。
妊娠が判明したばかりの頃は、早く子供を産んで元の世界に戻りたかったというのに……。
しばらくして外出していた雪起が戻って来るまで、二人は縁側から虹を眺めながら身を寄せ合って人間界の話をしたのだった。
春雷や雪起たちと過ごす日々があっという間に過ぎると臨月がやって来た。その頃になると胃はスッキリして身体の負担も減ったが、いつやって来るか分からない初めての出産に緊張するようになった。
気を紛らわせようと、華蓮の出産の準備で家と村を往復している雪起に何度か手伝いを申し出たが、いずれもやんわりと断られてしまった。仕方なく部屋で時間を過ごし、庭を散歩をしても、やはり落ち着かなくて一日中気もそぞろだった。
それは春雷も同じようで、頻繁に華蓮の元に来ては身体の調子を聞いてくるようになった。そして華蓮の気が落ち着かないことを知ると、少しでも気が紛れるように話し相手にもなってくれたのだった。
そんな日を過ごしていたある日のこと、この日は朝から暗雲が空に立ち込めていた。いつ雨が降ってきてもおかしくない黒い雲に、なんとなく華蓮は不安を覚えたのだった。
そんな日に春雷と雪起は揃って外出するというので、華蓮は玄関で見送っていた。
「こんな時に一人にするのは気掛かりだが……すぐ戻る」
「うん。大丈夫。春雷たちも気をつけてね」
「ごめんね。わたしが兄さんみたいに足が速くて力持ちなら、こんなことにはならなかったのに……」
「いいんだ。雪起には他に特技があるだろう。荷物持ち、頼んだぞ」
項垂れる雪起とそんな雪起の頭を乱暴に撫でる春雷を見ていると、本当に二人は家族なのだと感じられる。
二人はこれから離れたところに住む犬神の産婆を連れて来ることになっていた。いつ華蓮がお産に入ってもいいように、この家に泊まってもらうとのことだった。
雪起が住む村にも産婆は住んでいるらしいが、春雷は村に入れず、代わりに雪起が頼んでも春雷の子供だと分かった途端に断固として拒否されたらしい。そこで春雷は近隣の村に住む他の産婆たちに頼み込み、唯一引き受けてくれた産婆に華蓮のお産を依頼したとのことだった。
雪起によると、華蓮の妊娠が判明した時から春雷は夜遅くまで、あちこちの村の産婆に頼みに行っていたらしい。時には罵声を浴びせられ、水を掛けられながらも、華蓮のために産婆を見つけてきてくれたという。
春雷は何も言わなかったが、雪起は「兄さんは恥ずかしがると思うから、内緒にしていてね」と言ってこっそり教えてくれた。華蓮が部屋にこもっていた頃に春雷が部屋に来なかった理由が分かった判明、身ごもった時からずっと陰ながらも華蓮のために力を尽くしてくれた春雷に心から感謝した。
彼のためにも元気な子供を産むたいと、ますます思ったのだった。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
足早に家を出る春雷と大きく手を振る雪起に華蓮も手を振り返す。二人の姿が見えなくなると、どこか物寂しさを感じてしまう。
(四ヶ月しか暮らしていないのに、ここでの生活にすっかり馴染んだからかな。早く帰って来てくれるといいんだけど……)
もうここに来た時のように早く人間界に戻らないと思わない。彼氏に対する未練も無かった。それどころか春雷たちと一緒に居る時が、一番ありのままの華蓮でいられた。
養父母と住んでいる時は二人の顔色を伺い、彼氏といる時も嫌われないように必死になっていた。けれども春雷たちと過ごしている時は気兼ねすることもなく、自分が思っていることや考えていることを素直に話せた。
春雷も雪起もそんな華蓮を否定することも、嘲笑することも無かった。華蓮自身を受け入れてくれたのだった。
(でも子供が産まれたら、春雷たちとはお別れなんだよね。春雷との縁が切れてしまうから……)
今の春雷との関係はあくまで子供が産まれるまでの仮初めの関係。つまり子供が産まれるということは、春雷たちとの別れを意味する。それが今はとても寂しく、辛く感じられる。
犬神である春雷たちとの生活は彼氏と住んでいた時よりも肩の力を抜いて心穏やかに過ごせた。当然生活様式が元の世界とは違うので、戸惑うことや不便に感じることもあったが、それ以上に春雷と過ごす時間がとても幸せで温かかった。
春雷と本当の家族になれたら、きっともっと幸福になれるだろうと思ってしまうくらいに……。
そうやって春雷のことばかり考えていたからか、自然と足は春雷が大切に育てている畑に来てしまった。春雷によると、夏野菜はまだまだ実っており、もう少し収穫したら今度は来年の春に向けて準備を始めるとのことだった。
その話を聞いた時に春雷から好きな春野菜を聞かれたので、咄嗟に「イチゴ」と答えてしまったものの、その時には華蓮はいないので春雷はどうするつもりなのだろう。
(春雷が作る野菜、もう少し食べてみたかったな……)
縁側に座って、畑を眺めながら溜め息をつく。
ようやく食欲が戻ってきて妊娠前に近い量が食べられるようになったというのに、春雷が育てた野菜をほとんど食べていない。もう少し身体が楽になれば、自分で料理を作って春雷に食べてもらいたいし、春雷を手伝って畑仕事もしたい。
家の外に出て山を散策しながら、茸や山菜も収穫したい。他のあやかしや春雷たち以外の犬神にも会ってみたい――。
その時、裏庭に人影が現れたので、華蓮は弾かれたように顔を上げる。
「ど、どなたですか!?」
その人は犬のような耳と尻尾を生やした年配の男性だった。見るからに犬神と思しき男性は不快そうに顔を歪めて畑を見ていたが、そこでようやく華蓮に気づいたというように視線を向けてきたのだった。
「君はこの家の住民か?」
「そ、そうですが……」
男性は幾らか白いものが混じった長い黒髪に、くたびれた藍色の着流しを身につけていたが、華蓮を凝視する灰色の目には鋭さがあった。
どことなく男性の雰囲気が春雷に似ているような気がして、華蓮は身を縮ませながらも目を逸らせずにいた。
「身重か。父親は誰だ?」
「春雷です。この家に住む犬神の……」
「あの木偶の坊だと!?」
春雷の名前を出した途端に男性が怒鳴ったので、反射的に両腕でお腹を庇ってしまう。
男性はそんな華蓮の様子を気にすることもなく、大股で近づいてくると、汚いものを見たかのように眉を顰める。
「人間臭いな。どこのあやかしだ?」
「あやかしじゃありません。人間です……」
「人間!? 人間だというのか!?」
男性が憤怒に満ちた目を見開いた瞬間、華蓮の首が乱暴に掴まれる。あまりに一瞬の出来事に驚き、戸惑う間もなく、男性は首を掴む手に力を込めると華蓮の首を締め上げたのだった。
「うぐっ……」
首を掴む男性の手から黄色の電流が溢れて辺りを舞う。
すぐに息が苦しくなって男性の手を引き剥がそうとするも、身体付きの良い男性に太刀打ち出来るはずがなかった。華蓮は身体を動かしてどうにか男性から逃れようとするが、壁に背中をぶつけてしまう。そのまま追い詰められてしまうと、男性は掌に込める力を強くしたのだった。
「しゅん、らい……しゅんらい……。たすけっ、しゅんらい……!」
目に涙を溜めながら、白くなっていく視界の中で無我夢中で名前を呼ぶ。こんな蚊の鳴くような声で名前を呼んでも、出掛けた春雷に聞こえるはずがない。頭ではそう分かっていても、華蓮は春雷の名前を繰り返した。
やがて身体に酸素が回らなくなって、意識が沈んでいきそうになった時だった。遠くから黒い塊が飛んで来たかと思うと、華蓮の腕を掴む男性の腕に噛み付いたのだった。
「ごほっ……ごほっ……、げほっ……!」
その場に座り込んで咳き込む華蓮の目の前では、男性の腕に牙を立てて食らい付く黒犬とそんな黒犬を引き離そうと腕を大きく振る男性の姿があった。
「離せ! 離せ! この木偶の坊! 出来損ないの我が家の恥め!」
男性は声を荒げながら黒犬を柱に叩きつけるが、黒犬はしっかりと噛み付いたまま腕から離れなかった。喉を押さえながら息を整えていた華蓮は、次に続いた男性の言葉に驚愕したのだった。
「この期に及んでまだ恥を晒す気か!? 人間を攫って子を産ませるなど、おれとの約束を忘れたのか、春雷っ!!」
「えっ……春雷?」
まだ掠れてはいたものの、華蓮の言葉に黒犬が反応したような気がした。男性は黒犬の頭を乱暴に掴むと掌から黄色の電気を放つ。黒毛が逆立つと同時に黒犬姿の春雷が苦悶の声を上げたのだった。
「春雷!!」
男性が腕を大きく払うと、春雷は腕から離れて庭に飛んで行く。大切に育てていた畑の野菜を薙ぎ倒しながら、春雷は畑の中に落ちたのだった。
華蓮もお腹を庇いながら庭に降りると、白い足袋を土や泥で汚しながら春雷に駆け寄ったのだった。
「春雷!! 春雷っ!! しっかりして、春雷っ!!」
黒犬姿の春雷を抱き上げると、華蓮は繰り返し名前を呼ぶ。焦げた臭いが鼻をつき、涙で視界が霞んでくる。やがて春雷は目を開けると、頭を上げたのだった。
「すい……れん……」
「春雷!! 良かった……」
華蓮が春雷を抱きしめると、春雷は安心させるように華蓮の顔を舐める。その仕草が以前春雷の過去を知って、涙を流した華蓮に口付けた時と同じだったので、やはりこの黒犬は春雷なのだと確信する。
「怪我はないか?」
「大丈夫だよ。でも春雷の方がひどい……」
「これくらい平気だ。それより問題は……」
春雷は華蓮から男性に視線を移すと、華蓮の腕からするりと抜けて庇うように前に出る。春雷の身体が青く光ったかと思うと、見慣れた人の姿に戻ったのだった。
「睡蓮と子供に手を出すなら容赦はしない。親父」
「えっ!? あの人、春雷のお父さんだったの!?」
男性はーー春雷の父親は華蓮の問いに答えるように不愉快そうに鼻を鳴らす。
「この木偶の坊の親と言われたのは何年ぶりかな。数ヶ月前から雪起が慌しくお産の用意をしているから、てっきりまた孫でも産まれるのかと思っていたら……まさか木偶の坊の春雷の子供とはなっ!」
「親父、おれは……」
「言ったはずだ、春雷! 犬神と人間は結ばれない。おれたちは人間を不幸にすることしか出来ない。お前の母親が良い例だ! 悲劇を繰り返すな! それ故に人間と交わることを禁止したはずだ! 犬神の仕来りだかなんだか知らないが、人間の血を引く犬神は必要ない。即刻堕ろしてしまえ!」
春雷の父親の言葉に華蓮の身体が大きく身震いする。
人間の血を引く犬神は必要ない。
つまりそれは、人間との間に産まれた春雷さえも否定する言葉だった。
華蓮に背を向けている春雷が今どんな顔をしているのかは分からないが、内心では傷ついているに違いない。
頭に血が上った華蓮は、その言葉に反論してしまう。
「そんな言い方はないでしょう!? 春雷だって貴方の子供よ!?」
「黙れ、人間! 人間が犬神に関わって幸せになれる訳がない! 犬神と関わった人間は不幸になる。『犬神憑き』となって死ぬまで苦しむことになるんだ。『犬神憑き』だけじゃない。『犬神使い』も犬神に人生を狂わされることになるんだ。お前の両親のように……」
「お父さんとお母さんを知っているの?」
これまで華蓮の両親を知っている者はほとんどいなかった。両親は華蓮が物心つく前に他界したので何も覚えておらず、親戚や友人もいなければ、遺品らしいものも無かった。
春雷と出会って、華蓮が「犬神使い」の血を引くと教えられるまで、華蓮は自分のことさえ何も知らずにいた。
「人間たちの時間で何十年も前、『犬神使い』の血を引く人間の娘が人間の男と共に早逝したと聞いた。幼い子供を残して……。残された子供は娘だと聞いたな」
「その子供って、まさか……」
「睡蓮!」
頭の中が真っ白になって何も考えられなくなる。絶望や悲傷といった複数の感情が渦を巻いて身体を戦慄かせていると、春雷が身体を抱き寄せて何度も身体を摩ってくれたのだった。
「犬神と関わった人間は早死にする運命だ。不幸の中で苦しみ、もがき、犬神を恨みながら……。お前もそうなりたいか? 人間」
「……」
「嫌ならその子供は堕すことだな。我が家の恥晒しにはここで一人で暮らしていく方が……」
「……いで」
「睡蓮?」
「勝手に決めつけないでっ!」
華蓮は叫ぶと、春雷の腕の中から春雷の父親をきつく睨み付ける。
「犬神と関わった人間は不幸になるって誰が決めたの!? 不幸になったのが、たまたま犬神と関わった人だっただけかもしれないじゃない! 私はっ……! 私は春雷と出会ってこんなにも幸せなのに……!」
「睡蓮……」
華蓮の言葉に春雷は目を見張る。そんな二人を春雷の父親は冷淡な顔で見つめていたのだった。
「そこの春雷はな、妖力を失った時にもう二度と人間と関わらないと約束した。人間と交わって子を成すなど以ての外。もしそうならおれは止めなければならない。これ以上、誰かを不幸にする前に……」
「春雷は誰かを不幸にする存在じゃない! 犬神だってそう。自ら望んで不幸にするんじゃなくて、たまたまそうなっただけかもしれない。必ずしも犬神と関わったからって不幸になるとは限らないわ!」
華蓮は口を尖らせると、ここぞとばかりに不満を溢す。
「勿論、最初は勝手に抱いた上に妊娠までさせられて嫌だったけど……。でも手紙をくれたり、かき氷を作ってくれたり、一緒に畑を歩いたりするのはとても幸せで、何より春雷の優しさが嬉しかったの!」
少なくとも、あの日雨に濡れた華蓮に番傘を貸そうとしてくれた春雷に他意は無かった。華蓮を不幸にさせてやろうという考えは微塵も感じられなかった。
ただ純粋に華蓮を心配して、風邪を引かないように気遣ってくれた。
あの時、春雷が手を差し伸べてくれなければ、華蓮は途方もなく街を歩き、どこかで倒れていたかもしれない。
「子供を産んでも私は春雷と一緒に生きていきたい。簡単なことじゃないかもしれないけれど、春雷とお腹にいるこの子のためなら、そんな困難も乗り越えられそうな気がするの。私は春雷とお腹の子が好きだから」
春雷を見つめると、心なしか春雷の頬が赤く染まっているように見えなくもなかった。
「……れも」
「えっ……?」
「俺も睡蓮と……俺たちの子供が好きだ」
「春雷……!」
華蓮は顔を輝かせると自ら春雷に身を寄せる。黒犬と同じ瑞々しい香りが心地良いのに加えて、自分の気持ちを正直に口にしたことで心は清々しいまでに澄み切っていた。
そんな華蓮を支える春雷も優しく、身体を抱き寄せる腕にそっと力を込めたのだった。
「睡蓮。俺はな君に対して罪悪感しかなかった。いくら君が『犬神使い』だからといって、君の同意なしに抱いて、妊娠させてしまったことに責任を感じていた。そんなつもりであの時、声を掛けた訳じゃ無かったんだ。ただ君があまりにも辛く、苦しそうだったから放っておけなかっただけで……」
「うん。大丈夫。分かってるよ。春雷は優しい人だから、お父さんと約束していても、そのままにしておけなかったんだよね」
「後は君と同じだ。君と同じ時間を過ごす中で、君の存在が大きくなった。自分が妖力の無いあやかしで、この地でこの身が朽ちるのを待つだけの存在だったことも忘れられた。そんな君の血を引く子供には君に似て思いやりがある子に育って欲しいと思ったんだ。勿論、そうなるように育てるのは俺だが……」
春雷は華蓮のお腹をそっと撫でる。春雷の大きな掌に触れられると不思議と安心する。
それだけ華蓮の中で春雷の存在が大きくなっているということだろう。
「こいつが生まれたら、母親である睡蓮の話を沢山聞かせるんだ。俺の部屋にあるあの鏡で、君の姿を見せながら。母親が恋しくて泣き出した時は代わりに側にいて、気が済むまで睡蓮の話をする。お前の母親は人間だったが、お前のことを心底愛していたんだと教えて、寂しさを感じさせないようにする。俺と同じ思いは決してさせない」
春雷の部屋にあった人間界を映すという鏡を思い浮かべる。これまでは春雷の母親を映していたが、これからは華蓮の姿が映るようになるのだろう。
華蓮の知らないところで、恥ずかしい姿や年老いた姿を見られるのかもしれないと考えると、嬉しいような恥ずかしいような、こそばゆい気持ちになる。
「君はここであったことを忘れてしまうし、人間である君は俺たちあやかしよりも早く旅立つだろう。それでも君と過ごした記憶はいつまでも残って、語り継がれることになる。君に恋した思い出と共に……。姿は無くても、君という存在はいつまでもここに残り続けるんだ。それだけで俺は幸せだよ。思い出を共有する相手も増えるからな」
短命の人間と長命のあやかしは生きている時間が違う。一時でも同じ時間を過ごせたのは奇跡に等しい。
同じ時間を過ごせず、いずれは人間が先に土に還ってしまうが、思い出だけは永遠に残る。
言葉を交わし、想いを共有して、ふたりの間で積み重ねた日々の思い出だけは、いつまでも色褪せずに存在し続けるだろう。
誰かが語り、記憶に残り続ければ、人間とあやかしはずっと一緒にいられるのかもしれない。
心だけはいつまでも側にいられるのかもしれない――。
華蓮はそんな期待を抱いてしまうのだった。
「やっぱり、春雷は素敵なお父さんになるね」
「君も良い母親になれるな。君に想ってもらえる男は幸せ者だな」
目尻に残っていた涙を春雷の指先に拭ってもらうと、気恥ずかしさで笑ってしまう。
そんな二人を今まで黙って眺めていた春雷の父親は嘲笑したのだった。
「馬鹿な。それならその想いがどこまで本当か試してやる」
空から雷の音が聞こえてきたかと思うと、春雷の父親は掌に光が集まっていく。
春雷は華蓮の手を引いてその場から逃げようとするが身重の華蓮はすぐに動けず、加えて柔らかい畑の土に足を取られて時間が掛かってしまう。
もつれそうになる足を動かして、どうにか距離を取ろうとしている間も、春雷の父親の頭上では雷が鳴り続け、掌には電流を帯びた黄色い球が形成されたのだった。
「止めろ、親父! 罰するなら俺だけにしてくれ!」
春雷の叫びを無視して、春雷の父親は雷の球がサッカーボールほどの大きさになると、華蓮に向けて放ってきたのだった。
「睡蓮!」
「ダメっ! 春雷!!」
春雷が雷の球から庇ってくれるが、満身創痍の春雷が受けたら、今度こそ無事では済まないだろう。華蓮は春雷の脇をすり抜けて二人の間に出ると、自ら雷の球に向かって行く。彼の子を守るようにお腹を腕で防ぐと、身体を横に向けて少しでも衝撃を和らげようとする。
(自分はどうなってもいい。でも春雷とお腹の子は傷付けさせない!)
今度こそ春雷には幸せになって欲しい。これから産まれてくる春雷の子供にも……。
そのためなら自分の命は惜しくなかった。
「睡蓮!!」
春雷の悲痛な叫びが華蓮の心に深く刺さる。
華蓮の視界が真っ白に染まり、覚悟を決めて目を瞑ろうとした時、華蓮の身体から水色の光が放たれたのだった。
「えっ……」
水色の光の筋を辿ると、光は華蓮の膨らんだお腹――春雷との子供から放たれているようだった。
(もしかして、お腹の子が両親を守ろうとしてくれてるの?)
水色の光は雷の球に当たるとわずかに球の軌道を逸らしたようで、真っ直ぐ飛んできていた球は華蓮たちの横を通り過ぎて後ろの木に当たった。
枝葉が音を立てて揺れている中、華蓮の膝から力が抜けてその場に倒れそうになると、すかさず春雷が駆け寄って支えてくれたのだった。
「睡蓮! 無事か!?」
「うん。お腹の子が守ってくれたみたい……」
春雷を安心させようと笑みを浮かべた時、下半身に違和感を覚える。裾から足を出せば、華蓮の足を水が伝い落ちていた。
華蓮にも分かった。今の衝撃で破水してしまったのだと。
「睡蓮?」
華蓮が真っ青になったまま固まったからか、春雷も異常に気づくと華蓮の足元に目線を向ける。
同じように破水したことに気づくと、華蓮を支える腕に力を込めたのだった。
「睡蓮。しっかりしろ。すぐに雪起が産婆を連れて来る。それまで中に戻って安静にしていよう……!」
「春雷、私……」
「何も心配しなくていい。俺たちの子供は強い子だ。無事に産まれる。俺も側にいるからな!」
「手を握っていてくれる……?」
「ああっ!」
小刻みに震える手を差し出すと、春雷の大きな手が握ってくれる。それでもわずかに手の震えが感じられるのは、余程華蓮の手が震えているのか、それとも春雷も緊張しているのか。
華蓮が力一杯手を握り返したところで、雪起の声が近づいて来たのだった。
「兄さん、どうしたの? 急に走り出したかと思うとわたしや産婆さんを置き去りにして……。睡蓮と……どうして父さんまでいるの!?」
「雪起! 睡蓮が破水した。すぐにお産の用意に入ってくれ!」
「ええっ!?」
庭に顔を出した雪起だったが、春雷に急かされるとすぐに戻って行く。おそらく産婆に声を掛けに行ったのだろう。
華蓮も春雷に支えられながら、慎重に家に向かう。いつの間にか春雷の父親は姿を消しており、雷の球が当たって焦げた木だけが一連の出来事が現実であったことを表していたのであった。
破水から数時間後、とうとう陣痛が始まると、家中に華蓮の呻き声が響いた。
そして厚い雲の切れ目から見え隠れする朧月が天の中心に昇った頃、呱呱の声が春雷の家を包んだのだった。
人生初の出産から数時間が経った頃、華蓮は布団で横になったまま庭を眺めていた。
出産直後は子供が産まれた感動や身体が疲れ切っていたこともあって、しばらく呆然としていた。
産婆や春雷たちが産まれたばかりの子供を診ている間に疲労から少し眠ったつもりだったが、いつの間にか熟睡していたらしい。目を覚ますと明かりが消された薄暗い部屋には誰もいなかった。
身体を動かす気力まではまだ回復していないので、池の周りを飛ぶ蛍を目で追い、鈴虫の鳴き声を聞いている内に、ようやく実感が湧いてきたのだった。
(春雷と私の赤ちゃん、産まれたんだ。私、産んだんだ。春雷の子供を……)
目を閉じれば、初めて聞いた我が子の産声が耳の奥から聞こえてくる。
これまでもテレビや映画などで何度か出産シーンを見てきたが、実際に自分が苦労して産んだ我が子の産声はそんなテレビや映画以上の感動と歓喜で胸が溢れそうになった。
それは出産の間、ずっと華蓮の手を握ってくれていた春雷も同じだったようで、産婆が取り上げた我が子の姿に目を潤ませたまま言葉を失っていたのだった。
春雷が握ってくれていた手の甲や掌には、今でも春雷の爪の跡が付いており、心なしか掌の熱まで残っているように感じられたのだった。
そんな自分の手を胸の前で大切そうに握りしめていると、誰かが部屋にやって来たのだった。
「睡蓮。起きたんだね」
「雪さん……」
雪起は足音を立てないように部屋に入って来ると、華蓮の隣に正座をする。
「気分はどう? 具合が悪いとか、必要な物は無い?」
「大丈夫です。あの雪さん……」
睡蓮が身体を起こそうとすると、すかさず雪起が手を貸してくれる。雪起に手伝ってもらいながら華蓮が上半身を起こすと、枕元にあった上着を肩にかけてくれたのだった。
「どうしたの?」
「雪さんって、男性……だったんですね」
中性的な美貌を持つ春雷の異母弟は、華蓮の言葉に儚げな笑みを浮かべたのだった。
「雪さんが連れて来た犬神の女の人、最初は産婆さんの助手さんだと思っていました。そうしたらその人が自ら名乗ったんです。『私は雪起の妻です』って」
「そうだよ。黙っていてごめんね。本当は睡蓮がここに来た時にすぐ話そうと思ったんだけど、言い出す機会がなかなか無くて……」
陣痛が始まる直前、産婆の指示に従って華蓮は部屋で横になると安静にしていた。
春雷も産婆に言われて必要な物を用意しており、一人になった華蓮は何となく気持ちが落ち着かなくて外を眺めていた。すると、家を出て行く雪起の姿を見かけたのだった。
どこに行ったのかと考えていると、すぐに犬神の女性を連れて戻ってきた。その後、陣痛が始まり、何も考える余裕が無くなったので、女性とは何も話せずにいたが、子供が産まれた直後に全身汗を掻いた華蓮の身体を清め、着替えを手伝ってくれた際に言葉を交わしたのだった。
「怒っていません。最初に言われていたら、きっともっとパニックになっていました。春雷や雪さんとも親しい関係になれなかったと思います」
思い返せば、春雷は一度も雪起を妹だと言わなかった。同じく雪起自身も春雷を兄とは呼んでいたが、自分を春雷の妹と称したことはなかった。全て華蓮が勝手に勘違いしていただけ。
春雷よりも高く華蓮よりも低い声と、春雷よりも低く華蓮よりも高い身長、そして女性と見紛うような愛らしい顔立ちやストレートの長い濡羽色の髪に、雪起は女性だと先入観を持ってしまっただけだった。
「ここに来たばかりの頃、兄さんに怯えた睡蓮が縋り付いてきたでしょう。そんな睡蓮を見ていたら言い出せなくなって……。それを見ていた兄さんも話さない方がいいって」
春雷に「初めて」を奪われたと知った時、部屋の外から様子を見ていた春雷を怖がって、雪起に抱きついてしまった。子供のようにずっと泣いていると雪起が頭を撫でてくれたので、甘えるようにされるがままになっていた。
そんな華蓮の様子を見ていた二人が気を遣ってくれたのだろう。
「それでも勘違いしていたことで、雪さんに迷惑を掛けたことに変わりはないので……すみません」
「謝らなくていいよ! わたしもようやく兄さんに恩返しが出来たから嬉しかったんだ。兄さんには子供の頃にたくさん助けてもらったから……」
「雪さんが春雷に?」
雪起は何度も頷く。
「子供の頃は今よりもずっと女の子みたいな見た目だったから、よく他のあやかしに虐められていたんだ。その度に兄さんが助けてくれた」
今でも女性のような容姿に加えて、華奢な身体付きをしているが、子供の時はもっと女の子に似ていたのだろう。華蓮たち大人の女性からしたら愛でたくなるが、子供からしたらそうは思わない。雪起を自分たちとは違う異質なものと見做して、排除しようとしたのかもしれない。
外見以外にもあやかしの中でも嫌われ者の犬神ということも少なからず関係しただろう。
春雷の過去も壮絶なものだったが、雪起も相当苦労したに違いない。
「『雪をいじめるな~!』って言いながら、いつも虐めてくるあやかしたちを追い払ってくれたんだよ。それがすっごくかっこよかったんだ」
「大変でしたね……」
「でもこのことがなかったら、わたしも兄さんを誤解したままだったかも。兄さんは本当は優しくて、頼りになって、わたしたち家族のことを誰よりも大切に想ってくれていて。この家に住んでいいって言われた時だって、自分から住むって言ったんだよ。その頃のこの家って、屋根は傾いてあちこち雨漏りもしていて、壁も崩れて隙間風が絶えなくて、どう見たって住めるような家じゃなかったのに。私たち家族のために無理して……」
雪起は顔を綻ばせながら、話しを続ける。
「父さんや母さん、弟妹、他の犬神やあやかしたちが兄さんを嫌っても、わたしは兄さんが好き。大好きな兄さんが幸せになるのなら、わたしもなんだってする。いつか兄さんが皆に認めてもらえるように……」
「お兄さん想いなんですね。雪さん」
「でもね、睡蓮が来てからの兄さんは毎日がとても楽しそうだった。笑うことが増えたし、明日が待ち遠しいって幸せそうな顔をしていた。今までは滅多に笑わなかったし、一日中土いじりばっかりしていて、話しかけても相手をしてくれなかったんだよ! 全部睡蓮のおかげ。わたしからもお礼を言わせて。ありがとう、睡蓮」
雪起に両手を握られる。華蓮の手を包む大きな手は、雪起が男性であることを表していた。
「私は何もしていません……。泣いて甘えてばかりいて……」
「わたしも泣いて甘えてばかりいたよ。結婚して子供が産まれてからもずっと……。父親としての自覚を持ちなさいって、周りから怒られてばかりいるよ」
笑わせようとしているのか、いたずらっぽく笑う雪起に華蓮も笑みを浮かべる。
「本当は睡蓮にもここに残って欲しいけど、人間は人間の世界に帰らないといけないんだよね……。子供のことはわたしや兄さんに任せて。睡蓮も元気でね」
「ありがとうございます。ところで、春雷と子供はどうしているんですか?」
「兄さんが面倒を見ているよ。呼ぼうか?」
「お願いしてもいいですか。二人に会いたいので」
「分かった。実はさっきまで兄さん泣いてたんだ。余程嬉しかったみたい。睡蓮との子供が産まれて」
「そうなんですか?」
「兄さんは誰よりも睡蓮との子供に会いたがっていたから……。あっ、この話は内緒にしていてね。兄さんの代わりに様子を見に来たのだって、泣き腫らした目を睡蓮に見られたくないって恥ずかしがったからなんだよ」
「分かりました」
立ち上がりかけた雪起だったが、腰を浮かせたところで何かを思い出したかのように顔を上げる。
「これはまだ兄さんにも言ってなかったんだけど……。睡蓮のお産の間、父さんもここで待っていたんだよ」
「春雷たちのお父さんが……?」
「心配だったみたい。三人のことが」
「心配って……。殺されそうになったんですよ。私たち!」
春雷の父親に首を絞められた時、もし春雷が助けに来てくれなければ、華蓮は危うく絞殺されるところだった。
華蓮の身に何かあれば、お腹の子供も無事では済まなかっただろう。春雷の父親は本気でお腹にいた子供ごと華蓮を殺そうとしていた。
今でも華蓮に向けられたあの殺意に満ちた目を思い出すと、本当に首を絞められているかのように息が出来なくなる。
「そうかもしれないけど、でも父さんは二人が仲睦まじい関係だって認めたんだと思う。子供が生まれた時にはもう何も言わなかったよ。ただ安心していただけで」
「安心……」
「これはわたしの考えだけど、父さんは眩しかったんじゃないかな。犬神と人間、生まれや種族が違っても二人は心から通じ合っているから。お互いに愛し合って子供を想って、本当の家族みたいで」
春雷の話によれば、春雷の両親は最後まで理解し合えないまま別れたという。
恋人がいながら子供を産むためだけに犬神に攫われた人間の母親と、犬神の仕来りとはいえ、人間界から「犬神使い」の血を引く女性を攫わざるを得なかった犬神の父親。
それぞれ事情があったとはいえ、もしどこかで分かり合えたのなら、華蓮たちのように親密な関係を築けたかもしれない。
春雷を含めた家族三人、心に傷を負うこともなかっただろう――。
「この『犬神使い』の女性を攫って子供を産ませるっている仕来りで、良い関係を築けた犬神と人間はほとんどいないんだ。だいたいは父さんと同じような状況で……。そもそも今の人間界では犬神を始めとするあやかしは空想上の生き物として思われているんでしょう? あやかしを信じる人も減って、『犬神使い』もほとんどいない。睡蓮のように自分が『犬神使い』の血を引いていることすら知らないって聞いているよ」
「そうですね。春雷たちと出会うまであやかし自体信じていませんでした」
「今まで作り話だと思っていたあやかしに攫われて、よく知らないまま子供を産めって言われても納得するのは難しいよね。それもあって、人間と犬神は上手くいかないものだと思っていたけれども……。でも二人は違った。父さんは二人に希望を見出したのかも。犬神と人間、何もかも違う二人でも分かり合えるって」
今度こそ雪起は立ち上がると、屈託の無い笑みを浮かべる。
「つまり父さんは二人の仲と二人の子供を認めたってことだよ。兄さんは睡蓮と子供を、睡蓮は兄さんと子供を大切にするから、産まれてきた子供が辛い目にあったり、これ以上兄さんが傷ついたりしないって分かってくれたんだよ」
「そうでしょうか……?」
「父さんも兄さんには冷たいように見えて、本当は兄さんのことを気にかけているんだよ。時々兄さんの様子を聞いてくるんだから……。意地張ってないで、自分で様子を見に行けばいいのにね」
苦笑しながら雪起が去って行くと、部屋の中が再び静寂に包まれる。しばらくしてゆっくりとした足音が近づいて来たかと思うと、ようやく目的の二人が華蓮の部屋の入り口に姿を現したのだった。