僕とリコはその日の内に電車に揺られていた。威圧するフェンスに囲まれた病院を抜け出すのは拍子抜けするほど簡単だった。僕らの電車は海岸線に沿って走っている。いつの間にか上がった雨に濡れた草木が西日に照らされて光っている。このローカル線の車両は2両しかない。車両も少ないが、この時間帯は乗っている人も少ない。リコはパーカーを着てフードを深くかぶっている。

「この列車かわいい」

「乗る人おらんからね」

 実際、僕ら以外にこの車両に乗っている人はいなかった。もっと広々と座れるはずだったが、僕たちはぴったりと隣合って座っていた。目的地にはあと15駅ほどある。もう10駅と言うところで買い物袋を抱えた70歳くらいの老婆が入って来ると僕らの正面に座る。老婆は人懐っこい笑顔で話かけてくる。

「デートね?」

「そうやとですよ」

「いいねぇ。若い子は羨ましいわ」

 老婆はリコの顔を覗き込む。

「彼女さん、美人さんやねぇ」

 リコは軽く会釈をしてフードの首元をぎゅっと持ち直す。

「ありがとうございます」

「どこ行くとね?」

「南に行こうかと思っちょります」

「ざっくりしちょるねぇ。駆け落ちみたいやが」

 僕は、はははと曖昧に笑う。

車内にアナウンスが流れる。

「本日はJR九州をご利用いただき誠にありがとうございます。当電車は都合により、次の財部駅でしばらく停車いたします。皆様のご理解、ご協力を何卒よろしくお願いいたします。ご迷惑をおかけしますことを心よりお詫び申し上げます」

 老婆は不安そうにこちらを見て来る。

「あらやだ、なんやろかねぇ」

 僕とリコの心臓はやたらとバクバクしていた。

「彼女さん、大丈夫やとね?なんか顔色わるいが」

 老婆がこちらに近づいてくると、リコの顔を覗き込む。リコはその視線に耐え切れなくなり、俯く。

「大丈夫やが、電車酔いするとですよ」

「そうやとね、私、酔い止め持っちょるよ。あとあれやが、暑いのにそんなの着ちょるからよ」

 老婆はそう言い終わらないうちにリコのフードを外してしまう。

「せっかく美人なんやから、顔だした方がいいがね」

 笑顔だった老婆の顔がどんどん青ざめていく。老婆は少しずつ後ずさりする。

「あ、あんた、それ、水化病やないとね!?嫌々、汚らしい!なんで出歩いちょるとね!醜い肌や!」

 老婆は捨て台詞を吐くと自動扉の横にある非常停止ボタンを押す。電車の1両目の半分ほどが財部駅のホームに掛かったところで止まる。老婆は逃げるように隣の車両へ駆け込んで行った。リコはフードを被りなおすと、僕の肩に頭をのせる。

「リコは綺麗やから」

 リコは僕の肩の上で頷く。また車内アナウンスが流れる。

「ただいま非常停止ボタンが押されました。お客様は降りになられず、その場で静かにお待ちください。お客様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします」

 僕とリコは何となく次の駅で何が分かるのか分かっていたような気がする。けど、口に出したら本当になりそうで僕らはずっと無言のままだった。

 ここは無人駅のはずだったがホームはやたらと騒がしい。改札の向こうでパトカーが3、4台止まっているのが見える。電車がゆっくり動き始めて全ての車両がホームへ綺麗に収まるようにして止まる。扉が開くと警察官が何人も立っている。警察官は僕らにゆっくりと近づいてくる。目の前に立つと事務的な口調で宣告する。

「月浜リコさんですね?あなたの外出は法律で禁じられています。あなたも外出を手助けしたということで罪に問われる可能性がありますからね」

 僕を見ながら言う。女の警察官がリコの腕を取って立ち上がらせる。それに合わせて僕も立ち上がり横について行こうとするが男の警察官に引き離される。

「僕も一緒に行きます」

「彼女は今から病院で隔離です。君はこれから署で話を聞かせてもらうよ」

 リコは女の警官に腕を取られて歩いて行く。

「リコ!すぐ会いにいくかい!」

 男の警察官に腕を抑えられる。リコは諦めの優しさで満ちた瞳で静かに笑った。

僕は男の腕を払ってリコの元へ走る。リコにあと一歩で触れるというところで、男の隊員に取り押さえられる。

「フウタ!」

 リコがこちらに駆け寄ろうとするが、隊員に止められる。

「リコ!すぐや!すぐ行くから大丈夫や!僕がおるから!」

 僕は右手を目一杯伸ばす。リコもこちらに駆け寄るが警官に抑えられる。抑えながらリコも腕を精一杯のばす。僕の小指にリコの小指が絡みつく。

「約束や!そばにおったるから!」

 今にも泣きだしそうな顔で何度もリコは頷く。警官が僕を引っ張る。堅く結んでいた僕とリコの小指が解ける。すぐにリコは女の警官に連れて行かれてしまう。僕は何度もリコに会いにいくからと叫んだ。駅のホームには行き場をなくした僕の声と蝉の声だけが響いていた。



 リコと引き離されてから僕は財部警察署でこっぴどく叱られた。長いこと説教をされていた気がするが内容は全く入ってこなかった。刑事罰とかにはならなかったが学校は1ヶ月停学になった。家に帰ってから、リコに会いに行こうと思って家を抜け出したが、病棟はいつもよりもずっと騒がしかった。警察の車両が何台も止まっていた。何の役に立っているのか分からないが大きなライトが古い病棟を照らしていた。あんな華奢な子にこんなに大人が寄って集ることないのに.僕らはただ海が見たかっただけなのに。近づこうにも近づきようがなかった。仕方がないので家に帰って布団に入ったが眠れないまま朝を迎えた。僕は朝刊を取りに行ってリコの名前を探す。探そうとしたが探すまでもなくリコの名前は一面に大きく載っていた。“水化病患者脱走!”の大きな見出しがついてリコの事について細かく書かれていた。今後は警備の見直しや警察の駐在が行われるということであった。地方欄のいつものところにも“月浜リコ(16) 経過観察中”とあった。

僕はポケットに小瓶を入れる。外はやたら蝉が鳴いていてうざったかった。また病棟に向かうが普段なら誰も立っていないようなところにも迷彩服が立っていた。僕は堂々としていようと思った。僕とリコが会うことを邪魔する権利は誰にもないはずだから。1人、2人、3人と警察官の前を通りすぎて警備員室に着く。そこにはいつもよりしゃんとした若い警備員がいた。僕は若い警備員に話かける。

「あの面会したいんやけど」

「すまんけど、無理やね」

 相変わらず若い警備員はバツが悪そうである。

「これ、月浜リコさんに」

 僕はポケットの小瓶を警備員に渡す。

「渡せばいいとね?」

「お願いします」

「分かった、名前聞いてもいいね?」

「フウタ、岡吹フウタです」

「岡吹フウタくんね、確かに預かりました」

「頼みます」

 僕は警備員に背を向けて、そこを後にしようとすると、なあと後ろから声を掛けられる。振り返ると若い警備員がこちらを見ている。

「この間はすまんかったな」

 警備員は深々と頭を下げる。僕も頭を下げる。蝉は未だに空気を読まずに鳴き続けていた。



 僕はそれから毎朝面会をしにいった。毎朝、追い返されているもんだから病院に張り付いていたマスコミが面白がって僕の家まで張り込むようになった。僕はマスコミには一言も話さなかった。父さんや母さんにも迷惑を掛けた。それでも二人とも僕の好きなようにさせてくれた。僕は毎朝通った。それでも1度もリコには会えなかった。



 リコが死んだのは、8月31日のことだった。



 僕がリコが死んだことを知ったのはその日の朝刊であった。前までならマスコミがいっぱいいて新聞を取りに行くのも一苦労であったが、もう飽きたみたいで誰一人としていない。いつものように一番初めに開く地方欄を眺めるとそこにはまだリコの名前があった。あるには、あったがそこにはいつもと違う言葉が名前に添えられていた。いつもと同じフォントで“月浜リコ(16) 死亡”と無機質にそうあった。僕は新聞をもって部屋に上がる。僕は何度も繰り返し読んだが、それはただリコが死んだということを確認していることと違わなかった。まだリコの小指の感覚は生々しいくらい覚えているのに、リコがいないというのが何だか不思議だった。また約束を破ってしまった。



 リコが死んでから一度もあの国道を潜る通路を通ることはなかった。サーフィンにも行かない。学校も停学だ。2学期が始まってから1週間くらい家に籠っていた。アンナが毎日会いに来てくれたみたいだが、顔を合わせる気にはならなかった。1週間経つが涙が流れることはなかった。自分の薄情さに驚いた。悲しくないのかと言われると、それもよくわからなかった。

 8日目の夕方に玄関のチャイムが鳴る。アンナが来たのだと思った。さすがに1週間も無視しているのも悪い気がして扉を開ける。そこに立っていたのはアンナではなく、リコの父だった。

「久しぶり」

「ご無沙汰してます」

 リコの父は何だか以前会ったときよりも穏やかな表情だった。

「元気かい?」

「はい、停学やからどこも行けんのですけど」

「君には迷惑を掛けたね。リコの葬式も終わったよ」

 僕が何も言えずにリコの父の顔を見ていると、リコの父は優しく僕に微笑む。

「リコがこれを君にって」

 リコの父は僕にあの小瓶を手渡す。受け取ると小瓶には水がゆらゆらと揺れていた。息がつまる。

「本当は君にもちゃんと面会でお別れしてもらって、それができなければ葬式でお別れしてもらうのがよかったんだけどね」

 リコの父は僕の頭を強くなでる。

「色々厳しいんだよ」

 僕はまた何も言えない。僕の小指にはリコの白い小指がまだ絡みついている。

「リコとちゃんとお別れしておいで」

「……ありがとうございます」

 ややあって、リコの父が僕にハンドタオルを差し出す。差し出されてから僕は自分が泣いていることに気が付く。嗚咽でうまく言葉が出て来ない。ハンドタオルを受け取るが涙は拭けずに小瓶と一緒に握り占める。リコの父は僕の肩を軽く叩いてその場を後にする。

やっとリコに会えた。小瓶の中のリコはあの瞳のようにどこまでも透明に澄んでいた。



 今年の残暑は緩やかだった。僕はホークスのキャップを被って電車に乗っている。リコと2度目のデートだ。小さな瓶は僕のポケットの中にある。今日の電車も人は少ない。乗客は何事もないように電車に揺られている。車窓からみえる畦の一面に真っ赤な彼岸花が咲いている。電車はダイヤ通りに僕を目的地へと運んだ。電車から降りると潮の香りがした。この香りはどこで嗅いでも同じだ。駅から少し歩くと松林に差し掛かる。クロマツに囲まれた狭い道を抜けると明るい海が見えた。

 僕のポケットにリコがいる。空は高く澄んでいる。遊泳期間の終わった海に人影はなかった。この海は地元の海と違って水も澄んで魚も多く、浅瀬の広い穏やかな海だ。砂も綺麗でゴミはもちろん牡蠣殻なんて落ちていない。僕は波打ち際に腰かけ、ポケットから取り出した小瓶を柔らかくなった日差しにかざす。リコを通って光はキラキラと揺れた。

「この海は綺麗やろ」

 リコを通して見た海は穏やかに打って寄せている。

「やっと一緒に来れたな」

 しばらくぼんやりと海を眺める。僕は立ち上がって砂を払う。スニーカーと靴下を脱いで、デニムの裾を捲り上げる。海水に足をつけるとひんやりと冷たかった。そのまま少し奥の方へと進む。

「また泳ぎにくるかい」

 僕はリコを海水に着けて、ガラスの小瓶の栓を取る。僕の手に海水が打ち付けるたびに、僕の小指からリコの小指がするすると離れていくのが分かった。

「てげ、綺麗だね」

 リコの声が聞こえた気がしてあたりを見渡すが誰もいない。ガラスの小瓶へ視線を戻す。リコは滲んで見えなくなっていた。

                                〈終〉