僕はあの後、いつもの時間にプールに行ったが高いフェンスの向こう側にリコを見つけることはできなかった。その後も何度か学校の午後の講習をサボっていつもの時間に会いに行ったが、リコと会うことはなかった。リコにさよならと言われてから一週間が経った。この一週間毎日新聞をチェックした。新聞は“月浜リコ 経過観察中”以外の情報を与えてはくれなかった。ただリコがまだ生きているというのは、得体のしれない安堵感を僕にくれた。今日は日曜だ。今日も会いに行ってプールにいなかったら、リコの病室に行こうと思った。外は土砂降りだった。

 国道を潜る道は今日も湿度高く薄暗かった。道を抜けるとあの高いフェンスが見える。傘を打つ雨音はまた一段強くなる。フェンスの向こうには今日も誰もいない。

僕はここに初めて来たときのように、警備員室のガラス窓をノックする。この間の若い守衛が窓を開ける。目を逸らしたら負けのような気がしてずっと目を見ていた。

「あの、面会したいとですけど」

 若い守衛は気まずそうに答える。

「約束はしちょりますか?」

「いえ、なにも」

 若い男はため息をついて据え付けてある電話を取って、番号をプッシュする.

「こちら守衛室、面会の方がお見えです。…………、高校生くらいの男の子です。…………はい、はい、わかりました。失礼します」

 若い男はこちらを見る。

「今からこっち来るみたいやから、少し待っとってください」

 そう言ってぴしゃっと窓を閉める。僕は病棟の方へ向き直って傘を握りなおす。病院をちゃんと見たことはなかった気がする。壁は薄黒く汚れており、所々塗装が剥がれてしまっている。窓の数からして三階建てだろう。こんな大きな建物がたった二人の病人のために建っている。人が過ごすことで空気が流れるのだとしたら、ここは淀んでいる。傘は雨に打たれて大きな音を立てている。病棟の両開きのガラス戸が開いて人が出てきた。ただそれはリコではなかった。四十歳くらいの男が大きな蝙蝠傘を持ってこちらへと歩いてくる。その男は僕の前で立ち止まった。そして、疲れた顔で話かける。

「君がフウタ君かい?」

「はい」

 僕をフウタ君と呼んだ男はその薄くなった頭を片手で掻いている。

「リコの父です」

「リコさんは元気やとですか?」

「安定しているよ」

「なんで最近泳がなくなったとですか?」

 リコの父は悲しいものを見るときの目を僕に向ける。

「君はリコの事が好きかい?」

「……はい」

 彼は僕の返事を聞き、目を逸らして笑った。

「君も女で苦労するな」

 リコの父はずっと遠くを見ているようだった。

「僕もね、君くらいの時にリコの母親と結婚したんだ。それでリコが産まれてね。リコを産んで彼女はすぐ水化病で死んだよ。リコは本当にそっくりだ」

 リコの父親は誰に話しかけているのか分からなかった。しばらくして、やっと僕の目を見つけたみたいに話し始める。

「付いてきなさい」

 リコの父は僕に背を向けて病棟に向かう。リコの父は振り返って僕に言う。

「話相手くらいなら許そう」

 二つの傘の音がより一層大きくなる。



 1人用にしてはやたらと広い部屋のベッドに、リコは上半身を起こして座っていた。ベッドから雨を眺めている。てろっとした質感のパジャマを着ており、首元の透明なところはあの日泳いだ時よりも範囲が大きくなっているようであった。リコは僕を見つけると力なく笑う。リコが目を合わせてくれないのが分かる。

「もう来ないでって言ったのに」

 僕はごめんと言い、彼女のベットの横の椅子に腰かける。

「さっきお父さんに会ったよ」

「陰気だったでしょう?あの人、私が不幸だと思っているのよ」

「いい人やがね。一旦家に帰るって言いよったよ。……リコ、この間はごめん」

 僕が頭を下げると、リコは小さく首を横に振る。

「許してあげる」

「ほんと?」

 僕は頭を上げるがリコの視線は下がったままだ。

「願い事聞いてくれたらね」

「なんね?」

「んー、思いついたら言うね」

「なんや、それ。……なんで泳いじょらんかったと?」

「ちょっと悪化しちゃって。けど心配いらないよ。今は安定してるんだって」

 リコの声色は何だか今の天気みたいに暗かった。

「なんかあったとね?」

 リコはベットの淵を手で軽くたたく。

「ここに座って」

 僕は言われるがままにそこに腰を掛ける。

「私、醜くない?」

「綺麗やって」

 リコは目線を落としたまま、パジャマの前のボタンを白くて細い指で1つ1つ外していく。僕は慌ててリコから目を逸らす。

「急になんや」

「見て?」

「なんしよっとね、はよ、着らんね」

「お願い、見て」

 リコの口調が強くなる。僕はゆっくり、リコの方を見る。リコの体はもう首筋以外も透けていた。左肩から右肩まで、乳房を通って臍の上あたりまではすでに水となって蛍光灯の光をキラキラと透過させている。

「綺麗やが」

 リコはやっと僕の目を見てくれる。その目に涙が溜まったかと思うとリコは僕にもたれ掛かってきた。リコは僕の体に顔を押し当てて静かな泣き声を上げ始める。僕は何か言おうかと思ったが、彼女の肩を優しく抱くことしかできなかった。リコの肩はそっと触れないと今にも崩れてしまいそうであった。しばらくその態勢でいるとリコが消え入りそうな声で話始める。

「体が、どんどん水化してくるの。私、わかってたはずなのに。ずっと分かってたのに。……私、こわいの」

 リコの手がぎゅっと僕のシャツを握る。

「僕がそばにおるから」

「ほんとうに?」

「リコとの約束はもう破らんよ」

 涙で濡れた瞳でリコは僕を見る。

「願い事、思いついた」

「なんね?」

「私を海に、綺麗な海に連れてってくれる?」